(二)
岬さんと再会したのが七月上旬のこと。
立ち入ったことは聞かない。
話題は六年前の思い出、石川啄木の唄、函館の歴史。そんな辺り。
何かに触れることを恐れるように、けれど離れることを恐れるように、私達はしばしば、立待岬で語らった。
約束はしないから、岬さんが居ない時もあれば私が居ない時もある。
それはそれで心地よい距離であった。
そうこうしている間に夏休みがやってきて、八月となる。
函館の、短い夏の折り返しだ。
「港まつり、一緒に行きませんか」
私としては、かなり思い切った誘いだった。
岬さんも、日傘を取り落しかけていた。
「ああ、ええと、いや、先約があるならいいんです。人混みが嫌いだったりとか」
「そんなことはないです、嬉しいです……。でも、いいのかしら、こんなおばさんで?」
「岬さんは綺麗ですよ!」
反射的に口をついて、それからどちらともなく顔を背け合う。
こういったところが、どうも私は進歩していない。それとも、岬さんの前では引きずり出されてしまうのだろうか。
ややあって、岬さんがくすくすと肩を揺らした。
「ありがとう、先生。でもね、本当におばさんなのよ……」
笑い、そしてどこか泣きそうな表情で、岬さんは使い込まれた日傘を握り直した。
港まつり期間は流石に塾も休みで、来月に挙式を控えている叔父も婚約者と出掛けるらしい。
色恋より塾生たちへの心配りを最優先にしてきた叔父も、一人の男というやつだ。
滅多に締めることのないネクタイなんぞを選んでいる。心なしか、いつも無造作な髪も丁寧に撫でつけられていた。
「どうした若先生、ニヤニヤして」
「しているのは兄さんでしょう」
「そうでもないさ」
言葉と表情があまりにも一致していて、私は返す言葉を失った。
「……兄さん、何か、あったんですか?」
「うん?」
「何もないって誤魔化せていると思ったら、それは猿芝居ですよ。熱帯植物園の猿も騙せない」
「それは酷い」
叔父が私へ嘘を吐くことは滅多にない。
私も叔父へ嘘を吐くことは滅多になく、だから互いに隠し事をすればすぐにわかる。
そうやって、時を過ごしてきたのだ。
「塾、厳しいですか」
「……うーん」
ずっと気になっていたことだった。
相思相愛の相手が居て、互いに適度な年齢でありながら『結婚』という再スタートを踏み切ることをしなかったのは、そこにあると考えていた。
私は叔父の交際相手を古くから知っていて、彼女も一人で生活する分には問題のない職業婦人だ。
無理に結婚などという鎖で縛らずとも、交際だけなら問題ないだろう。
「向こうの、ご実家がね」
「え?」
「民宿をしているんだ。ご両親も、そう若くはない。継がせるか畳むか……。そういう話し合いをしていてね」
「継ぐって、兄さんがですか?」
叔父は、言葉なく口の端を歪めた。どんな表情をしたらいいのかわからない、そう言っているようだった。
ふつりと、心を繋いでいた細い糸が切られた思いだった。
独りで塾を続けてきた叔父には、相手方の気持ちがわかるのだろう。
『継がせるか畳むか』と言ったところで、本音の望みくらい感じ取れる。
人と接することを苦としない叔父だから、経営するのが民宿となったところで問題なくやっていけるだろうと思う。
けれど、それじゃあ、この塾はどうなる?
叔父だからこそ創り上げてきた空間だ。
(私は)
違う
(駆け込み寺は)
それも違う
(替えなんて、幾らでも)
それだって、違う。
誰だって、一つの場所がなくなっても、きっと新しい居場所を見つけるだろう。
解ってる。
解っているんだ。
民宿も、塾も、天秤に掛けられるものじゃない。
選ぶのは、叔父だ。
ふらふらとした足取りで、私は待ち合わせ場所へ向かう。十字街では商店街主催の祭りが開かれていて、電車道路を挟んで向かい側のケーキ店前が約束の場所。
時間より随分と早く着いてしまった。流石に岬さんの姿は未だない。
屋台から流れて来る食欲をそそる香りに目を閉じ、私は心を鎮めようと努めた。眼鏡の位置を直し、呼吸を整える。
自分から誘っておいて、他のことで頭を占めるだなんて失礼極まりない。
(そういえば)
立待岬以外の場所で、岬さんと逢うのは初めてだ。
六年前と変わることなく常に夏着物姿の彼女だが、今日は浴衣だろうか?
ティーシャツにハーフ丈ジーンズと、思い切り普段着の自分に呆れてしまう。いや、ここで付け焼刃の浴衣というのもわざとらしいではないか。
「せんせい?」
「あ、岬さん……」
呼びかけられ、反射的に振り返るが……その先に岬さんは居なかった。
「せんせい」
くい、ジーンズを引かれる。それが子供の手だと認識するのにやや掛かった。
「……迷子かな?」
塾生ではない。まだ、小学校に上がる前位の女の子。白地に赤と黒の金魚が泳ぐ浴衣に身を包んでいる。
「これ、わたしなさい、って」
「え」
しゃがみ込んで視線を合わせると、女の子は手にしていた小さな巾着から一通の手紙を取り出した。
『娘を連れて逃げてください 岬』
「え」
「やなぎだ ゆず、ごさいです!」
「さくらい しゅういち、じゅうきゅうさいです……いや、そうじゃないな」
いや待て、今、この子、
「ゆず…… 柳田柚子ちゃん、もしかして兄さんの ええと、橘圭介先生は知ってる?」
「たちばなせんせい、ゆず、だいすき! とっても、おはなしがおもしろいの」
全身から血の気が引いた。
岬さんが、柚子ちゃんのお母さん。
柚子ちゃんのお母さんと叔父は知り合いで――柚子ちゃんは五歳、私と岬さんが出会ったのは六年前――、まさか、いやまさか。
下世話な想像が脳裏を過り、私は全力で首を振った。
そういえば柚子ちゃんの父親については聞いたことが無かった。
『娘を連れて逃げて』とはどういうことか、それじゃあ岬さんは今、どこに居るのか…… 叔父が浮かない顔をしていたのは、まさか。
「柚子ちゃん。お母さんは、どうして今日、ここへ来れないの?」
「えーっとね、『せんせい』がゆずを、おまつりにつれていってくれる、って!」
岬さんによく似た少女は、大きな身振り手振りで嬉しそうに。小さなおさげが、それにあわせてピョンピョン跳ねる。
駄目だ。きっと、『聞かれたらそう答えるように』と教えられている。
状況が、全く掴めない。
「居た! 柚子!」
人の波を割くように、低い男の声が響いた。
その瞬間、明るかった少女の表情が怯えに一転する。
混乱するばかりだった私の頭に、一つの情報が挟み込まれる。
(生まれつき体が弱く、療養の為この春に)
走らせるわけにはいかない。
柚子を抱き上げ、私は雑踏の中へ飛び込んだ。
出来るだけ、人の多い場所を走る。
ぶつかりながら、謝りながら走る。
柚子が震えながら私にしがみつくのは、逃走に対する恐怖か、追っ手に対する恐怖かはわからない。
(兄さん……、そうだ、兄さんなら)
何か、事情を知っているに違いない。
落ち着いたら連絡を入れよう。
だから、今は只管に走る。電車道路に沿い、臨時で展開されている屋台、家庭で楽しんでいるバーベキューを通り過ぎていく。
毎日のように自転車で大学へ塾へと片道三十分以上を走り回っている若者の体力を侮るなかれ。市役所前の電停を過ぎる頃には追手の声は聞こえなくなっていた。
「せんせい、はやーい!」
「乗り物の類じゃないから……」
荒い呼吸で返しながら、楽しんでいただけたら何より、とも思う。
子供に怖い思いをさせたくなかった。
「柚子ちゃん、かき氷、食べる?」
「べるー!」
ここまで来たら、大門まであっという間だ。
叔父達も来ている可能性が高いし、冷たい物で心を落ち着けてからの方が良いだろう。
私は柚子を降ろすと、手を繋いでゆっくりと歩き始めた。
相変わらず状況を把握できないままだったが、がむしゃらに体を動かしたことによる爽快感と、恐らくは少女を守れたのだろうというおぼろげな達成感で、少しは気分が浮上していた。
祭りを楽しむ人々の声、幼少の頃から擦り込まれた定番の音楽を愉しむ余裕が戻ってきていた。
予想に反し、叔父は祭りへ来ていたわけではなかった。
婚約者の実家とのことだ。
詳しくは明日話すと言われ、それが答えなのだと私は知った。
ならば、柚子ちゃんは……岬さんは?
「兄さん、一つだけ、今すぐ教えてほしいんです」
『どうした? そうだな、用事があって掛けてきたんだよな』
「柳田柚子ちゃんの、お父さんって一緒に函館で暮らしているんじゃないんですか?」
『ああ、話してなかったか。複雑な家庭でね、あまり公言するものでもないと思ってなあ。今は母子だけで戻ってきているんだ。何かあったか? 塾へ電話でも?』
「いや、それが―― ……柚子!」
話し込んだといっても五分と経っちゃいない。
充分に人混みに紛れ、悪目立ちするような行動もとっていなかった。
なのに。
「せんせ……っ」
背後から、五十絡みの男性に羽交い絞めにされた柚子の手から氷イチゴが落ちる。
周辺に悲鳴が響いた。
救急車、誰かが叫んだ。