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(一)

 湯の川から函館山の麓へ伸びる海岸線。

 啄木小公園から先にある低い岸壁は昔、恒例行事で市内の小中学生が塗り替えていたという。時を止めた壁画を左手に、私は自転車を走らせる。

 今日は風が強い。よく晴れていて、存在感の強い夏の雲が東へグングン流されていく。

 青柳町の電停へ向かう、なだらかな坂道を登りきれば下り坂へと切り替わる。この緩やかな曲線が私は好きだ。函館山の新緑が目に飛び込み、抱かれるような心地になるのだ。

 終点・谷地頭を過ぎたところで左折。そこから少し入り組んだところに、母方の叔父が開く塾、兼・自宅はある。

 自転車を停めると、汗が一気に噴き出てくる。亀田本町のアパートから、景色見たさに大きく遠回りをしてきた反動だ。

 頭にまで響く鼓動を落ち着けてから、細いフレームの眼鏡の位置を直す。

 塾のある建物の一階は喫茶店となっており、外側にある錆びかけた階段を上ると扉が三つ並んでいる。

 『たちばな塾』と木製プレートが下げられた手前の部屋と隣は中で繋がっており、最奥が叔父の住居だ。

 チャイムを鳴らして扉を開ければ、講師用のデスクに着いていた叔父が苦笑いで迎えてくれた。切れ長の目尻が優しく下がり、糸のようになる。

 三十代半ばを過ぎて独身であること、常から子供を相手にしていることから、実年齢よりいくらか若く見える。私と一回り以上離れているが、兄と紹介しても通じるほどである。

「休みの日にまで来るなんて、随分と仕事熱心だな」

「放っておくと、手に余るほど抱え込むでしょう、兄さんは」

 私もそんな叔父を『兄』と呼び、慕っていた。

 教科ごとに分けられた採点の残るプリントの山を二つ三つ奪い上げ、含み笑いを返す。

 少子化が進み経営も困難な昨今だが、時には家庭教師のようなこともしながら、叔父はこの小さな個人塾を切り盛りしている。

 中学時代までは叔父の世話になった私も、大学へ進学してからは空き時間で格安アルバイトとして手伝いをしていた。

「じゃ、若先生も来て下さったことだし、俺はチョイと出てくるかな」

 塾講師には似合わない厳つい体格の叔父が立ち上がり、私の肩を叩く。

 講師のバイトを始めてから、叔父は私のことを『若先生』と呼んで揶揄するようになった。最初は顔をしかめたものだが、今では慣れてしまい、いちいち反応することもない。

「柚子ちゃんのお宅ですか?」

 柳田柚子ちゃん。

 生まれつき体が弱く、療養の為この春に越してきた少女。

 来年、小学校へ上がる前に少しでも予習をしておきたい、ということらしい。

 このまま函館に根を下ろすか、生まれの東京へ戻るかは体調次第で、そういった不安もあるようだ。

 名と事情は聞き知っているが、私は彼女と顔を合わせたことがない。

 彼女の母親と叔父が知り合いという伝手で叔父自身が個人的に勉強を見ており、その時間の穴埋めとして私はこの塾で講師をしているというわけだ。

 バイト料、と叔父が手つかずの缶コーヒーを私に差し出し、そうして出て行ってから、教室は静寂に包まれた。

 ようやく汗が引き、先程まで叔父が座っていたワークチェアを引く。

 古びた壁掛け時計の秒針の音と穏やかな波の音、潮風が窓を揺らす音。一階の喫茶店から漏れてくる、名も知らぬクラシック音楽が狭い空間を満たす。

 遊ぶ友人が居ないわけでもないが、ここで過ごす時間が私は一番好きだ。予定に空きがあれば、叔父の留守を預かるようにしている。

 答案用紙の採点を進めながら、いつも同じ所で躓いている子、クリアしている子などを頭に入れてゆく。次の授業の要点とするために。


 七月。

 間もなく学校は夏休みへと突入し、子供たちは短い夏を謳歌する。

 函館の夏は良い。

 函館の夏は短い。

 海で泳ぎ、山を登り、祭りを楽しめば風の感触が変わり始める。

 人見町の実家からこの塾までは、自転車で三十分程度。

 海と山が近く、博識の叔父と共に居ることは楽しくて、小学生の頃から何かにつけては遊びに来ていた。

 夜には帰ることもあったし、そのまま泊まり込むこともあった。独り身の叔父は鷹揚で、子供の私をいつだって笑って受け入れてくれた。

 叔父のもとに居るのなら、と両親もそれ以上は追及しない。

 公認の隠れ家、というと狭い世界だが、そうして私は潮の香りと共に思春期を過ごした。

 叔父、そして学区の違う塾生達との時間。

 そこにもう一つ、水面に投じられた石の波紋のように、心に広がる存在がある。

 波紋は消えてしまい、再び目にすることはないであろうと知っていた。

 彼女のことを、私は『岬さん』と呼んでいた。

 中学生の頃だから、六年前になろうか。

 その日、私は珍しく父親と口論となった。

 内容は深く覚えていないが、両親の想定内である叔父宅訪問という枠に収まりたくないと考えたことだけは記憶している。

 進路を変え、叔父の家の少し先、立待岬を目指した。

 そうして私は、岬さんと出会った。

 叔父の家から近いというのに、私が立待岬へ行くことは稀だった。

 昔は泳ぐこともできたらしいが、落石の危険があるからと、眼下の岩場へ降りることもできない。

 触れることのできない海水などつまらない。だったら、泳ぐことはできなくとも、大森浜で足を濡らし、海老を捕まえた方がよほど楽しい。

 そう話すと、叔父は確かにと頷いて『お前には、まだ早いかもな』と笑うのだ。

 他の誰に子供扱いされても頭にくるが、叔父にだけはそういった感情は浮かばない。私にとって、最後の砦が叔父なのだから。

 岬へ向かうことが憚られる理由に、到着するまでの長い長い急な坂と、両脇の墓地も挙げられる。

 自転車を押しながら、幼い私は早速、その二つの点で後悔していた。

 隠すもの何一つなく坂の上に居る私を焼いてくる日差し。坂の途中からの景色は美しいが、もれなくついてくる墓石。幽霊の存在を認めるか否かという問題ではなく、不気味に感じてしまうのだ。

(嗚呼、でも)

 人間が死んだ先、どうなるかなどわからないけれど。もしも魂がその場に留まるのだとしたら。この景色を毎日見るのは、退屈しないかもしれない。

 坂の途中で力尽き、温くなったスポーツドリンクを口に含みながら、私はそんなことを考えた。

 汗と共に意地も怒りも流れ出てゆくようで、坂を登りきり、津軽海峡を正面に捉えた時には言葉を失った。

 潮風は涼やかで、濃い空の色をグラデーションに海が映し出す、その先には青い山並み。

 触れることのできない海面を目にし、胸中に渦巻いていた感情が静かに引いていった。

 駐車場の傍らに自転車を停め、柵へと歩み寄る。

 観光客の姿も幾つかあった、その中で一人、目を引く存在があった。

 白いレースの日傘に、白地の夏着物、薄紅色の帯を締めた黒髪の女性。

 まるで、ドラマにでも出てくるような――日常生活では見かけることのないような出で立ちに、私は息を飲み込んだ。

 風が吹き、長い髪を押さえる仕草に見惚れた。

「東海の小島の磯の白砂に」

「われ泣きぬれて 蟹とたはむる!」

 美しい曲線を描く大森浜へと視線を向けた女性がポツリと声を発するのに合わせ、私は反射的に続きを挟んでしまった。

 今、思い起こしても赤面ものだ。幼さゆえの、知識顕示欲だとは、いえ。

「あら」

 ゆっくりと傘を巡らせて、女性はこちらへ振り向いた。

 年の頃は二十を超えたくらいだろうか?

 中学生の私には、女性の詳細な年齢を当てることなど難しい。ただ、学生独特の空気は薄いように感じた。

「石川啄木を、ご存知?」

「小学校の、自由研究で……」

 この辺りのやり取りも、思い出すたびに枕へ顔を突っ込みジタバタしたくなる。

 啄木を知らぬ函館市民はいないだろうし、自由研究だなんて単語を持ち出す必要もないだろう。

 それだけ動転していたのだと、そう、解釈いただきたい。

 癖のない艶やかな黒髪を風になびかせて、その人は柔らかく笑った。

「じゃあ、きっと、私より先生ね」

「……観光の方、ですか?」

「似たようなものね」

 私の問いへ肯定も否定もせず、女性は背まである長い髪を押さえる。指は細く白く美しかった。

 会話はそこで途切れ、かといって立ち去るには惜しい景色を前にして、言葉なく私達は海峡を眺めていた。

 潮風が温度を落とし始めたころ、彼女は日傘を閉じた。

「そろそろ、帰らないと……。先生は、ここへよくいらっしゃるの?」

「せん……?」

 『先生』、予想だにしなかった呼称に、私は思考が止まると共に声が上ずった。

「石川啄木についての、先生。良かったら、少しずつで良いの。教えてもらえないかしら」

「構いません。塾が、この辺りなので」

 夏休みですし。

 付け足すと、彼女は少しだけ驚き、すぐに笑みへと戻した。

「そう……、良かった。今の時間帯は、だいたい居るの。いつでも声をかけて」

「あ、ええと、あの 僕は、なんと呼べば」

 互いの自己紹介すら未だであることに気づき――しかし、改まるのもおかしな空気で。

「そうね……、好きに名前をつけて?」

 何かを演じるように、悪戯を企むように、彼女は笑う。

 私はややあって、『岬さん』……立待岬の、岬さんと。彼女を呼んだ。

 夏休みが終わるまでの、二週間ほどの交流だった。

 小学生の頃の自由研究課題から、時には叔父の所蔵する本まで持ち出し、私は岬さんと海峡の風に吹かれながら他愛もない会話をした。

 互いの細かな事情は話さない。

 興味がないわけではないが、立ち入ったところで自分に何が出来るとも思えなかったし、彼女から踏み込むこともなかった。

「今日で、夏休みが終わりなんです」

「そう……。もう、会えないのね」

「会えない、ですか?」

「私も、帰らないといけないの」

「……ああ」

 観光のようなもの、と出会った頃に話していたことを思い出す。

 いつまで居るのか、どこに滞在しているのか、どこへ帰るのか。最後の最後まで、訊ねることが出来なかった。

「ありがとう、先生。忘れないわ」

「僕もです、岬さん」

 軽く握手を交わす。白くほっそりとした、頼りなげな手。日に焼けた己の手と対照的な、壊れもののような繊細な感触を今でも忘れない。

 もう、会うことはないのだろう。

 岬さんの言葉を胸の中で繰り返しながら、私は落としそうになる涙をこらえていた。



 思い返すだに、苦笑いしか出てこない初恋だった。……初恋だったのだと思う。

 私も彼女も、おそらく過分に自身に酔っていた。

 多少の補正はあるかもしれないが、それでも、あの夏は自分にとって特別なものとして今も胸に残っている。

「若先生ー!」

 ドアを開けて、塾生が三人ほど転がり込んでくる。

「学校の宿題、やっていっていい?」

「いいけど、答えは教えないよ」

「アテにしてませーん」

 ガヤガヤと賑やかに、小学生たちはランドセルを下ろして書棚から参考書、辞書の類を引っ張り出してゆく。

 その中の一人が、私の手元に在る缶コーヒーに気がついて指をさした。

「あっ、若先生いいもの飲んでる!」

「アテにしてないんだろ」

「おとなげないこと言わないでくださーい」

「宿題が終わったらな?」

「おっしゃー!」

 盛り上がる子供らに目を細め、私も物思いから目の前の仕事へと意識を戻す。

 私が塾生だった頃から、変わらずこの場所は『子供たちの駆け込み寺』だ。

 家へ帰っても誰もいない子供。家へ帰りたくない子供。

 『塾だから』その一言をフリーパスチケットに、拠り所としている。

 学校とも違う、堅苦しい成績重視の進学塾ともちょっと違う。この空間は、叔父だからこそ作り上げ、維持していられるのだろう。

 その末席に私がいることが、なんだかくすぐったい。

 叔父とて真っ直ぐにだけ生きてきたわけではないだろうが、こんな風に進めたら、と思う。


「結婚?」

 家庭教師先から帰ってきた叔父からの報告に、私は思わず手にしていたペンを取り落とした。

「ああ、今年の九月だ。若先生には真っ先に伝えようと思ってね」

「二ヶ月もないじゃないですか」

「向こうの、誕生日の前にってさ」

「……ああ」

 叔父の交際相手とは、私も面識がある。

 むしろ、今までなぜ結婚しなかったのか疑問に思うくらいであった、が、なるほど崖っぷちの年頃か。

 半笑いを浮かべる私の額を、察した叔父がペシリと叩く。

「塾は、どうするんですか?」

「……うん」

 わずかに、叔父の表情が曇る。珍しいことだった。

「続けるよ。俺が寿退社してどうする」

 間をおいて、それから笑顔を作り、叔父は応じた。

 塾の経営が苦しいことは知っている。結婚して、家族が増えて、抱える不安が無いわけがないだろう。

 不安に駆られた自分が情けなくなる。いつまで、私は叔父を拠り所とするつもりなのか。

 もしも、ここが無くなったら――。

 叔父への祝福よりも、真っ先にそんなことを考えてしまうなんて。

(いつか)

 いつか、自分はこの塾から正式に卒業する日が来る。

 いつかなんてものじゃない、大学を卒業して上手いこと就職が決まれば、それでお終いだ。


 残された夏休みの日数を、突きつけられた思いだった。

 

 ふらふらと、夕暮れ前の岬へ続く坂を登る。

 日は傾いていて、潮風もわずかに温度を落としている。

(いつまでも、子供じゃないんだ)

 頭では解っているつもりだった。

 叔父に甘えているばかりではいけない、憧れているばかりではいけない、自分で自分の道を見つけなくてはいけない。

 終わらない坂道のように、到達点を先延ばしにしていただけ。

 終わらない坂道は無いように、いつかは必ず、方向を決めなくてはいけない。解っていたことだった。

 坂を登り切り、遠く海峡を眺める。

 潮騒が耳に心地いい。

 目を細め、そして私は息を呑んだ。

 誰もいない立待岬。

 白いレースの日傘に、白地の夏着物、薄紅色の帯を締めた黒髪の――

「岬さん?」

 まさか。まさか、と思う。けれど。

 口の中で呟いた、私の声は届かなかったはずだ。

 しかし、そのタイミングで、女性はゆっくりと振り向いた。

「先生」

 嗚呼。

 六年分、お互いにしっかりと年を取って。

 それでも美しく、岬さんは微笑んだ。

 長かった黒髪は、顎もとでスッキリと切り揃えられていた。




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