日常へ
二人で温もりを相互に分け与えながら歩いた帰り道は、結局のところ誰にも邪魔はされなかった。時折、誰とも知らぬ一般人に見つかったようだが、和樹の背中に顔をうずめていた杏華はその事実を知らないし、和樹も教えていない。杏華が気付いていたら赤面していただろう。
眠りかけの子供をそのまま優しい夢へいざなうように、和樹は周囲に気を配りながらも、背中の杏華を優しく背負って歩いた。
当然、歩みも速くはなく、杏華の家に着いた頃には既に暗かった空は更に暗くなり、町中にも拘らずいくつもの星が目に付くようになっていた。とはいえ、和樹が子供の頃に比べれば、ずいぶんと少ない星の数だ、星明りだけで歩くには心もとない。
晴れた空は、それでも人の生み出した微粒子に曇っているのだろう。
夜の暗闇の中では、通りから少し奥まった山の中にある竜胆家は、時代に取り残されたようだ。雰囲気が、やはり暗い。
「……さて、着いたぞ」
――いつだったか、親父にもこうやっておぶさって貰ったなぁ。と、その頃を思い出しながら、背中の温かなぬくもりに声を掛けた。
「ぅ……ん」
本当に居眠りに入りかけだったのか、胡乱な声で杏華が応じる。当時を思い出していた和樹は安心できる背中の温もりが分かるので、僅かに苦笑するばかりだ。
――まぁ、さっきまであれだけの現場に居たものなぁ。
だが、すでに八時を回っている。あまり遅くなり過ぎると、竜胆家の人々に無用の心配を掛けさせかねない。
少しだけ、もう少しこのまま心静かに過ごさせてやりたい気持ちになったが、後ろ髪を行かれる思いをしつつも背を屈めて杏華を地面に下ろした。
「…………。……ありがと」
「あ? ……別にいいさ。やりたいようにやっただけだ」
そよ風にも攫われそうなほど小さな声にも拘らず、和樹は杏華の感謝をきちんと拾った。
そして、得意げに……けれどどこか寂しげに、小さく笑うと引き戸の玄関をノックして、返事を待たずに中へと入る。
「おじゃまします!」
元気いっぱい他人行儀な挨拶をする、馴れ馴れしいのか距離を取っているのか良く分からない挨拶をする和樹に、杏華は軽く息を吐く。
「ただいまで良いでしょ。あなたらしくない……」
「じゃ、ただいま!」
杏華にたしなめられ、あっさりと言い直す。別にどちらでも良いようだ。
ただいま、と口にして先行する和樹に続いて玄関へと入る。おかえりー、と奥の扉から届く家族の声が聞こえる。
目に映る光景が、いつも歩くフローリングの床が、いつもの声が、馴染んだ我が家が、杏華の心に僅かに爪を立てた。
「……はぁ」
先ほどの呆れた溜息とは雰囲気を異にする、重く落ちる溜息。
復讐の記憶が。それを家族に内緒にしていたことが。
そして、途中まででも復讐を成した虚しさが、いつもと今の杏華を二分しようと苛んだ。
ようやく靴を脱ぎ終えた杏華の、そんな溜息をどう捉えたのか、和樹は杏華の方を振り向くこともなく、歩き出しながらただ一言告げた。
「あんまり根を詰めるなよ」
「えっ?」
驚嘆し、仰ぎ見る杏華に向かって、ただ当然のことを告げるように、リビングに着くまでの短い間に言葉を送る。
「お前の住むべき場所は、『ここ』なんだ。あっちに踏み込んだこと自体が、間違いなのさ」
「…………。そう……ね」
その言葉を聞いて、杏華の裏側にいた後ろ暗さが、表の光にかすかにあてられたのを感じる。
――そういえば、今日の昼にも同じことを言われたのだったか。
あの時は、全く意味が解らなかった。
今でも、多分込められた意味の一部分しか理解できていないだろう。
たった一部分かも知れない。それでも、確かに杏華の心は救われた。
「――よしっ」
心の準備の為に、ぎゅっと丹田に力を込めるイメージで息を止めた――ところで、無情な声が小さく届いた。
「意気込んでるとこ悪いが、オレはもう腹減ってるから」
「えっ?」
和樹はそそくさと廊下を歩いてリビングへの扉を開けると、すでに皆が集まって夕食を――もしかしたら二人の帰りを――待っていた。
おかえり、と再び届く三人の声に返すでもなく、和樹は心を整える間もなく呆然とする杏華を置いて香織の下へと向かい、図々しくも誰よりも先に夕食のメニューを聞きに行った。
「あー、腹減ったぁ! 香織さん。腹減ったんだけど、今日の夕飯は?」
「え? ……えぇと、サバの味噌煮とほうれん草のお浸しですけど」
「やった!」
若干唖然として呟く香織に、図々しく子供らしい感想を返す。見れば、男性陣も「何言っているんだ……」と呆れたように、しばし唖然としていたが、意に介した風もない。
「味噌煮かぁ……あいつは味噌煮作りたがらねえから、結構久しぶりだなぁ」
――オレ好物なのに。と小さく笑いながらつぶやくと、僅かに杏華の気が抜けた。
「……全く」
先ほどまで杏華を気遣っていたことが嘘のような豹変ぶりだ。
あらあら、と同じく嬉しそうに笑う香織に笑顔に、心がさらに和らぐ。
「それはいいのですけど、まずは手を洗ってきてくださいね?」
「そりゃそうだ。今のままじゃあ泥臭えもんなぁ。じゃ、いくか、杏華」
「あ……名前……」
初めて名前で呼ばれたことに対する杏華のぼそりとした呟きに、耳聡く玄造、香織、祐人の家族三人が反応を示したが、和樹はそれらを無視して杏華の背を押した。
「ほれほれ、とっとと行くぞ。身綺麗にしなけりゃ、香織さんの晩飯にありつけねえ!」
「身綺麗って、いやな言い方ね」
「ええい、逆らうなー。料理出来ねえうちは黙って母ちゃんの言うこと聞いとくもんだぜ!」
「料理くらいできるしあなたは母さんじゃないじゃない!」
くっけっけ、と妙な笑いを漏らす和樹に押されるように二人して消えていく。
二人ではせまい洗面所でまずは一人で手を洗い、入れ替わりに入った和樹が手を洗うのを待っていると、不思議と心が落ち着くのを感じて、二人してリビングへ戻った時にはすでに杏華の心は平時の落ち着きを取り戻していた。
食卓にはすでに料理が揃っており、サバの味噌煮に続いて、おひたしや漬物もあり、彩りを考えられた純和風の食卓だ。
玄造の手を合わせる音が響くと皆が黙り込み、同様に手を合わせる。
「いただきます」
『いただきます』
玄造に続くように食事の挨拶を唱和し、色々なことが立て続けに起こった一日の夕食が始まった。
杏華の挨拶には、『帰ってきた』と言う安らぎと、『帰らせてくれた』和樹に対する感謝とが多分に含まれていたのは杏華だけが知る所だ。




