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狂った運命

 問題なく時間内に到着した教室の、窓際の自分の席で杏華はアンニュイな気分を味わっていた。

 コンクリートの校舎は晩秋の寒々しい空気を見事に吸い込んで、その冷たさを教室内へと伝えてくれるが、それを気にする余裕もなく閉め切られた窓の外、どこまでも続きそうな水色の空の底を見上げて、じっとしていた。

「…………」


 思い出すのは、最悪の記憶。

 竜胆杏華にとって、この週末は紛れもなく人生で最悪の数日だった。


 剣術道場の娘として生まれ、武術を修めた自負が、杏華には確かにあった。事実、道場の門下生の指南役も務める彼女に勝てるのは、彼女の知る限り師範である父と、全国大会の上位に名を連ねるような強者以外に覚えがない。

 道場の跡取りとして育てられた一つ下の弟にも、体格から生み出される力強さはともかく、剣技では劣っているつもりは無い。

 人の言では、女を花と評することが多々ある。つまりは、美しいが、手折れば折れる……という評価か。あとは、その多くが毒を持つ。先人がそこまでの意味を込めていたのかどうかは知れないが、杏華にはそれらの評価を撥ね退けるだけの力がきっとあるのだと、疑うことなく思っていた。

「私は……」

 そう、確かにあったのだ。ほんの数日前までは。

 自分は強者なのだと。望めば、人を寄せ付けないだけの力を持ち、逆に人を守る力さえも持っているのだと言う自負が。

「……こんなにも弱いのか」

 今はもう、そうは思えない。先週末に、彼女を襲ったのはただの暴力者だった。力の使い方の正誤も分かっていないような精神的弱者。力の使い方を間違えただけの暴力者。

 そんな人間に、力を持ち、力の使い方も知っている強者だと思っていた自分は何もできなかった。どこかの丘に咲く百合の花でも手折るように、杏華は自分を守れなかった。

 ……いや、何もできなかったわけではない。

 先週の金曜の下校途中。不意を突かれ、突如脇に停まった車から飛び出てきた男どもに車内に押し込まれた後、どこか人気のない場所に連れ去られた。

 車の床に抑えつけられ、がたがたと激しい振動の中、切れ端のような布で口を塞がれ、ありきたりな結束バンドで手を縛られた。場違いなほどにどこにでも見られるもので不幸な出来事に引きずられている事実を、現実に追いつかない頭でぼんやりとおかしがった。

 そんな現実逃避を押し流すように、嫌悪しか催さないような男の下卑た声を車内で聴いた。

『こいつぁ上玉だなぁ!』

 それは、粘りつくような声だった。薄汚れた欲望を隠そうともせず、外気に触れ合わせ続けて更に汚れを取り込み、腐敗させ、ドロドロに濃縮した負の感情と言うものを垣間見た気がした。

 人間とは――いや、男とは、こんな声を出すのかと。杏華は砂粒の感触が心地悪い床で、マットに染みついた不快なたばこの匂いさえも忘れて息を呑んだ。

 きっと薄い皮の一枚を隔てたところには、何か得体のしれないものを飼っているに決まっている。それはきっと、本来人間が恐れるべきものなのに、この男は――男たちはそれを自ら腹の中に入れているのだ。

 そして、自分はきっと、今からその得体の知れないものが生み出す惨劇の、哀れな相手役をさせられるのだ。

 そこまでぼんやりと考えたことを切欠に、失っていた形を取り戻すように、杏華の思考は現実に追いついた。

『~~っ! んーっっ!』

『逃げられねえよっ』

 男の一人がそういってゲラゲラ笑った。何とか顔を上げて、見上げた男の口の奥には闇の空洞が目についた。あの奥に、この男の飼う悪魔か何かが住み着いているに違いない。それは今の杏華の姿を、男と同じように笑っているのだ。

『さぁて、着いたぜ』

『んぁっ!』

 停車し、ドアを開けられ、突き飛ばされて転がった先は山か森か。木々の生い茂る場所だった。秋も暮れ、夜が早くなった空はすっかり闇の帳を落としていた。天頂に輝く満月はやけにきれいに杏華の瞳に映っていた。

 対照的に、周囲は暗く、黒く、杏華の瞳に映った。緑のはずの葉っぱの生い茂る木々は、天頂を貫く黒い槍を思わせた。それらはまるで、悪魔の晩餐を見守る暗黒騎士の槍のようだった。

『ぎひ……さて、さっそくいただくとしますかね』

『おっと……足を抑えねえとなぁ』

 影は全部で三つ。その内二人が杏華の唯一自由な足と、動かないよう肩を抑え、そしてもう一人が薄く白銀に光る何かを掌に収めて近付いてきた。夜闇に包まれた黒い空間で、僅かに白くほとばしる光が、呑み込まれそうになる強烈なコントラストを杏華に与えた。


 ――ナイフだ。


 そう気が付いた時、杏華は不思議と落ち着いていた。もしかしたら、感覚が麻痺していたのかも知れない。刃の白と夜の黒が交互にまぶたに焼き付いて、思考する余裕もなくただ現状を把握していた。

 自らに寄せられる刃物を、抵抗なく受け入れた。身動きのしない杏華の脚と体に込められる力は、それでも力強かった。

『ぎひ……』

 血走った眼で、人間以外の何かの目で、男はナイフを制服の襟元からゆっくり下腹部へと移動させる。その時体がぐっと動いた。

『っ!』

 一瞬、痛みが走る。それは全身を駆け巡ると、緩やかに熱を帯びていき、それは瞬く間に体中のエネルギーをただの熱量へと変えていった。

『なっ!』

『てめ……っ!』

 体の動きが緩慢になり、一瞬目が赤く染まった気がした。

 男の持つナイフが脇腹を抜けて、血を滴らせていた。気が遠くなったのは一瞬で、すぐにそんなに深い傷ではないと思い直す。

 だが、男たちはそうもいかなかったようだ。予想外の出来事。下手をすると人を殺しかねない出来事に、男たちの中に居た何かはなりを潜め、男たちはただの人間へと変わっていた。

(ひびき)さんっ! なにやってんすか!』

『俺じゃねえよっ! おい、お前がちゃんと押さえておかねえからだろうがよ!』

『だ、だってよぅ……さっきまで大人しかったんだぜ? 急に動いたんだ……』

『うっせぇ!』

 騒ぎ合う男たち。そこにはすでに、杏華はいない。彼らの意識は、自分たちの犯した罪の所在に移行していた。

『っ……!』

 おかしな話だ。先ほどまでの彼らの行動は、紛れもなく犯罪行為そのものだと言うのに。場合によっては、人に一生ものの傷を背負わせ、人によれば自殺を考えてもおかしくない罪だと言うのに、こんなちっぽけな外傷で彼等は人間らしく慌てふためいている。

 ぐるぐると思考が回る頭で、杏華は笑いそうになるのを堪えて、浅い傷を意識から弾き飛ばして全身に力を込めた。

 一刻も早く、この場から逃げるように。

 芋虫のように這い上がり、少し離れたところで立ち上がって十メートルほど動いたところで、男たちは杏華が居なくなったことに気が付いた。

 怒号をまき散らしているナイフを持っていた男と、すっかり及び腰になった肩を抑えていた男。興が冷めたとでも言わんばかりに、無視しているもう一人。

 三者三様の反応をして、男たちは時間を食って、杏華は何とか逃げ切ることが出来た。

 連れてこられたその場所は、自分の実家のほど近くだった。杏華は霞む視界で街まで辿り着き、一般人の助けで病院へと運び込まれた。

 傷は実際深くなく、翌日にはとりあえず止血できていた。

 そして警察の事情聴取を終え、相手の顔は解らないと答えた。実際は、はっきりと覚えていた。それを話さなかった理由は、ただ一つだった。

 怪我の様子見の為に入院し、家族も帰った土曜の夜、白い部屋の中でぽつりと声を漏らす。

 こころの奥底に燃えるのは、どす黒い怨念。黒を制するための、深い黒。

『あいつらに……』

 復讐を決意した。彼女は自ら、道を誤った力の使い方を選択した。


 ――その場で彼女を強者足らしめる最後の砦が、音もなく崩れ去ったのだ。


 心の弱いもの――力の使い方を自ら間違えるような者――は、決して強者とは呼ばれない。呼ばれてはいけないのだ。それを知ってなお、杏華は決意した。

 故に、彼女は強者ではなくなった。


 何もできないわけではなかったばかりに――。

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