湯上がりの月の下
道場なので檜風呂のような小洒落た(?)浴室を期待したのだが、木製のすのこがある以外は普通の浴室で一日の疲れを、昨日野宿した分までじっくりと抜き出してから、和樹は風呂をあがった。
温まり、血の巡りが良くなった体は熱く火照っている。体から熱が浮かび上がり、そして悩ましげな息と言う媒介を通って体の外へと出ていく。
「……ふぅ」
「きゃっ!」
少しのぼせ気味に赤らんだ顔でリビングへと戻ると、杏華のらしくない女の子のような小さな悲鳴が聞こえた。
「? おう、どした? 妙な声出して……。風呂あがったから次入っていいぞ?」
「……何というか、家族以外の男の人の湯上りって――」
最後の方はぼそぼそと言葉になっていなかったが、俯きそうな仕草から鑑みるにどうやら照れているらしい。からかおうとも思ったが、今は機嫌がいいし、何より少し体を冷ましたかった。
そんな風に考えている内に、からかう間もなく杏華が「じゃあ、次はわたしがお風呂に入って来るわ……ね?」と、何故か自信なさげに顔を赤らめて言うので、つい「とっとと行って、オレのだし汁に浸かってこい」と冗談交じりに追い払う。
「うぅ……!」
背後で羞恥心に煽られた杏華がドタバタとリビングを出るのを見るまでもなく確認して、「結局からかっちまったな……」と反省しながら掃き出し窓から外に出る。靴は、備え付けられていた下駄を拝借した。
「涼しいなぁ」
夜半も深くなり、森に近い山の中に立つ竜胆家は、小さく囁く黒の中に包まれたような心地がして、中途半端に周囲に気を配るとどうにも落ち着かなくなる。
これで野生動物でもいればいくらでも気配を紛れ込ませられそうだと考え、はたして野生動物と市内の野良動物とを同列に考えてよいものかと思案する。
野良犬の気配位ならいくらでも見つけられるが、野良猫ともなると少し難しいし、野生動物は更にその上を行くだろうから――などと取り留めもない事を考えていると、背後から声がかかった。
「……のぼせたのか?」
「あー……ま、ちょっとな」
深く落ち着いた玄造の声に、和樹は振り返って曖昧に答えた。
冬も間近の夜の空気は、流石に冷たい。のぼせていなければ――いや、のぼせていたとしてもあまり長居はしたくない。
和樹は空を見上げて、何かを見つめるような笑顔で自然と口を開けた。
「月見でもしようかと思ってな」
和樹の言葉に、玄造は少し意外そうな顔をして空を見上げる。そこには半月から少し満ちているだけの、中途半端な楕円形の月が見えた。
「満月にはまだ早いが?」
「けど、酒を飲むときはやっぱり月見酒だろ? 内緒話を部屋ん中でやるわけにもいかねえだろうしな」
「…………」
ニッとお月さまのように優しく笑う和樹に、玄造が息を呑み、目を開く。
和樹の手には何もなかったが、玄造の手には二つのお猪口があった。だが、酒はない。
気付かれたことに対する動揺は、意外なほどに早く消え失せた。本当はある程度、覚悟していたのだろう。
どうやら彼は、玄造よりも上手のようだ。やや諦めたように、日頃の修行により出来上がった厳つい顔を僅かに崩して、肩を竦めるように呟いた。
「私としては、まじめな話に酒は不要と思っているのだがね」
「ハラの内を明かすには、酒は必須だと思うがな。理性を崩して初めて見せる本性もある。酒は香織さんが用意しているのか」
台所の方からこちらを窺う気配がある。
事実を指摘され、玄造は肩を竦めて縁側の窓縁に腰掛けると、台所の方に手招きをして酒を持ってこさせた。
「君も掛けたまえ」
ああ、と簡潔に応えて和樹も縁側に腰を掛けた。香織が持ってきた熱燗入りの徳利から、二つのお猪口に酒が注がれる。
香織は自身の仕事を終えると、まず和樹を見定めるように眺め、次に玄造に心配そうな視線を送り、席を外した。それを待っていたかのように、玄造は重たい唇を開く。
「……話の内容は分かっているのかね?」
「分からないほど鈍くもねえさ。……俺が暴力団関係者、ていう件について……だろ?」
――むしろ食事の席に話さなかったことが少し意外だったくらいだ。と、付け加えると、玄造は無言で視線を二階へ送った。それだけで、和樹はその理由に見当をつけた。
「子供らには聞かせたくねえ……か? どのみち、俺が暴力団関係者だっつうことは、知らせといた方が良いだろ。杏華の方には、もう言ってあるしな」
「全く、君と言う人間は……。あの子らには少し荷が勝ちすぎる事実だと思うがね」
少し辛そうに、玄造が視線を下げた。彼は何を考えているのだろう?
和樹と言う異分子を招き入れた責任? それとも単純に、事実を知った時の子供たちの不安? あるいは、今後のことを考えた後悔かも知れない。
――何にしても、彼と同じ父親と言う立場でもない上に、顔を合わせて一日も経っていない和樹が知るにはその議題は難解すぎた。
だからこそ、無責任になれると言うものだ。そんなものを気遣うくらいならば、当人たちを直接なり間接なりで、支える方が良い。
気遣いは相手の底力を生むが、気遣いそのものに力はないのだ。
「ま、大丈夫だろ」
「……ずいぶんと身勝手な物言いだな。責任の半分は、君のものだと思うが?」
「半分どころか、九割九分俺の責任だろうな」
けらけらけらと笑いながら、注がれる半眼の視線を受け流してお猪口の酒を一息に煽る。
「ぷはっ……。祐人の方は、見た感じもういい大人で、何より男だ。多少重たいものくらい、堂々と受けたって見せるさ」
――流石はあんたが育てた男だな。と、玄造に向かいにやりと笑う。
玄造は素直に称賛されたのだろうと言う直感と、素直に受け取れない理性とで、極寒に冷えた体に発熱した新品カイロを引っ付けた瞬間のような、むず痒いような心地を味わいつつも先を進めた。
「杏華の方は?」
その名前が出た時、和樹は先ほどよりもさらに深く、まるでささいな宝物を見付けた少年のような純朴さを持つ笑顔で、にやりと笑った。
「……ありゃあ、良い女だ!」
その台詞を言うと、徳利からさらに酒を注ぎ、すぐさま一息に煽る。
決してアルコール度数の少なくない日本酒が、あっという間に和樹の喉を通り過ぎた。
ぷはぁっ! と、先ほどよりも大きく息を吐いた和樹が、目を丸くして、次に娘を誉められた嬉しさから頬を緩めた玄造に、勢いに任せて更に続ける。
「ふつう女っつうのは、よええ生き物だ。男がつええ訳じゃねえ、女がよええのさ。だがま、あいつはそこいらの男よりよっぽどつええ! オレほどじゃねえがなっ!」
「私が鍛えたからね。そこいらの男に負ける道理はない。……最後の台詞が無ければ、君の人格は『自惚れ』と言う評価を避けられただろうに」
「自惚れちゃいねえよ。……と言うのも、自惚れなんだろうけどな」
良く分からないことを言う和樹の笑顔は、アルコールが回ってきたのか照れたように上気していた。
その表情のまま徳利から酒を注ぐと、ひんやりと冷たく頬を撫でる夜空を眺めた。
そこには昔から変わらぬ光を放つ月が、皓々と輝いている。
「…………」
僅かに笑んだまま、お猪口を手に持ちながら、酒を煽るでもなく欠けた光を眺める和樹は、不思議な雰囲気を纏っている。
まるで神様と自分の距離を考えているような、途方もない思考を嬉しそうに考えているようだ。
「どうかしたのか?」
「いや、何でもねえ」
そう言って、和樹は再びお猪口に口を付ける。ちびりと飲んでは、花柄の陶器から口を離す。
ぼんやりと、今度は夜の闇を眺めて、興奮が消えた口調で言葉を紡いだ。
「……自惚れちゃいねえよ。ただ、対等じゃないように思わせてるだけだ」
自嘲気味に笑う和樹に、玄造が疑問を重ねた。
「それは自惚れではないのか?」
「だろうな」
「? 良く分からぬが……」
要領を得ない和樹の言葉に、酒に浮かぶ光を眺めて僅かに思案する玄造は、やがてありきたりな言葉を口にした。
「……自分を追いつめている、と言うことか」
「そこまで悲観的じゃねえよ」
ただ、誰かのの支えになるには、相手より少しだけでも強くある必要があると思うのだ。それが事実であるかどうかは別として。
――そう思うこと自体、多分自惚れと言うものなのだろう。
「……強く見せた方が、色々と得ってだけだ」
「なるほど」
納得したような、まだどこかつっかえているような、神妙な面持ちで玄造は引き下がった。無理もない。和樹自身、この信念の大元の感情を理解してはいないのだから。
彼は、中途半端に語られた言葉と、自身で見る和樹と言う人間から、一体何を見るだろう。
それを聞く頃には、多分オレはここには居ないのだろうな――そう思うと、自然とお猪口に口を付けていた。




