汚れたやくざと、きれいな少女
杏華が道場に訪れたのは、それから十分程度の後の事だ。
風呂上がりに縁側近くで涼んでいた杏華だが、汗まみれでリビングに入ってきた道着姿の玄造に呼ばれ、冷えた空気を浴びながら道場まで歩いた。
道すがら、玄造は杏華を何度も振り返りかけ、その都度首を正面に戻す――と言う、玄造らしからぬ歯切れの悪い――態度が、杏華にとって疑問だったが、振り返らない玄造が『和樹が呼んでいる』と言うことを伝えたために高揚した気分で、その疑問は不安に変化することはなかった。
そして杏華が道場に入った時と、和樹が床から起き上がった時は同時だった。
「よぅ。よく来たな」
「呼ばれたからね。……それで、何?」
常と変らず、むしろ若干突き放したような言い方で杏華は高揚した気持ちを誤魔化しながら訊ねる。対して和樹も苦笑しつつ、杏華に座るように掌を水平にし、上下に動かした。
「オレは性格上、プライベートじゃまどろっこしいのは嫌いでな。有耶無耶にするのなら別にいいんだが……」
「その言い方は、まどろっこしいと思うのだけど?」
「……。ま、その通りだな」
――よしっ、と気合いを入れ、和樹は杏華に単刀直入に切り込んだ。
「オレ、明後日辺りにこの家を出るから。それについて、訊きたいことが一つあるんだ」
「えっ?」
その事実だけでも杏華の試行はパンク状態であったと言うのに、更に続いた内容は、杏華にはとても看過できるものではなく、受け流せる代物でもなかった。
「ズバリ聞くぞ? ――杏華、オレのことが好きか?」
「っ? はぁっ?」
この驚愕は『何を言われたのか分からない』と、理性が処理を放棄した副産物。
切り込む――という表現通り、和樹の放った言葉は杏華の心を取り繕う暇もなく開けっぴろげにすると、杏華がとりなす暇もなくその中へと入り込む。
「まぁ、オレの勘違いならそれでもいいんだ。というより、その方が良い」
「っ……。~~っ!」
杏華の理性が言葉を取り戻すよりも先に、ずけずけと和樹は踏み込んでくる。
理性で言葉を忘れても、頭はきちんと和樹の言葉を処理している。
「オレは暴力団員で、お前は一般人。住む世界が違っているんだからな」
「……っ」
まるで夢を見ているかのように、高速で流れていく状況に、呆然と杏華は身を置いた。
和樹は構わずに、淡々と言うには苦渋が滲みすぎた声をつらつらと流す。
「お前は掛け値なしにいい女だ。オレなんぞよりもいい男と、いつかは巡り合えるだろうし、一端の幸せも手に入れられるだろう。だからこう言う。――もしオレのことをこれからも好きでいるつもりならば、いずれ掴むであろう一端の幸せを、全て諦めるつもりでいろ」
全てを追い立てるように、和樹は告げる。
自分と歩むその先には何もないと告げるように、和樹は話す。
それに対して、今まで無言だった聞き手はようやく動きを知った。
「っ。……言いたいことを――っ!」
「それが、君の言葉か――和樹君?」
杏華は玄造の言葉に驚き、玄造は杏華の言葉を無視した。
「ああ、そうだ。オレに付いて来たって、一端の幸せなんざあげられねえ」
「……それは、君が与えるものだろう。君が与えようとさえ思えば、誰にでも与えられる」
玄造の言葉は、和樹が自らの責任を放棄することに対して向けられていた。
対して和樹は、玄造の言葉を吟味するまでもなく、自らの身勝手さを知っている。
「……オレの幸せは、全部親父から与えられたもんだ。親父はてめえの幸せなんぞとは無関係に、オレに幸せをくれた。……そういう存在に、オレはなりてえ」
和樹の言葉に、玄造は疑問と相槌を兼ねて言葉を発する。
「結構な志じゃないか。……それが、幸せを与えないことと、何の関係がある?」
「オレ自身、まっとうな人間じゃねえからな。幸せにできるできねえはともかく、オレは『誰かの為に生きる』ことはできねえんだよ。死に向き合った絶望的な二者択一の状況だとして、残していくやつらのことを勝手に信じて――生きようとはせず、誰かを生かすために死に向かう。――あいつらなら大丈夫、って勝手に信じてな」
「……っ」
「っ……!」
和樹の言葉に、玄造だけでなく杏華までもが口を閉ざした。
和樹は二人が黙り込んだのを見届けてから、さらに口を開く。
「――とはいえ、オレは何も、滅私奉公できるような聖人君子じゃない。ただのちっぽけな人間だ。もっと突き詰めれば、汚く穢れた人間だ。だが、ロクデナシには違いないが、誰かに好きと言われるのは嬉しいし、その分そいつには報いたいとは思う」
和樹は微笑みながら立ち上がると、ただ驚いているように見えて、実は泣きそうな顔をしている杏華の目の前までやってきて、その頭をくしゃりと撫でた。
「……ただ、さっきも言ったようにオレは暴力団員で、綺麗な人間じゃねえ。それに、いつ死ぬともわからねえ人生も送っていくって部分は、変えられねえ――それだけだ。分かったか、杏華?」
杏華のすぐそばで控える玄造は、ジッと和樹を見ていたが、やがて諦めたようにフイッとそっぽを向くと、その場から立ち去った。
もともと、これから杏華に切り出す話は玄造にしてあるし、和樹の考えを杏華に諭すのを聞き届けるように進言していただけだから、もう言うことはないと判断したのだろう。
――これで、杏華がどういった行動に出るかは、杏華に任せたと考えていい。
「……わたし、は」
杏華は玄造が退室したことにも気付かずに、ただ自身の頭が真っ白になっていくのを感じた。




