第一章 十三幕
戦いに勝利する上で必要なもの。実力と運、そして戦う心意気だ。崇高な動機の有無は戦闘意欲の発生原因であり、勝敗を決めるものではない。いかに低俗であれ、戦いに快楽を求めるものであれ、勝てる者は勝てる。
そういう意味ではマリアに足りないものは、精神的なものだった。魔術による疲労は、発生事象の複雑さが大きな要因となっており、規模はそこまで影響しない。マリアの疲れはシナリオを使った予測戦法によるものだ。ではその疲弊で彼女は動けないのかと聞かれると、否である。普段から頭脳を酷使した研究活動を行う彼女は、頭脳の持久力を身につけている。
彼女が動けないのは、頼りにしていた戦法が破られ、地図も持たずに草原に放り出されたから。普通の人物なら地図がないとはいえ、草原で絶望することもないだろう。それでも彼女にとっては荒野で孤立するのと同じことだ。それほど彼女は確信を持ってこの戦法で挑んでおり、それを破られたことがこたえていた。
「どうした、もう終わりなのか?」
マリアはロイの気持ちをこれ以上ないほどに理解し、そして尊敬する。頭上に立ち、天を背負う実力者。この圧に立ち向かったことへの敬意が止まらない。マリアだって一度は立ち向かった、同じような状況で。しかしあの時は危機を迎える友人を守るように背にしていた。
「あ」
マリアは何かに気付く。そう、何も変わらない。彼はそこにいないだけ。彼女は彼の未来を背にし、守っている。マリアのやることは
「依然変わらない」
マリアは覚悟を決めて立ち上がる。そしてまた描き始める。勝利への方程式を、荒野を歩むための地図を。
「何ができるか見ものだな」
ジョージは考え込むマリアを、空中に腰掛けて見下ろす。今なら何をされてもどうにでもできる気がしている。そんな全能感が彼の全身に漲っている。
マリアは枝分かれする植物のように選択肢を広げていく。彼女が探しているのはシナリオではない。起死回生の一手。彼の手を全て封じられるような大逆転を探している。
集中の井戸に飛び込む。深く深く、人が集中しきった先に一体何があるのだろう。深淵は暗く一切の光が見えない。水底に何があるのか、目当てのものはないかもしれない。いやそれどころか、何もないかもしれない。そんなこと彼女は知ったことではない。実は彼女にとって、ロイの末路は二の次だ。彼女は考えるとき、思考そのものが目的になっている。神秘の世界の住人から世界を奪い、自分のものにするという、個人的な動機が思考を支える。
ひとつ。相手は自分を上回る戦闘技術をもつ。
ふたつ。相手は地の利を持つ。
みっつ。相手の通常魔術は、決して自分を上回っているとは限らない。
結論、彼女は叫ぶ。
「審判、ここにあるものは全て使っていいですか!」
予想だにしなかった問いかけに委員長は目を開いて驚く。動揺しながらも冷静に答える。
「はい!その辺の石ころ投げたっていいですよ」
「承知した!」
マリアはそう言うと杖を両手で強く握り、目を閉じる。願うものは力。否、願いではなく、その手で掴むという明確な意思がある。その瞬間、世界はその人のものになる。
フィオラが応えるように強く、強く輝く。あまりの眩しさに、観客の一部は手をかざしている。ジョージは瞬きをできるだけせず見つめている。目の前で、これまでに類を見ない魔術が行使されているのだから当然だ。
「ねぇ、なんか寒くない?」
最初に気づいたのは薄着の観客ではない。大学からそれなりに離れたところにいる、カフェにいる女性だ。後にわかることだが、この日、大学周辺を含む広い範囲で、季節外れの低気温を記録する。
「こいつやはり、桁違いだな」
ジョージは小さく呟く。会場内には無数の火球が発生している。一つ一つが大人ほどの大きさがあり、星々のようにゆっくりと軌道を動いている。観客は汗をかいており、マリアも熱気に耐えている。
魔術師の才能とは何か。しばしば言われるのは、大きく3つ。
まず魔術の規模。魔術は物質からエネルギーを取り出すわけだが、この物質には液体や気体も含まれる。故に人と比較してあまりに大きな物体でも、エネルギー抽出の対象として取ることは可能だ。
次に扱えるエネルギー量。広範囲から取れるからと言って、大したエネルギー量を扱えなければあまり意味がない。
そして最後に、複雑性。エネルギーの変換と付与に関して、繊細な操作をすることは困難だ。
これらそれぞれに秀でた才を持つものは珍しくない。干ばつ地域の湿度や気温をわずかに調整するものもいれば、特別大きな重量の貨物を運搬する魔術師もいる。複雑な操作に秀でて、職人のようなことをしている者もいる。しかしこれらを二つ以上兼ね備えるのは極めて稀有な例だ。
しかしここは魔術師の卵の粋を集めた魔術大学。それなりに才能のある者は、街中を雑に探すよりはいる。ジョージがいい例だ。山のような氷塊を生み出す。戦闘魔術のような器用な真似もできる。彼は自分の「才能」を自覚している。
ではマリアはどうだろう。彼女はロールベル派。魔術師の才能は存在しないか、存在しても大した影響ではなく、魔術師自体の努力でどうとでもなるとしている。確かに魔術師の努力、具体的には実技訓練や座学によって能力が向上することは事実だ。しかし彼女の実力が単なる努力で説明できるかは、説明に難くない。
「これくらいあれば」
集中状態のマリアが片手を杖から放し、ある方向へ伸ばす。火球が一つ消え、マリアのもとへ物体が飛んでくる。
「自転車?」
ジョージが眉間に皺を寄せる。マリアは火球を一つ消し、ロゼッタと乗ってきた自転車を自分の近くに引き寄せた。
ジョージは杖を構えて防御の姿勢をとる。マリアは杖を置く。否、捨てたと言った方が近い置き方だ。跪いてゆっくりと息を吸い、そして全て吐く。集中のために目を閉じて精神統一し、自分の中にしかないタイミングを図る。両手を合わせ、互いの手を握る。
会場内を舞っていた火球がゆっくりとマリアの近くに集まり始める。マリアが目を見開いた瞬間、フィオラは異常な輝きを見せた。光が液体になって波を立て、周囲に波及していくかのような、科学を否定するかのような光。ジョージの氷塊を砕いた3日前と同じ光だ。
指を開きながらゆっくり手を解く。真空に水が流れ込むイメージをしながら。火球は次々と萎み始め、代わりに変化し出した物体がある。自転車だ。金属が赤くなり、少しずつ形を変化させている。
「なるほど、そうきましたか」
そう呟いたのは委員長だ。口元に手を当て、笑みをこぼしている。
自転車の金属はそのまま全体が赤くなり、自転車としての原型を留めていない。液状になり、マリアの前で地面に液だまりになっている。マリアは立ち上がりながら、持ち上げるように手の平を上に向ける。すると赤く光る金属が球状に浮かび上がる。マリアが念じると金属は分裂し、それぞれが姿を変え始める。火球は次々と萎んでいき、金属は形が安定し始める。しかしこの時点で、これがなんなのか理解できている人間はいない。
最後にマリアは長い金属の紐のようなものを作り上げた。空中には謎のパーツがいくつか漂っており、マリアのまわりをゆっくりと回っている。金属の紐は自然と冷え、強度と柔軟性を実現している。紐はマリアの体を何周かし、そのまま各々のパーツの穴を通り、接続していく。パーツ自体はまだ冷え切っておらず、赤いところが残っている。
マリアが紐を掴み思い切り引くと、各パーツがマリアの体に一気に凝集する。マリアは同時に全てのパーツから熱を奪い冷やす。熱が一瞬炎となり、ベールのようにマリアの周りを舞った。
少女はシャツにロングスカート、そして全身に金属部品をまとっている。金属部品は紐で体に固定されているようだ。その顔は疲弊に満ちているが、やり遂げたという嬉しさの方が優っている。
「なんだそれは、お前自身が乗り物にでもなったつもりか」
上空でジョージが高らかに笑っている。座ったまま腹を抱えて、戦闘態勢は完全に解いている。
「そう、私自身が乗り物になったんです」
「笑わせてくれるな、ロールベル。がっかりはさせないでくれよ?」
「言われなくても」
マリアはそう言うと杖を拾って屈む。先ほど舞った炎がまたマリアの周りに集まり始める。
ジョージはこの時点で予想を立てる。
「絶対に突撃してくる」
そう予想するのは順当なことだった。マリアはいわゆるクラウチングスタートに近い姿勢をとっており、戦闘の素養があるジョージにとって、そこからできることは容易に絞り込めるからだ。そしてわかりやすい突撃体勢に対して考えられることは3つ。錯乱したか、速度に自信がある。あるいは体勢はブラフで本命が別にある。錯乱しているのなら冷静に叩けばいい。正直なところ、物量で押された方がジョージとしては面倒だっただろう。速度に自信がある場合も問題ない。戦闘経験がないマリアがロイの真似事をしたところで、大したことができないのは目に見えている。ロイの戦法は身体能力に大きく依存しており、空中機動の負荷に耐えられるから実現できるのだ。
ジョージにとって面倒なものは、本命が別にある場合だ。ジョージから見たマリアの脅威は物量もあるが、それ以上に知識にある。莫大な知識と膨大なエネルギー操作は、発想次第でなんでもできると言っても過言ではない。理屈が解き明かせている事象の大抵を再現できるだろう。そんなマリアが隠し玉を用意しているとなれば、ことは深刻だ。
ジョージが出した結論は、見てから対応することだった。隠し玉と言っても魔術の場合はエネルギーごと隠す必要があるが、そんなことは不可能だ。少なくとも今はそれが見えない以上、見てからの後手の対処で間に合うと判断した。
マリアはゆっくりと息を吐く。本人たちの意思など一切わからない外野は、マリアがつけた装備に意識が向いている。マリアのフィオラの光で、事態が見えていた人があまりいないのだ。急に激しくフィオラが光ったかと思えば、マリアがよくわからない装置を身につけている。皆彼女を指さしてざわめいている。それはユーリたちも例外ではなかった。
「あの装置なに?」
「わからない、板が組み合わさっているけど、防護用なのかな」
ロイもその装置の機能については理解していない。
「どちらにせよあんな重たいものを背負って、速く動けるわけがない」
その場にいた全員の意識がほんの一瞬、マリアから逸れた。自分であれは何だと考え、他者と共有しようと周囲に意識を向けた瞬間。そして人々がマリアに意識を戻した瞬間、マリアはすでにその場にいなかった。
そのことに理解が追いつくまでの数秒、観衆のざわめきが静寂に変わる前の認識の隙間。ジョージは何が起きたのか理解できなかった。わかるのは腹部に鈍痛が走っていること。マリアは杖を両手で棍棒のようにもち、移動のエネルギーをそのままに、ジョージの腹部を全力で叩いた。