笑み
響と言う名前は、どうやら外れ通りで広く顔が知られているらしい。
ある程度の来る時間と、初めにやってくる方向。そしてお気に入りの場所を教えて貰った。
『俺が言ったって事言わないでよね。君とあの人との関係は知らないけどさ、あんまり友好的じゃないんだろ?』
『……。ならどうして教えてくれたんですか?』
『君みたいなかわいい子の頼みは断りたくないしなぁ』
そんな、人を食ったような軽薄そうな言葉だけならば、あるいは信じなかったかもしれない。
それでも、深い悔しさを含んだような次の言葉が杏華にその言葉を信じさせた。
『それに、あの人のことを好きな奴なんてここにも居ないさ』
彼の言葉は、彼女の心に深く響いた。言葉に含まれた隠せない憎しみと、言葉の外に含まれた、苦しめばいいという呪詛が届いた気がした。
『ありがとう』
杏華は彼に礼を言い、通りを通って反対方向の入口へと向かった。今は、先ほどまでとは逆の通りの入り口で待機している。
闇に黒く塗り潰された町の空気が、冷たく杏華の肌を刺す。そろそろあの男性が言っていた時間だ。緊張を深めた杏華の耳に、こびり付くような声が届いた。
「ちっ……くそ! 親父のやろお、あんなに言うことねえだろうが! くそがっ! 今日は酒だ。酒の日だ! あと女!」
どくんっ……。心臓が一際大きく跳ねた。
あぁ、ついに来たのだ。物陰に身を潜め、じっと機会をうかがう。段々と距離は近付いて、杏華は竹刀を取り出して身構えた。
「っ……! はぁっ!」
視線の先に、男を捉えた。前回と同様に三人だ。響と呼ばれた男に向かい、杏華は走ってきた勢いを合わせて上段から叩きつける。
「うおっ」
男がとっさに上げた腕は太く、固かった。まるで肉の防具のようだ。叩いた竹刀から鈍い反動が体を侵す。杏華は標的を変更して、すぐ側にいて未だ呆然としている細方の男の胴に向かい、突きを放った。
「ぐぇっ……」
男は避けられもせず、まるで吸い込まれるかように鳩尾に竹刀が入り込む。そのまま男は気絶した。
距離を取る為に一歩下がった杏華の姿を認めると、何故か響はにやりと笑った。
「ぎひっ……お前はこの前の上玉じゃねえか! なんでこんなところに居るんだ? その竹刀は?」
「……復讐よ」
「ぎひっ! ぎはは! おもしれえな。……おい、こいつは俺がやるぞ」
背後に控えていたもう一人の男が、こくりと頷いた。それを認めるまでもなく、響は地面を蹴って拳を抱えて迫っている。ボクシングのような型だ。
「っ。やあっ!」
「ってぇな!」
杏華の薙いだ竹刀は、響の動かした肉厚の腕に阻まれた。そのショックで右腕が弾かれていたが、意識を刈り取るだけのダメージは通らない。
近付いた響から、剣道の足さばきで距離を取る。逆に響は距離を詰めようと躍起になるが、一瞬稼いだ時間で再び剣を横に薙いだ。
「ぐっ」
「腕、貰った!」
二撃目のダメージで、すでに響の左腕は上がらなくなっていた。だが、一瞬の慢心で状況は大きく変わる。
「あっ……」
打った竹刀を引くのが遅れ、まだ生きている右腕で腕を引き寄せられた。
にやぁ……と、勝利を確信した嗜虐的な笑み。引き寄せられた腕が上下に揺れ、勢いのままに響の膝に腕を叩きつけられ、竹刀を取り落とした。
「いっつ……」
「俺の勝ちだなぁ」
痛みによる硬直の後、杏華は響に腕を掴まれていることを知った。
無駄と思えるほどについている筋肉の束が、今は鉄の枷のように杏華を捕えている。
「は、はなしてっ!」
杏華は必至で身をよじるが、響の拘束からは脱せられない。力が違い過ぎる。
杏華も、女子としてならば力はだいぶ強い方だ。それでも男性の中でも力が強いであろう響にとっては子供のようなものだった。
せめて竹刀を、と腕を伸ばした先で、響が足を上げるモーションを起こした。
「ほらよっ」
「あっ」
割られた。竹刀が。
思い切り踏みつけられた竹刀は耐え切れずに、破片を散らして形を変えた。
大事なものだ。剣士として、常に側に在った存在。それが今、砕かれた。
「うっ……ぅぁ」
「ぎひ、泣くなよぉ。……この前の続きをやろーぜ。おいっ、口塞ぐモン持って来い!」
「や……ぁ」
涙を見せて、崩れそうになる杏華を響は笑って受け入れた。
笑って、笑って、あの夜と同じように悪魔のような笑いで、受け入れた。




