涙に終わる復讐
泣いている。ただの一般人が、泣かされている。
「……っ」
それは和樹には堪えがたい現状だった。
――純粋な彼らと薄汚れた自分たちでは、文字通り住む世界が違うのだ。それをわきまえて行動しろ!
駆ける。駆ける。和樹は三人の死角から、短距離走者のような速さで響の下へと駆けていた。
「っ! 響さん!」
「あぁ? どうし――」
一瞬早く気が付いた付き添いの男の警告よりも、何事かと反応を示した響の言葉が終えるよりも早くに、和樹は響と――杏華の下へと駆け寄った。
「助っ人登場。……悪いが、離して貰うぜ」
和樹はにやりと笑うと、振り向いた響に用意していた殺虫スプレーを振りかけた。
無防備な響の目に、完全な不意打ちとして有害な微粒子が入り込み、耐え難い感覚として神経が過剰に反応した。
「がぁああっ!」
「見事命中」
そのまま駆けてきた勢いで、力の緩んだ響の腕から颯爽と杏華を奪い去った。
「そして救出」
「ぅあ……ぇ?」
呆然とした表情の杏華を脇に抱え、そのまま走った。そして十メートルほど響から離れると、両腕で抱え込んでいた杏華をそっと地面に下ろす。
「……立てるか?」
「ぇ、えぇと……。うん、なんとか……」
僅かに脚を震わせながらもしっかりと立った杏華に向けて、和樹はにやりと笑いかける。
「上出来だ。腰を抜かされちゃあ、お姫様抱っこで走るしかないからなぁ――お前がお姫様って柄かよ?」
「うっ! ……ううん、そういうあんただって王子様って柄じゃないじゃない! と言うか抱っこじゃなくておんぶでも大丈夫でしょ!」
からかうような和樹の言葉に反発して、つい現状を忘れて大声を上げてしまう杏華。
そんな杏華を見て、和樹はやはりにやりと笑うとその手を取った。
「なら、走れるな? 走るぞ!」
「ぇ? ええーっ!」
二人して走り出すのとほぼ同時に、背後の至近距離から、脇に控えていたもう一人の男が駆け寄ってきた足音が聞こえた。
先ほどまでは日常と同じ場所に居たような心地でいたのに、一瞬にして自分が今いる場所を思い知らされる。
竹刀を失くして、抗う力の大半を失った杏華の脳髄で、再び恐怖が喚きだした。
「待ちやがれっ!」
「待たねーよ! 助っ人っていうのは、一瞬しか出番がねーもんさ!」
和樹が捨て台詞かどうかも判別が付かないような台詞を吐くと、杏華の限界ギリギリを引っ張り出すような絶妙な速さで、杏華の腕を引いてくれた。
何度も電灯の下を通り過ぎ、灯りと闇のレールを交互に走る。
「ちっ!」
十秒近く走っていた追手の男だが、すぐにその足音は遠ざかった。疑問に感じて振り返ると、男は目を抑えていた響の下へと寄っていた。
追手が居なくなったことを機に、和樹も角を曲がると、路地裏の狭い道を通り過ぎた。
「はぁっ……はぁっ……。……ねぇ、もう、大丈夫、なんじゃない?」
杏華が息を荒げながら声を上げる。百メートル以上全力で走っただろう。それだけではなく、緊張感がいつも感じているそれとはまったく異なっていた。質も、量も。
けれど、背後にはもう誰もいない。追って来るものはもちろん、夜が深くなった町の中には、一般人の人影すらない。
――もう、安心してもいいんじゃないだろうか?
「いや……走らなくても良いが、急いで戻るぞ」
「……どうして?」
「追手が来るかもしれない。もしあいつらに仲間が居たら、面倒だ」
和樹のその言葉を聞いて杏華は愕然とした。
「……仲間? あいつにそんなやつがいるの?」
「分からんが、いてもおかしくはないな。……あの取り巻き、長いものに巻かれているような感じだったし。……まぁ居なかったらそれでいいんだが、念のためだ」
「…………」
杏華は言葉を失った。
――自分は何を考えて行動していた? ……決まっている。復讐だ。なら、その為に何を考えていた?
答えは、何も――だ。
ただ復讐を遂げることしか頭になかった。それ以外のことは、それ以降のことは、何も考えていなかった。
杏華は泣きじゃくりそうな声で、正面の和樹を見上げようとして――できなかった。
どうしても、視線が上には上がらない。それは、自分で自分を恥じているから、だろうか。
「わ、……わた、しっ……はっ!」
杏華は自分の中に渦巻く怒りと恨みにのみ突き動かされ、引くことが出来た復讐を成し遂げようとした。
だが、その為に起きることは何も考えていなかった。それが何を示すのかは明白だった。
――復讐のことさえ、きちんと考えていなかった。
「ただっ……あいつを、倒したく……てっ」
殺す気はなかった。ただ、倒したかった。
――あの男たちを……いや、あの男たちの中に見た、あの悪魔のような存在を。
あの時に見た、得体のしれないものを、なかったことにしたかったのだ。
――けれど、倒した後のことなんて、微塵も考えていなかった。
「……そうか」
和樹はそっと優しく笑うと、杏華の頭を優しく撫でた。
「……お前は、あいつらに反省してほしかったんだな」
「っ!」
杏華は、ハッと息を呑み、顔を上げた。その目尻からは、一滴の涙が零れ落ちていた。
「……優しいなぁ、お前は」
「うっ……ぅあ……ひくっ……」
泣きじゃくる杏華の頭に手を置いて、そっと撫でつける。十秒ほどそうしていると、和樹は杏華を背に抱えて歩き出した。
「……そろそろ、行かねえとな」
「……うん」
杏華は何も言わずに、その背中の温もりに体を預ける。和樹の熱がスーツを抜けて、コートを通り、杏華の肌へと伝わった。
涙に濡れて、切れそうなほどに冷たく凍える頬が、その温もりでほぐされていくのを感じた。




