和樹の与える、杏華の試練
杏華は無言で、虚空を見つめるような焦点の合わない視線を和樹に向けていた。
「…………」
血が、か細くしか流れない。
冷えた血が体を巡り、心をも冷たくさせる。
「……ま。ここまで全部、お前がオレのことを好きならば――と言う話だ」
「……っ」
――好きなんかじゃないっ!
杏華の中に眠る子供染みた意地が、その言葉を吐き出すことはなかった。
それよりも先に――それでも躊躇なく否定していれば、杏華の方が先に発声していただろうが――和樹が苦笑いをしながら、再び心を凍えさせるようなことを言ったからだ。
「……ふっ。仮に嘘でも、咄嗟にオレのことを嫌いと言えるのなら――それくらいの浅い感情なら、これ以上オレに踏み込まない方が良い」
和樹の乾いた笑いに、杏華は思わず尋ねてしまう。
「……嘘で、あんたは満足なの?」
「満足、とも違うな。ただ、その方が気が楽だとは思う」
「…………」
気が楽――それは、その通りなのだろう。
彼の本心は、先ほどから何度も口に出されている。先ほどから語られているのはすべからく、彼の本心なのだから。
――自分の持っている想いは、彼の信念とどちらが優先されるべきだろう。
「ぅ……あ」
答えに窮した杏華は、縋るような目で和樹を見つめ、泣き出しそうな顔で嗚咽を上げた。
「……っ」
何も言えない自分に腹が立つ。それ以前に、何もできないことに対して、無力感に苛まれる。
――自分は一体、どうしたいのか。
和樹の心労になってまで、和樹と共に居たいのか。
和樹のことを思うが故に、和樹のことを忘れたいのか。
――その答えが出る前に、今度は優しく、和樹は杏華の頭をそっと撫でた。
「…………。答えは出ねえ、か。まぁ、仕方がない」
「……ぁ」
何が仕方がないのだろう。
答えが出ないくらいの甘い覚悟ならば、忘れろと言いたいのだろうか。
「い……や……っ」
「ん?」
「忘れたく……ないっ」
――あぁ、そうだ。忘れたくなんてない。
好きになった。本当に、初めての相手なのだ。
杏華は泣きじゃくるように和樹の裾を掴み、首を振るった。
「い、や!」
初恋は、実らない。だから、なんだ?
実らなければ、意味はないのか?
その経験を忘れても、良いと言うのか?
――そんなことは、初めて恋と言うものを知った杏華には耐えられなかった。
だから、和樹が『それでも諦めて、忘れちまえ』と言ったとしても、杏華は子供のように、理屈を合わせずに首を振るだろう。
そんな杏華を見て、和樹は優しく笑うと、板張りの床についていた杏華の手をそっと引き上げる。
「別に、今すぐ答えられないからどうとか言わねえよ。むしろ、その為に呼んだんだからな。今『一生ついて行きますっ!』とか言ってたら、脳天ぶっ叩いてた」
「……?」
疑問を浮かべる杏華に対して、頭を掻きながら、決まりが悪そうにする。
「杏華。お前の命、明日一日、オレに預けて欲しい」
「……は?」
あまりに唐突な、あるいは限定的なのを除けば求愛とも取れる言葉に、杏華は言葉を失った。
和樹もあらかじめその反応を予期していたのか、すらすらと説明に補足を加える。
「明日、オレは命を懸けた仕事場に行く。元々その為にこの辺りに来ていたから、それが終わればすぐに家の方に戻るつもりだ」
「……え?」
「驚くこともないだろう? オレのことを知っていたら、いつまでもいるとは思っていなかったはずだ」
「……ぁ」
和樹の言葉に、杏華は今更ながらにその可能性に行きついた。
今更――と言うよりは、杏華自身、無意識のうちにその可能性を考えるのを避けていたのだ。
「…………」
無言を貫く杏華の心情――信頼する、心構えに対する指南者が居なくなると言う心細さや、想い人が居なくなると言う喪失感――が、思考を妨げていたことを察した。
自分にとってすでに目の前の男性の存在が当たり前とされるほどに、無二の存在となってしまっている事実を、苦虫を噛んだような心地で受け入れる。
和樹もそれ以上追及せずに、今伝えることだけを口にした。
「……まぁ、いい。ともかく、その仕事場にお前を連れていく。そこでのオレ――つまり、本来のオレを見て、『そいつ』に一生を捧げるつもりがあるのなら、その時はお前の好きにするといい」
ただし、と和樹は一度息を継ぐと、厳しく睨むでもなく、優しく注ぐでもなく、自らの存在――その言葉を刷り込むように、ただ見つめた。
「その場合、ちゃんと今いる学校を出て、大学で学を身に付けて、剣でも玄造さんに試合で勝てるようになって、そこでようやく、オレ達の組に入れてやる」
杏華はしばし、覗き込む和樹の瞳を見つめ返して、その瞳に宿る、澱みなく、けれど透き通った訳でもない――黒曜石のような綺麗な光を眺め、そっと目を離した。
そしてどこかいたずらっぽく笑うと、そっと口を開いた。
「それって、けっこう長いわよね?」
「言ったろ? オレのところに来るのなら、全てを捨てる覚悟でいろ、ってさ」
――まさにその通りだ。
自分に一端の――平穏な――幸せを与えることは出来ないと公言する男を想い、大学の間――最期のモラトリアム――に、彼氏の一人も作らずに勉学と剣術に磨きをかけ、更にその後も、所属するのは暴力団。今後の人生の一切を、悦楽から切り離すような選択だ。
そこまでやる必要があるのかと言うほどまで、徹底された悪条件――だが、それでも。
「……分かったわ」
杏華はピシッと静かに立ち上がって、そう答えていた。
「明日、全てを決めるまでもなく、今ここで宣誓するわ」
――必要ねえ。驚いた和樹がそう口にするよりも早く、杏華は次の言葉を紡いでいる。
「――わたしは、あなたに、一生を捧げます」
そう言葉にする杏華の想いは、どれほど深いのだろう。
――いや、そうではない。
「…………」
覚悟が固まった訳でない事実を如実に表すように、杏華の瞳は今も静かに揺らいでいる。
それでも、その目の光は強く、今和樹が何を言ったところで言葉を撤回しはしないだろう。
この光景には憶えがあった。和樹は苦笑し、頭を掻いて、同じく立ち上がる。
「ったく。……わかったよ」
「……ぁ」
先ほどの宣誓を取り下げられると思っていたのだろう。和樹の一言に目に見えて分かるくらい安堵した杏華が、我知れず息を吐いた。
「その代わり、今言ったからって気にせず、いつでも取り下げるなら取り下げていいぜ? 勿論、明日以降……大学で良い男を見付けた時でもな」
この言葉に杏華は目を丸くし、次にムッと頬を膨らまし、最後に小さく笑った。
この光景までは覚えがないし、もしかしたら先ほどの場面でも、内心は異なっていたのかも知れないが、先ほどまでの光景は和樹が暴力団入りを願い出た時に酷似していた。
「…………」
和樹が父親に盃を交わすことを願い出た時は、今とは違い時間がたっぷりあったから、何も知らずに連れ出された後に父親の『仕事場』を見せられ、想像以上の現実に打ちのめされそうになった。
その時には、楔として『なる』と宣誓しておいたことが、ささやかながらに意外と効いたのだ。多分、杏華の今の宣誓も、同じようなものを意図してのことだと思う。
「……それじゃ、戻るか。明日連れて行くから、剣道部の方は休めよ? 四時には帰れ」
「四時? ……うん、分かったわ」
早すぎる時間に一瞬疑問を感じた杏華だが、すぐに和樹を信用して頷く。
その様子に微笑んだ和樹はそのまま道場を後にし、杏華を携えて家に戻った。
「よし……んじゃ、風呂にでも入るか」
何気なく呟いたその言葉に杏華が顔を少し染めたことには、なるべく無視した。




