(四)
函館の、夏は短い。秋は早い。
盆が過ぎ、九月が来れば風の色は一気に変化する。
柳田家の騒動から一ヶ月以上が経ち、叔父の結婚式も一週間前に恙なく執り行われた。
秋晴れの海峡の向こうに本州を見ながら、柵にもたれかかり私は深く息を吐きだす。
怒涛だった。
大切にしていたものがドミノ倒しの如く崩壊していくかのように感じ、大きく心を揺さぶられたのも遠い昔に思える。
結婚し、妻の実家である民宿を継ぐと決めた叔父が実行に移すのは、これから三年後だという。
別居中の柳田夫妻だが、娘の柚子ちゃんの喘息が落ち着く頃合いをみて……、早くても来年の小学校入学に合わせて東京へ戻るのだという。
もしかしたら、数年は母子でこちらで過ごすことになるのかもしれない。
変化は確定していても、至るまではゆっくりだ。
ゆっくりと思っていても、過ぎてしまえばあっという間なのかもしれなかった。
浮いたり沈んだり、押したり引いたり流れたり流されたりしながら、これからの時を過ごしていくのだろう。
そうこうしている間に、私も大学を卒業し、自分だけの進路を決める日がやってくるのだ。
「岬さん」
気配に気づき、私は振り返る。
「先生は、まだ、そう呼んでくれるの?」
「岬さんだって、私をまだ、先生と呼ぶでしょう。おんなじです」
強い風が、彼女の髪をさらい、表情を隠す。
「二度目です」
風に消えてしまえばいい、そう思いながら私は呟く。願いは虚しく、言葉は彼女の耳へ届き、岬さんは私の隣に並び、揃って海峡を眺めた。
「貴女に失恋をしたのは、これで二度目です」
重ねて言うと、『知っていました』と岬さんが笑う。
「私も二度目だもの」
「叔父ですか?」
「はい」
過去の話であれば、こんなにも気持ちが楽になるのか……開き直りなのか。
本当は、完全に過去になんてできていないけれど『そうする』真似なら出来る程度に。
「昔、ね。憧れていたのは、私だけじゃないはずね」
肩を竦めて、恥ずかしそうに笑って見せる。じくり、私の胸が疼く。感じたところで、どうしようもない痛みだ。
「淡い初恋だったわ。誰に相談するでもなくって……。そういうものだと、思っていたの」
視線を落とし、岬さんは自身の下腹部をそっとさすった。
「今の夫と出会って……柚子を授かって。その時に、冷やりとしたの。このままで良いのかって思ったの。良いも悪いもないのにね」
それが、六年前。
私と岬さんが出会った…… そうか、あの頃には既に、
「そして、先生に出会ったのよ」
嗚呼。
かちり、かちり、失われていたパズルのピースが填められていく。
何も知らなかったあの頃。
何も知らないままに、岬さんへ恋をしていた私を、彼女はどう見ていたのだろう。
「楽しかった……嬉しかった。学生に戻ったような気がして、もう戻れないのだと思い知って」
遠く、柚子の声が聞こえる。
岬さんを呼び、私を呼ぶ。
遠い過去から、戻る時間を教えている。
「戻る必要もないって、今、両の手にあるものを大切にしようって、背を押してくれたのは先生なのよ」
「……え?」
その意味を問おうとした頃には、私たちの姿を見つけた柚子が駆け寄ってきた。
「もうっ さっきから、ずっと よんでるのに!」
「ごめんなさいね、先生のこと、ちょっとだけ借りてたの」
「岬さん」
「行きましょうか」
「……はい」
昔話は、おしまい。
どこか消化不良な気持ちを抱え、冷たくなってきた潮風へ背を向けた。
「せんせい」
狭い歩幅で一生懸命追いかけて、柚子が私の手を握る。
上気した頬で、私を見上げる。
いつにない気迫のようなものを感じて、思わず私は足を止めた。
「あたし、せんせいがすきよ」
あの時、誰もが言えなかった言葉。
まっすぐに、こちらを見つめ返してくる瞳に、何も言えなくなってしまう。
「うん、そうだねぇ」
「もう! こっちをむきなさいっ」
濁した答えしか持ち合わせない私に、純粋な柚子が怒る。
嗚呼、きっと、こんな時間も、たちまちのうちに流れてゆくのだろう。
砂に書かれた指文字をさらう波のように、淡い跡を残して。消えない跡を残して。
夏のそれより僅かに色褪せた海面が、光を弾いて輝いていた。
柚子と手を繋ぎ進む先には、母親の笑顔をした岬さんが居た。
あの日の岬さんの背を押したのが私なら、今の私の手を引くのは柚子だ。
初夏から秋へ、目まぐるしく季節が移ろう函館の街で。
六年前のあの時のように、あの時とはまた違った軌跡を描き、想いは連なり、先へ、先へ。
―了―
物語は、これにて完結です
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