翌朝の鍛錬
朝の鍛錬がある道場の朝は、部活動に入っていない普通の学生と比べれば幾分も早い。
「んっ……! 朝、ね。あいつはもう、起きてるかしら?」
昨夜は遅くまでお酒を飲んでいたようだし、起きているはずはないか――と考え直しつつ、六時前に起きた杏華はベッドから身を乗り出して、廊下へと出た。
先週末に負ったおなかの傷は、もうすでに癒えている。
心に負った傷も、昨日の騒動以来は折り合いが付くようになっていた。
そう考えれば、あの復讐には意味があったのかも知れないが、それでも当時の心地と今の想いを知ってしまった以上、昨日に戻ったらもう一度復讐するかと問われれば否と答えるだろう。
――何も残らない復讐よりも、心を埋めてくれる何かの方が百倍重要な要素だったのだ。
「……一応、声を掛けてあげようかしら」
和樹の眠っている部屋は、杏華の向かいにある書斎だ。
中にあるものは机と椅子も含めてほとんどない。布団を敷けばほとんどスペースが無くなる狭い空間ではあるが、即座に使える部屋はそこだけだった。
父が道場を開いた時、名簿や練習メニューを組み立てる為の部屋だったのだが、パソコンと言う便利なものが出来たおかげでその存在意義が急速に失われた部屋なので、書斎と言うより、元書斎だ。すでに意義の喪失が完了しているのである。
「……ううん、もう少し寝かせてあげようか。いや、でも、一応門下生と言う扱いだし、起こした方が――」
「さっきからぶつぶつ何言ってんだ? オレならもう起きてるから、お前もとっとと着替えろよ」
「ひゃわっ!」
まだ部屋で寝ていると思っていた当人から突然背後から声を掛けられて、比喩ではなく飛び跳ねて驚く。数センチ浮いた体が落ちた衝撃が木製の廊下に響いては、どんだけ驚いたんだとまた驚いた。
恐る恐る振り向く杏華に向けて、呆れた顔の和樹が、朝早くから昨日と同じスーツ姿でため息交じりに呟いた。Yシャツの方は取り替えているようだが、それ以外は昨日と同じらしい。
「……どんだけ驚いてんだよ? オレはあれか? 未確認生命体か何かか? ちゅぱなんとかか?」
「うぅ……いいでしょ、別に。たまには私だってびっくりするわよ」
ふぅん、たまにねぇ……とまじまじと見つめる和樹の視線が妙に気恥ずかしくて、いたたまれない。
今なら羞恥で顔が真っ赤になる漫画的表現も理解できる。あの子たちはこんな目にいつもあっていたのか。微笑みながら見ていてちょっとごめんなさいと、心の中で謝った。
「うぅ……ほらっ、行くわよ!」
「へいへい。ったく、気丈だねぇ」
にやにやしながらついてくる和樹を置き去りにするように早歩きで進んだが、和樹は歩幅を大きくとって、すすっと後からついてきた。
何故だか和樹がついてきていることが少しだけ嬉しくて、心が落ち着いた。
道場へと着く頃には、いつもと変わらない気持ちで正方形の道場へと足を着けた。
「おはよう」
「おはようさん」
杏華に続いて和樹も声を上げる。対して静集中をしていた祐人と、すでに瞑想を終えたらしい玄造からも声がかかる。
「おはよう、姉さん。……和樹さんも」
どこかつっかえたような祐人の挨拶に、僅かに首を傾げつつも杏華は普通に返した。
「おはよう」
そしてノータイムで挨拶を返した祐人に向かって、和樹は茶化すように声を上げた。
「オレはついでか、祐人? ……ははぁ。さてはお前、お姉ちゃんっこだろ」
「おはようございます、和樹さん! これで満足ですかっ?」
本当は、昨夜か明朝に玄造から話を聞いていたので言葉につっかえたのだろう。
だが和樹は、それを察しつつもあえておちゃらけて、僅かなしこりを流し去った。
「おうよ。……あと、ちゃんと集中しろよなー」
集中を乱した人が何を言っているんだ、と恨みがましい視線を少量は杏華から、多くを祐人から浴びながら、和樹はそっとその隣に音もなく正座した。
「…………」
「っ」
「ふむ」
座したその瞬間に、すでに微動だにしない和樹を見て杏華は息を呑み、玄造もまた感嘆の声を上げた。
「すご……」
思わず文句も引っ込んだようで、唸るように祐人も感嘆の声を上げる。
確かに、人にものを言うだけあって、見事に練達された集中力だ。己との違いが分かる為、祐人も杏華も何も言えなくなった。
――その後、少ししてからいつも通りに素振りや型の稽古を軽くこなして、朝の鍛錬を終える。その間に全員、和樹の見事なまでの磨かれた腕前を改めて噛み締めていた。




