お昼の配達
お昼時になると、自然とおなかが空く。今日は今朝の道場破りで緊張していた為か、杏華のおなかはいつもよりもだいぶ空いているようだった。
だが、間が悪いことに――あるいは緊張していた為か、お昼になって初めて杏華は弁当を忘れていることに気が付いた。
「……さて、どうしましょうか」
いつもならば、父が届けてくれるのだが、今日はもうすぐ道場があるし来ないかも知れない――などと悩み、とりあえずは軽くパンを一つほどおなかに入れておこうかと考えていると、昼の放送時間よりも少し早くに、教室に備え付けられているスピーカーが安寧の眠りから目を覚ました。
ピンポンパンポーン。
『三年二組の、竜胆杏華さん。三年二組の、竜胆杏華さん。至急、職員室前まで来てください』
「……私?」
スピーカーはすぐに沈黙の存在となったが、そこから発せられた音声は落雷のように教室内を騒然とさせた。
その中での多くは、杏華が呼び出しを受けること自体に驚いている。有名人とは、呼び出しを受けるだけでもこんな扱いになるのか。
「おいっ! あの竜胆が呼び出しを食らったぞ?」
「誰かの身代わりになったとかかしら?」
「いやいや、おまえら……もうちょっと平和的に考えようぜ? ……果たし状だな!」
『それのどこが平和的なんだよっ!』
教室の一角では、あなた方はどこのコントさんですかと辟易したくなるようなやり取りがなされて、杏華もそちらへ胡乱な目つきで視線を向けた。
『がんばれっ!』
とでも言いたげな、清々しいまでに満面の笑顔で親指をグッと立てて、三人で見送ってくれた。流石はクラスの漫才トリオだ。
「……はぁ、いってきます」
杏華は後ろ手に軽く手を振りながら教室を後にした。下級生からは熱愛的な視線を浴びせられることも少なくはないが、流石に同級生は注目される前から一緒だっただけあってアイドル的な扱いは受けていないのが、学校での救いのようなものだった。
歩いて数分、職員室前まで到着すると、まるで壁のように人だかりができていた。奥が見えないから、もはやこれは壁扱いで良いのではないだろうか。うようよ蠢いているのが不気味な壁だが。
「すみません……退いてもらえますか?」
「あっ、竜胆先輩っ!」
下級生の響くようなその声を呼び水にして壁の多くがこちらを見ると、一瞬で人垣がザザァーと割れた。
――私はモーゼ? モーゼなの?
という馬鹿げた思考を脇へ押しやり、若干苦笑いを浮かべてその道を通る。たった数メートルの道が、百メートル以上伸びているかのように感じるほどの意味不明な緊張感を味わった。
杏華が通り抜ける直前に、渦中に居た男から能天気な声が届く。
「すげぇな。モーゼみたいだな、お前」
「……どうしてあなたがここに居るんです?」
「しかめっ面でいうなよ。折角のいい女が台無しだぜ?」
人垣の中に居ることなど気にした風もなくにやにや笑いながら、みすぼらしい茶色のコートと、その中に煤けた黒いスーツを着た男――和樹は杏華を誉めた。
「ナンパなら要りません」
「オレは硬派だ。好きになったら一途だぜ? ……きっと」
「『きっと』ってなんですかっ! よもやその年とその顔で彼女が居た経験がないわけでもないでしょうに!」
嘘でも和樹は顔が悪いとは言えない、と杏華は思っている。整った精悍な顔立ちと、スリムだが力強い、理想的な体躯。モテない道理はないと思う。
けれど和樹は照れたように笑うと、少し寂しそうな表情を滲ませながら、初春に積もった淡雪を思わせる優しさと哀しさの入り混じった声で呟いた。
「寂しい事言うなよなぁ……。居ないもんは居ないからしゃーないんだぜ」
「……そう、ですか」
和樹のその声を聴いて、僅かに杏華の胸に痛みが走る。触れてはいけない部分だったか――と、そこで、自分はなぜ今こうして和樹と話をしているんだろうと疑問に当たる。
「まぁ、つまらねえ話は置いといて……これ、お袋さんからの届けもんだ。お前の弁当」
「……これだけの用事なら、会ってすぐに終わったのではないんですか」
今こうして、周囲が二人のやり取りを不思議そうに眺めることもなく、一部の生徒から和樹が恨みがましい視線を向けられるわけでもなく、もっと平和的に済んだのではないだろうか。
対して和樹は楽しそうに笑うと、生徒たち――特に、自分に敵対的な視線を送っていた生徒たちに向かって、手を振った。
「「「っ?」」」
当然、生徒たちは困惑したが、それすらも楽しそうに眺めて優しそうに笑う。
「なに……少しはしゃいでいたのさ。久々の学校だしな。……ここに来るまで苦労したんだぜ? よもや部外者に対して学校側があそこまで警戒していたとはな。……話、聞くか?」
「聞きません」
「そっけねー」
けらけら笑う。本当に、何もかもを楽しそうに笑っている。
けれど、どこか諦念したような、乾いた部分をも持った笑い方だと感じているのは、杏華がこんな風に笑う大人に対して猜疑的だからだろうか。
「それじゃ。オレは帰るわ。用事も済ませたことだし」
じっと杏華の瞳を見つめて、思わず杏華が目を逸らした瞬間を見計らい、和樹はそう言い放ち、歩き出した。
「……あんまり、根を詰めるなよ?」
そして、すれ違いざまにぽつりと呟いた。まるでひとひらの雪が頬を掠めるように、誰も気づかないような、今にも溶けてしまいそうなほど小さな声で。
「え? それってどういう……?」
「あーばよーっ」
ぽんぽん、と杏華の頭が死角から軽く叩かれた。不意を突かれたとはいえ、全く反応できなかったことに驚愕する。
一瞬の硬直が解けた後には、すでに和樹は肉の壁の向こう側の存在だった。雪を溶かす太陽のごとく、にこやかに和樹は去っていく。
後から何人かの生徒が追いかけていた。多分杏華との関係性などを勘ぐっているのだろう。
「……まったく」
――一体何なのだろう、あの男は。
全てを知っているような態度で、杏華に接する。かと思えば、杏華に与えるのは答えなどではなく、ただの言葉だ。
それこそ、何も知らない人間がただ口にしたような些細な言葉。
「そんな言葉に、何の意味があるっていうのよ……?」
届かなければ、それは意味がないのだ。けれど、届いたとしても意味が伝わらなければ、それもまた意味がないのではないのだろうか。
杏華は数秒頭を悩ましたがすぐに思考を放棄して、手に提げた弁当袋を眺めてから教室へと向かった。
――それとも、届くだけでも十分な意味があると言うのだろうか。
「……分からない、わね」
とりあえずは、予期せぬ相手から届いたこのお弁当を食すとしよう。
リノリウムの床を蹴る杏華の足取りは、いつもと変わらずに彼女の体を運んでいる。




