第一章 十四幕
武器。人間の頭脳が進化する一方で人体から失われた機能を代替する道具。ミリー地方において武器の歴史は浅く、その理由は二つある。
一つは文化的な要因。ミリー地方国家において、戦争は民ではなく、国のものである。つまりは国民が戦争に協力する姿勢を見せず、国家も国民に協力を求めない。
なぜなら国家はそれぞれ兵士を生業とする、ライブラ家のような家門を抱えており、彼らに戦争を一任していたからだ。そして彼らが負ければ敗戦交渉を進めた。ここで敗者側の国民が立ち上がって挽回を試みたり、国家元首が協力を求める演説をしたりしないのは、勝者側がそれ以上のことをしないという前提があるからだ。
ミリー地方はいくつもの国家から成り立つが、昔は一つ一つはそこまで大きくなかった。いくつかの山脈が走り、国境は川と山で作られた。そんな彼らの歴史が出した結論は、勝ちすぎないことが生存戦略につながるということだ。出る杭となり打ち込まれた国家が歴史上多く存在している。橋を落とされれば川を渡れず容易に孤立し、山の上から攻められれば弱い。そういった地理的な背景を経て少しずつ国がまとまっていき、いくつかの中規模国家で拮抗する状態になった。つまりミリー地方の国家は「代表者で戦って決め事をし、それ以上は何も言わない」ということを昔からやっていたのだ。魔術による決闘が根付くより遥か昔に。したがって武器を使った戦闘技術はライブラ家の先祖のような代表の兵士一族が独占し、成長しない。
二つ目の要因は魔術。戦乱が一通り落ち着いた時に魔術は発見されたが、この未知だが可能性溢れる発見にミリー地方の人々は夢中になった。戦う必要がなく、時代が変わる技術も見つかった。
結果、あらゆる武器術は基本的に廃れている。例えばロイが氷の盾を使って攻撃を防いだりしていたが、多くの人からは「壁を持っている」くらいにしか考えていないし、ロイも盾を明確にイメージしたわけではない。つまり、魔術の杖で殴るという行為自体がこの時代では非常に稀なのだ。想像の埒外からの攻撃に、ジョージは考えを巡らせ、後悔していた。長い杖を持ってきた時点で武器として使うことを考慮すべきだったと。
腹から声にならない声を漏らすジョージを横目に、マリアはそのまま空の彼方に飛んで行った。ジョージは力が抜けたようにヒラヒラと地面に墜落する。観客は何が起こったのか理解できていない。注目を外した瞬間にマリアを見失ったと思えば、圧倒的優位にいたジョージが地に落ちているのだから、無理もない話だ。
観客はマリアを探している。姿が見当たらないことから、ロイは察しがついている。
「ロールベルさんの魔術で移動したらこんなことになるのか」
「マリアはどこに行ったの?」
ユーリは状況が飲み込めず、ロイに訊ねる。
「さっき目を離した隙に移動魔術で高速移動したみたいだ。おそらく空の遠くの方に飛んで行ってる。見えないけど」
「そんなことして大丈夫なの?ある程度体が強いロイくんならともかく、運動もできないマリアがそんなことしたら体への負荷が高いんじゃ」
状況を理解したユーリはもっともな考えをする。数日前のロイの無茶を見れば、マリアが同じことをして無事で済まないと考えるのは自然だ。ロイは顎に手を当てて考える。
「確かに。初速であれだけの速度が出ているなら、負荷もかなり高いはず。もしかしてさっきの一撃に賭けて、場外から戻ってこないなんてことも」
「それはありません」
ロイが心配しているとロゼッタが口を挟んだ。ロゼッタは空の彼方を見ながら微笑む。
「マリア様はいつだって奥の手を用意する方です。あの方と戦碁で戦ったことがありますが、勝てる気がしないのです。主となる戦術の裏に本命の戦術。そして予備の戦術を二、三ほど仕込む。要するに決して一つの作戦に賭けるようなことはしないということです」
ユーリ達が呆気に取られていると、広場の中でジョージが起き上がる。咳き込みながら腹部を押さえている。痛みよりも怒りが勝るようで、その表情は憤怒に満ちている。
「クソが、審判!」
「はーいなんでしょう」
怒りを隠そうとしないジョージに反して、審判である委員長は軽薄な様子で返した。
「決闘に場外失格はないのか!」
「ありませんよ。帰ってこないなら失格にしていいですけど」
ジョージは舌打ちしながら立ち上がり、マリアが飛び去った方角を見る。太陽が見守る雲一つない空だ。それはマリアが先ほど空中の水分をほとんど使ってしまったからだ。徐々に周囲の氷は溶け始めているが、それでも天候までは戻らない。ジョージは手を日よけにしながら空を眺め、大きく深呼吸する。そして一つの確信を得た。
「いや、あいつは戻ってくる。腹が立つがこんな間抜けな負け方はしないはずだ」
杖を強く握り、空を見つめる。観客は何が起きたかは理解できないが、ジョージの見つめる方向を一斉に見つめていた。時間が経つにつれ、ジョージの内心に緊張が走る。汗が頬をつたい、杖を握る手に力がこもる。
戻ってくる。そう判断したのは彼の理性だが、疑念が無いわけではない。もしかしてこのまま戻ってこないのではないか。振り払った疑念が徐々に大きくなる。彼の結論が変わらなくても、その存在が消えるわけではなかった。
やがて観客がざわつき始め、一部は帰り始めた。もう5分ほど経っただろうか。ユーリが頭を抱え、ロイが覚悟を決め始める。それでも動かない人物が3名。ロゼッタと委員長、そしてジョージだ。奇しくも彼ら全員が、彼女の性格と実力を認め、信頼している。相手の実力を認めてからがジョージの本領発揮。それはロイとの決闘でも明らかだ。
手をかざした空が曇り、雲の切れ間から光が差し込む。手を下ろした向こう側、光の中に小さな影の点が見える。ジョージは目を凝らし、内心では素直に感心していた。
「まさか本当に戻ってくるとは」
マリアは再び凄まじい速度で飛行し、帰ってきた。前方に杖を向け、閉じた傘のように前方に尖った形状の氷が形成されている。
ジョージが杖を振り、それなりに大きな氷塊と火球を飛ばす。マリアの氷はこれを斜めに弾き、速度をほぼ損なうことなく進む。ジョージはこれが移動ではなく、自分に向けた突撃だと気づいた。すぐさま巨大な氷の壁を作る。
轟音と熱気が帰路につく観客の背を通り抜けると、彼らは踵を返して駆けて戻り始めた。
マリアは氷塊を廃棄して突撃形態を解除する。壁の激突箇所に手を差し向けると、胸元のフィオラが光る。壁の一部が溶けて液体になった。激突する瞬間、ユーリ達の手に力が入る。マリアは杖を両手で強く握り、壁の溶けた個所に足から着地した。その瞬間、マリアは横に滑るように逸れた。マリアの足元に溶け出た水が氷結し、そこを滑っている。そのままマリアは後ろ向きに滑らか弧を描くように、氷の道を滑走しながら作り、滑るように着地した。マリアの髪を留めていた紐が千切れ、束ねていた髪が一斉に下ろされる。マリアが顔をあげながら、乱れた髪をかき上げる。瞬間、会場はこれまでの静寂が嘘だったかのように沸いた。声で空気が震え、熱気がまた魔術のエネルギーを供給する。
マリアは正面を見据える。氷の壁を挟んで両者は向かい合う。互いの像は歪んで見えるが、二人は決して目線を外さなかった。
「大したもんじゃねえか。あんな速さで飛んで行くから逃げちまったかと思ったぞ」
ジョージが声を上げて話しかける。
「それにしても、どういう仕掛けだ」
「何のことですか」
「とぼけるな」
ジョージはゆっくりと壁を回り込み始める。マリアも反対側へ歩き始めた。しかし壁を回るわけではなく、距離を取るように動く。
「身体能力が高いわけでもないお前が、あんな速さで動いて体への負担に耐えられるわけがない。何か仕掛けがあるはずだ」
「そんなに難しいことではないですよ」
マリアは一定の距離を確保して杖を地面に突き刺す。地面が水を吸ったのか、杖はマリアの腕力で容易に刺さった。そして服の一部を破り、それで髪を頭の後ろで束ね始める。
「身体への負担は基本的に内臓と血流によるものです。カニストさんのような過度な高機動運動ならいざ知らず、私は遠くで空間をかなり広く使って大きく動きました。だから対処可能です。慣性に逆らって内臓の移動を抑制しました」
それを聞いてロイは額に手を当てた。彼にそんな発想は無かったからだ。土壇場で思いついてできたかはともかく、今の今まで彼にどうすればよかったかという回答はなかった。
ジョージは高笑いをした。氷の壁の横を通り、マリアと直接目を合わせる。その目は互いを宿敵と認めた眼差しだ。
「なるほどな。随分繊細な魔術操作だ」
「馬車の移動による車酔い防止でそういう研究があったんですよ。いくら何でも三半規管にまでは使えないので、活用は難しいでしょうが」
マリアは髪を結び終わると杖を抜いて片手に持ち、両手を脱力して半身でジョージに相対する。ジョージは立ち止まり、まだ話し続ける。
「血流の問題はどうした。内臓の動きはイメージできても血管全ての血流を操作することは難しいだろう」
「そこは装備でどうにかしました」
マリアは金属板や部品を纏っている。マリアが肩のあたりにある金属紐を掴んで引くと、体に固定されていた金属板が分離し地面に落ちた。しかし体には依然いくつかのパーツがついており、意図して巻き付くように太い線が体に取り付いている。
「簡易的ですが負荷軽減の機構です。血流が集中する箇所を圧迫し、循環を支援する仕組みです」
これは純粋にジョージも驚いたらしく、目を見開いている。ジョージが想定していた回答は「それも魔術操作でどうにかしていた」だった。なぜなら彼にとって魔術はイメージの世界であり、内臓の慣性運動の操作などという離れ技ができるなら、「負荷軽減のための人体操作」としてセットにしてもおかしくはない。彼ならそうする。
しかしマリアにとって魔術は理論の世界であり、セットにして感覚で同時に行うことは考えられない。だから現実に起きる身体負荷の原因を突き詰め、物理的に対処した。
「なるほど天才というやつか。今日お前がやったことでいくつ論文が書けるかな」
「天才などいませんが、非常に参考になりました。ですからこんなことは早く終わらせて研究に入りたいですよ」
戦いの土壇場でこれだけのアイデアを思いつき、行動に移して成果を得た。歴史が動いたと言っても過言ではない。
「それでも」
ジョージが後光を背負いながら足を踏み出す。その一歩目は空中を足場にし、もう一歩を進めても落ちることはない。ジョージは階段を登るように空を歩き、やがて足を止めて空中で直立した。
「この浮遊魔術がある限り、俺の有利は変わらない。どうやらそっちは使えないみたいだしな」
ジョージは高らかに宣言した。一部疲労が残るが、まだまだ戦える。マリアは彼を強気に見上げるが、その体力はもうそこまで残っていない。魔術だけではない、単に体力がないのだ。それでも彼女は大きく深呼吸して空気を取り込んだ。
「あなたのそれは、浮遊魔術ではない」