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第一章 十幕

 ユーリは講義を終えて午後の予定を思案していた。授業の課題に取り組むことは決めていたが、その場所を考えている。

 風で木々が揺れ、葉の擦れる音が聞こえる。ユーリが歩いていると、目の前に人影が現れる。


「アナベルさん」

「ロイくん、もう歩いても平気なの?」


人影の正体はロイだ。体のところどころに治療の跡が見られる。精神的に全快というようには見えないが。


「決闘から二日経つけど、安静にしてれば大丈夫だって」

「そう、よかった」


ユーリは少し安心したようだ。


「ところで、ロールベルさんは?」

「相変わらず」


そっか、とだけロイは返事をした。


 話は二日前、決闘の顛末に遡る。


「ジョージ・ライブラ。あなたに決闘を申し込みます」


マリアは宣言した。ジョージはしばし動けなかった。傷や疲労ではない。驚き、そして呆れによるものだ。本当にマリアがどんなつもりなのか理解できなかったのだろう。マリアは緊張により肩で息をしている。2人が向かい合って固まっていると、拍手が鳴り響いた。


「素晴らしい!」


それは委員長によるものだった。人当たりの良い笑顔を浮かべながら歩み寄ってくる。


「まさかマリア・ロールベルさん。あなたにここまでの実力が秘められているとは」


マリアの名前を聞くと、ジョージは眉間に皺を寄せた。


「マリア・ロールベル?」

「そうですよ。2年飛び級で主席入学、研究面でも優れた成果を残している、天才女学生と名高い、あのマリア・ロールベルさんです。まさか座学だけでなく実技も優れているとは」


ジョージは戦闘体勢を崩し、委員長とマリアの近くに歩み寄った。


「そのロールベルが、ライブラの俺に決闘を?」

「そのようですね、受けますか?」


ジョージは少し思案し、委員長に質問した。


「それは構わんが、2つだけ確認させてくれ。この場合、この決闘はどういう扱いになる?次に、開催するならいつになる?」

「この決闘に関しては、残念ながらカニストさんの敗北ですね。先ほどのカニストさんは攻撃を回避することはできなさそうでしたので、これ以上の継続は困難と判断します。

開催に関しては少なくとも明日以降で考えています。連戦は流石のあなたも疲れるでしょ?」


委員長はあらかじめ考えていたかのように、つらつらと言葉を並べた。いや、もしかしたら本当にあらかじめ考えていたのかもしれない。


「け、決闘は3日後でお願いします」


マリアはゆっくりと息を吐いて呼吸を整えた。旗を体の前で両手で持ち、目線は伏せられていた。先ほどの毅然とした態度が夢のようだ。


「こちらの要求はカニストさんがしていた要求に加えて、カニストさんの退学取り消しです。三日後までに実施する必要があります」

「そういうことでしたら、三日後にしようか」


委員長は微笑んで答えた。そしてその顔のままジョージの方を向き直した。


「あなたは何か要求ありますか?」

「いや、特に無い。別にそいつ相手に何かしてもらうようなこともない」

「何でもしてもらえるのに?」

「黙れ」


そうですかとだけ答え、委員長はまだ状況を飲み込めない観衆を見渡して手を挙げた。


「今ここに、『ムーリアリア』ジョージ・ライブラと、マリア・ロールベルの決闘成立を宣言する!

場所はここ、決闘広場。勇あるものに幸あらんことを!」


委員長は副委員長を残し、そそくさとその場を後にした。ロイの時とは違い、観衆は事態を理解できず、歓声もあげられずにいた。ジョージはマリアを一瞥して立ち去った。マリアは足音が消えるまで目を伏せて、子犬のようにプルプルと哀れに震えていた。


「ロールベルさん」


弱々しい声でマリアは我に返った。ロイは切れそうになる意識の中で、懸命にマリアに何かを伝えようとしていた。


「こんなことは、やめたほうが」


ロイが糸が切れるように意識を失うと、副委員長が体を支えた。


 その後、副委員長の指示でロイは医療機関へ搬送。二日目にして治療はほぼ完了した。ロイの身体的な治癒能力もあるが、フィオラの恩恵であろう。


「ロールベルさん、まだ学校来てないんだ。やっぱり明日の決闘は無理があるかもね」

「先生たちはとうとう学友に馴染めなかったって諦めてたよ」


2人は歩きながら話している。


「ロイ・カニストさんだよね」


急に話しかけられ、ロイは返事は辛うじて返した。顔馴染みのない人物のようだ。相手は手を差し出しており、ロイも差し出して握手する。


「この前の決闘すごかったよ!惜しかったね」

「ありがとうございます」

「これからも頑張ってね!」


相手はそのまま立ち去っていった。彼はどうやら決闘の条件を知らないらしい。


「みんなお気楽なことで」


ユーリはあからさまに眉間に皺を寄せて不機嫌な顔をしている。


「しょうがないよ。みんな戦いを見にきてるだけだから。それにしても決闘を見る人も増えたみたいだね」


よく見ると、周囲の人々は皆、ロイのことを見ている。ロイはそれに対して何の感情も湧かない。負けて手に入った名声、しかも数日後に後にする場所の名声など、何の意味もない。

 名声に囲まれて孤独に俯くロイに、ユーリは話しかける。


「ロイくん、マリアのところ行ってみようよ」

「ロールベルさんの家の場所、知ってるんだ」


ユーリは時計を取り出し、時間を確認する。


「ロイくん時間とかは大丈夫?ちょっと遠いから、タクシー使おうか」

「予定は特に無いよ。結構遠いんだね」


 2人は歩き続け、大学の入り口付近まで来た。時刻は正午だが、今帰る学生もいれば今来る学生もいる。

 道路の近くに馬車が待機している。馬は1頭で、馬車も小さめだ。窓にはカーテンが取り付けられ、外から中は見えない。御者は見当たらず、ロイは周囲を見渡す。


「御者の人はちょっと外してるみたいだね」

「私、乗馬憧れてたんだけど、もらっちゃおうかな」


ユーリの冗談にロイは困ったように笑い、御者らしい人影を探したが、見つからなかった。


「ロールベルさんも普段から馬車で来るの?」

「マリアは近くの家から自転車。今から行くのはマリアの実家。引きこもるつもりで、世話してもらえるところに行ったみたい。住所は知ってるけど、行ったことはないの」


ユーリは馬を撫でており、馬も特に警戒していない。撫でながらポケットから手紙を取り出してロイに見せ、すぐにしまった。


「魔術車が使えれば便利だけど、あれ高すぎるから」

「庶民の市場に出回ってきたのは最近だしね」


 魔術車は最近製品化された四輪車である。石炭を使って水を熱し気化させ、その水から魔術で熱を奪って機械を動かすことで発進させることができる。ただし、常用するには石炭が高価であることから、周囲の熱を用いて動かすことが多い。高度な機械製品のため機体自体が高価で、しかも魔術師しか運転できないため市場は冷めている。


「魔術により効率が飛躍的に伸びた農業に根ざす、馬車の方が今は市場を席巻していると知ったら、発明家は立場ないですよね」


ロイたちの後ろから女性が話しかける。振り返ると、パンを咥えた小柄な女性が、荷物を持って近づいてくる。

 ロイたちは彼女に見覚えがある。決闘前に取材に来た記者風の女学生だ。


「記者の人でしたよね?」

「よく覚えてますね、フライヤです。一年生なので敬語はいいですよ」


フライヤは荷物から野菜を取り出し、馬に差し出す。食堂の廃棄を貰ったらしい。


「実家が農家でして、タクシーも稼業の一つなんですよ。どこまで行かれます?」

「ここまで、それなりに急いで」


ユーリは目的地をメモに書いて渡す。フライヤはそれを見て微かに驚き、メモを返す。


「覚えたの?道案内が必要かと思ったけど」

「いりませんよ。親戚の家なので」


ユーリとロイは目を合わせる。フライヤは御者の席について手綱を取った。


「私の名前はフライヤ・ロールベルです。そのロールベルの親戚ですよ」



 ムーリアスの街中をフライヤの馬車はそれなりのスピードで走っている。サスペンションはあるので揺れは少ない。


「他の馬車より速いけど、安全にね」

「私が魔術で馬車を軽くしてるからですよ、ご心配なく」


ユーリは窓からフライヤに一言かけたが、特に心配は無いようだった。集中させろと言わんばかりのフライヤに気圧されながら、ユーリは荷台に戻った。


「この速さならあと30分もあればつきそう」

「ロールベル家って結構親戚多いのかな」


荷台は普通の人を想定しているためか、ロイには少し狭いようだ。


「まぁ別に血統主義でもないだろうから、一般家庭くらいじゃないの」

「一応言っておきますけど、別に遮音性とかないので会話は聞こえますからね。あと途中で減速して休憩するので45分くらいかかります」


足元からフライヤの声がして2人は驚く。足元に伝声管があり、それを通じて御者と会話する仕組みのようだ。


「ちなみにロールベル家は親戚それなりに多いですよ。面倒なんで全貌を把握してるわけではありませんけど、私とマリアは顔見知り程度です」

「前にロイくんの取材したときは気付かなかったの?」


ユーリがガサガサとカバンを物色し、食べ物を取り出そうとする。


「私は気付いてましたけど、あの子は人の顔見ませんし、親戚の集まりに顔も見せないので。あと食事はしないでくださいね、こぼす人がよくいるんで」


ユーリはそれを聞いて思うところがありそうだったが、渋々カバンを閉じる。


「私は農学部ですけど、彼女やあなたたちは理学部。真理を求めて魔術そのものを学ぶ人種です。私はあの子しか知りませんけど、たぶんあの子は異常ですよ。あの子の勉強風景を見たことは?」


フライヤは少しため息をついて、手綱を操作する。ロイたちは体の揺れから馬車が減速したのを感じる。


「一緒に勉強したことくらいならあるけど、そんなに変な感じではないよ」


馬車はだんだん減速し、とうとう停止した。フライヤは席を降り、馬車の扉を開く。


「馬と私の休憩です。何か食べたければそこに腰掛けてください」


フライヤが手を差すのは馬車の横についている、腰掛けスペースのようなものだ。おそらく人が座ることは想定していないだろうが、周囲に座れそうな場所はない。

 フライヤはユーリの返答を待たず、車両の後部扉を開く。中から水の入った容器を取り出し、馬の元へ持っていく。かなり重いようだが、両手で懸命に運んだ。そして残っていた野菜を手ずから与え始める。


「言い方が悪かったですね、あの子が研究しているのを見たことは?」

「研究?」


ユーリは腰掛けスペースでお菓子を食べている。ロイは馬が気になるのか、外に出て眺めている。


「既存知識を得ることと、自分で何かを生み出すのは違いますからね。まぁたぶん、今日よくわかると思いますが」

「どういうこと?」

「あの子は今、戦闘について猛勉強中なんですよ」


フライヤが馬に野菜を与え切ると、水の容器を持ち上げる。


「決闘に備えてね」

「勉強でどうにかなるとは思えないよ」


馬を撫でながらロイが呟く。その目には現実を知った者特有の諦めが映っている。


「確かにロールベルさんの読みはジョージ・ライブラの行動をほとんど言い当てていたし、一度見たから次はほとんど言い当てられるかもしれない。それでもきっと勝てないよ。ロールベル家で戦闘訓練みたいなのを積んでない限り、戦いのときにどう立ち回るかというのはわからないはずだ」


立ち止まって耳を傾けていたフライヤが、少し考えるように止まって、また歩き出した。後部扉を開いて入れる。


「生物の世界ではカエルがヘビを食べる例があるんですよ」


扉を固定しながら彼女は言った。ユーリがお菓子のゴミを握り潰す。


「何事にも例外、異常事態の発生があるということです」



 馬をしばらく走らせてから止まると、伝声管から声がする。


「到着です」


ロイたちは扉を開き、周囲を見渡す。郊外の町だが、それなりに栄えている。図書館だろうか、大きな公共のものらしき建物の前だ。


「ありがとう、お会計は?」

「これくらいです」


そういうと彼女は紙を見せる。紙には馬の費用、サービス費用等が記載されており、総額が大きく記載されている。ユーリとロイはカバンから財布を取り出し、半分ずつ支払う。


「ちなみにどの建物?」

「これです」


ユーリの質問に対し、ユーリは親指で建物を指差した。大きな公共の建物だ。


「これ、家なの?」

「厳密には家ではありませんが、ここを通った方が早いです」


 フライヤに促され、ユーリたちは進む。扉には「ロールベル図書館」とか書かれている。


「ロールベル家の書庫です。どうせならと図書館にしていますが、一応私有地の施設です。中の人にマリアに会いに来たと言えば案内してくれます」


フライヤはそう言うと踵を返して馬車に乗る。


「私は予定があるので、帰りは別のタクシーを使ってください」

「ありがとう」


ロイが軽く手を振ると、フライヤは会釈して手綱を振った。


 ユーリが緊張しながら、扉を開く。れっきとした図書館が中には広がっている。高い窓から優しい光が差し込み、老若男女、様々な人が本を読んでいたり、読んでいなかったりしている。一家庭の蔵書量ではないが、一家代々で本を受け継いでいけば確かにこうなるのかもしれない。

 入り口のカウンターには初老の男性が座っており、姿勢からおそらくは本を読んでいる。


「すみません、マリア・ロールベルに会いに来たんですが」


ユーリが話しかけると男性は本から目を離して顔を上げる。


「あぁ、左様ですか。あの子に会いにくる友達ができたとはね」


男性はカウンター下の棚から、鍵と木の板を取り出し、木の板をカウンターに置く。板には「離席中」と書かれている。男性は立ち上がり、ついてくるようにユーリたちに促した。

 男性は図書館の奥へと迷いなく歩いていく。特に案内等は掲示されていない。深い森のような本の迷宮は、地図を渡されてもユーリたちは辿り着かなかっただろう。

 男性が本棚の角を曲がると奥に扉がある。扉には鍵がかかっており、男性は持ってきた鍵でその扉を解錠した。

 扉を開くと、そこは植物園になっており、実際に見学に来ている客もいる。駆け回る子供や、植物をスケッチする大人がいる。まるでおとぎ話のような不思議な扉だ。


「まっすぐ行って、扉の鍵をこれで開けてください。その先に係の人がいますから、鍵はその人に返してくれればいいです」


そう言うと男性は鍵をユーリに渡した。


「マリアちゃんによろしく伝えといてください」


男性は会釈して本の迷宮に帰っていく。扉が閉まると、まるでカモフラージュのように、扉は植物で覆われている。2人は夢の中にいるのではないかと錯覚したが、先に進む以外に道は残されていなかった。


 ユーリたちがしばらく歩くと、男性が言ったように扉がある。扉はあるが、入り口同様にカモフラージュされており、おそらく扉だろくと推察できるだけだった。鍵穴を辛うじて見つけ、ユーリは無事に扉を開くことができた。

 扉を開くとそこには女中と思われる服を着た若い女性が立っている。そこは家屋というより「屋敷」という雰囲気の建物の内部だ。


「ようこそいらっしゃいました。本日はどのようなご用でしょうか」

「あの、マリア・ロールベルに会いにきて、友達なんですけど」

「承知致しました。マリア様はこちらです」


そう言うと女中は振り返って絶妙な速度で歩き出した。3歩ほどの距離を保ってユーリたちはついていく。


「私、本物のメイドって初めて見たかも」

「僕も初めてだよ」


ヒソヒソと2人は話す。身長差からロイはいつもよりも屈んでいる。

 おそらくは家屋と思われるこの建物には違和感があるが、2人はその正体に気づくことができない。大きさの割に質素なのだ。それなりに長い廊下、それなりに高い天井。金持ちの家という感じではあるが、芸術品や装飾の家具などは全く置かれていない。


「何というか、大きい家ですね」

「数世代前のロールベルの血筋にある建築家が設計したものです。ロールベル家は富に無関心ですが、単に大きい家を設計したかったからこの大きさなのです。存外住んでいる人数は少ないのですよ。清掃係がやり甲斐がないとよく嘆いております」


女中は淡々と答える。しかし質問に答えるだけかと思いきや、女中は饒舌に語り始める。


「ここに来るまでにどこを通りましたか?」

「図書館と、植物園です。図書館が実は書庫っていうのは聞きました」

「左様ですか。その通り、図書館はロールベル家の書庫です。植物園も、本来はロールベル家の庭園の一部ですよ。おそらくお二人が通ったのは屋内庭園ですね」


ユーリとロイは思わず顔を見合わせた。女中は振り返って微笑む。手を口に当てる所作が上品だ。


「扉がわかりづらかったでしょう。間違えて家屋や図書館に入ってしまう人がいらっしゃるんですよ。家の正式な玄関は別のところにあります」


女中はそのまま立ち止まり、振り返る。扉を手で差し、軽く会釈する。


「こちらがマリア様のお部屋です」


扉はそこまで大きくはないが、何故か禍々しい雰囲気を感じる。扉の横には10冊ほどの本の塔が2つ築かれている。塔の片方の上には何か書かれた紙が乗せられている。女中はそれを手に取る。


「その紙はなんですか?」


ロイがおそるおそるたずねる。聞いていいものなのか測りかねている。


「マリア様は大変本を読まれます。これらは書庫から借りているものですので、読み終わると返すためにこちらに置かれています。この紙には次に借りて欲しい本を書いてくださっているのです」


ユーリはそれくらい自分で持って行けと思ったが、女中に言ってもしょうがないので黙っておいた。


「集中したマリア様はちょっとしたノックでは気付きませんから、強めに叩いてください。それでも気付かなければ扉を開けてしまって問題ございません。稀に家具なんかで塞がれてしまうこともあるので、そのようであれば蹴破って構いません」


女中は会釈して、一歩下がる。ロイがドアを軽くノックするが、扉の向こうから返答はない。


「ロール……マリアさん、来たよ」


声をかけてもやはり返事はない。ロイの前にユーリが割って入り、拳を握る。そして扉を強く叩いた。広い廊下に大きな音が響く。


「マリア!ユーリだけど、入るよ」


ユーリがしたのは許可取りではなく、宣言だった。そのままユーリは躊躇なく扉を開く。

 部屋は暗いが、窓から辛うじて夕方の陽光が入っている。床には本の山がいくつもできている。そしてその山に囲まれた盆地で、マリアは床に向かっている。山に囲まれてうずくまる巨人にも見える。

 俯くマリアを見て、ロイは駆け寄ろうとしたが、足元の違和感に気付く。踏んだ床が少し動いたような気がする。改めて床を見るとそれは白い床ではなく、床一面に散らばった紙だった。ロイは驚いて思わず一歩下がる。ユーリは紙を一枚拾い上げて眺める。


「魔術で移動する物体、それも内部に物体が封入されている入れ物の運動が計算されてる。これたぶんロイくんの魔術だよ」


ロイが驚いて紙面を見る。自分が過去に計算したことがある式が書かれている。しかしそれよりもはるかに複雑な要素が考慮されている。


「もしかしてこれ全部、決闘の計算なのか」


部屋は決して狭いわけではない。その紙の量は部屋の床に薄く敷き詰められているわけではなく、膨大な計算を表している。

 天才は多種多様だ。しかし彼らに共通するであろう性質がある。努力を怠らないことでも、金銭的に恵まれていることでもない。それは熱量だ。努力する天才もいれば、努力の天才もいる。当然、努力しなくても才ある者も。

 しかし彼らに行動に移すだけのやる気がなければ評価されるだけの成果もでないのだから、そもそも天才とは呼ばれないだろう。そういう意味では、天才に必須の条件とは「やる気」なのかもしれない。

 マリアの熱量は間違いなく天才たちが持つそれであり、ある種の狂気を感じさせる。ユーリたちが暗闇に目が慣れると、マリアが決して俯いて涙を流しているわけではないことがわかった。マリアは目を見開いて、床に置いた紙に頭の中の世界を出力し続けている。それはある意味で世界を描くという絵画の領域とも言える。


「凄まじい集中力でしょう。あのようにされている時は声をかけてもお気づきになりません」


部屋の外にいる女中が、内部の様子がわかるかのように話す。


「お話は聞いております。明日の決闘はご心配いりません。必ず間に合います。マリア様に代わって私がお約束いたします」


 女中に連れられて、2人はマリアのもとを後にした。期待も不安も胸に押し込めて、入り口と同じドアから出て行く。女中の話ではロールベル邸は周囲に広大な土地と、公共と言える施設を有しており、道路に一番早く出るには、図書館と植物園を突っ切るしかないらしい。


「マリアはやっぱり天才なんだね」

「凄まじかったね」


ユーリたちは女中についていく。女中はランタンを持ち、暗い植物園を迷いなく歩いて行く。


「実は以前、マリア様とお話ししたことがあるのです。あの集中状態はどのようなご気分なのかと」


女中は前を向いたまま、ちょうどいいペースで歩き続ける。


「なんて言ってたんですか?」

「目の前にある答えの周りをぐるぐる回っているような、壁の向こうに出口があることがわかっている迷宮で、彷徨うような気分だと。まるで神への挑戦ですね」


ロイが息を漏らして苦笑する。


「それは嫌だな」

「えぇ、私も同感です。ご奉仕ができませんから」


女中が扉を開くと、天窓から月明かりが差し込む。植物を優しく照らし、神秘の花が開きそうだ。


「ですがマリア様は違う。あの方は研究を、真理の探究や神への挑戦とは考えていらっしゃらない」


女中は月明かりのカーテンの下を、なんの感慨もなく歩いて行く。


 女中は思い出す。彼女がまだ賢さゆえに人に馴染めなくなる少し前、その時もマリアはこの月明かりの下にいた。散歩したいという彼女に女中は付き合った。

 月明かりと戯れるマリアの姿に彼女は目を奪われた。少しの間動けないほどに。


「リンク?」

「あ、失礼いたしました。あまりにも綺麗で」


声をかけられて女中のリンクは気がついた。


「本当にきれいだね。ここを建てたご先祖様も、きっとこうしていたに違いないよ」

「えぇ、きっと。光の中で踊るお嬢様は、まるで神話の存在です」


リンクは微笑む。マリアは後ろを向く。


「リンク、私はお勉強が好き」

「はい、存じ上げておりますが」


リンクは首を傾げる。マリアは振り返る。


「神秘や神話は人類が広すぎる世界に怯えていた時代に、自分たちが見えない暗闇に空想した夢のようなものだと思う」


神話の存在という言葉が、彼女の気に食わなかったのだろうか。リンクは焦り、頭を下げて謝罪を試みる。

 しかしマリアは矢継ぎ早に話を繋ぐ。


「私、勉強するとね。それらから世界を奪う気分になれて好き。神秘の世界の住人から、世界を奪って私たちのものにするの」


リンクが顔を上げるとマリアは月明かりに照らされて無邪気に笑う。そしてまた庭園の中を、揺らぐ月光のカーテンをすり抜けながら駆ける。


「撤回致します、マリア様」


リンクは自分の発言を撤回する。スカートを片手でわずかに上げ、胸に手を当てて頭を下げる。


「あなたは神話の中の登場人物ではない、あなたこそが神話なのですね。

 ロゼッタ・リンク、マリア様に仕えることをここに誓います」


かしこまった態度のロゼッタ・リンクにマリアは駆け寄って微笑む。


「……ロゼッタ?」

「はい」

「言い過ぎ」


そう笑うと、マリアはロゼッタに花を差し出す。忠誠を意味する美しい花だ。


「でも名前を教えてくれてありがとうね。ロゼッタ・リンク、素敵な名前。これからよろしく、私のロゼッタ。でも主人ではなく、友人くらいには親しくしてほしいわ」


 この国の女中は生涯仕える主と認めた者にしか名を明かさない。ロゼッタはロールベル家の女中というより、マリアに仕えている。マリアが塞ぎ込むようになってもロゼッタは側を離れなかった。


 ロゼッタが図書館の入り口を開くと、道に馬車が停まっており、使用人と思われる男が待っている。フレイヤの馬車よりも大きく見え、馬も二頭いる。


「彼が自宅まで送迎してくれます。マリア様がご対応できない非礼をお許しください」


ロゼッタが目配せすると使用人の男は会釈して馬車の扉を開けた。


「ありがとうございました、マリアのことお願いします」


ユーリとロイはロゼッタに挨拶して、馬車に乗り込もうとする。乗り込む際に使用人から用事の際は窓を叩くよう言われた。


 出発してしばらくしてユーリは、暗い馬車の中を見渡す。暗くてもフレイヤの馬車とは違い、家具のような椅子、こだわりのある内装が目立つ。


「どうかした?」


ロイが声をかけるとユーリは顎に手を当てて頷く。


「伝声管とかはないね」

「だから用があったら窓を叩くように言ったんだ」


ユーリは座り込んで足を組む。取り付けられた窓から外を眺めながら呟く。


「あのメイドさんとマリア、できてるのかな」


驚いたロイが咳き込む。ちょうど呼吸の隙間だったのだろう。ゆっくりと深呼吸して整える。


「僕にはわからなかったんだけど、なんでそう思うの?」


ロイがたずねて、ユーリは腕を組んで唸る。自分でもなぜそう思ったのかはわからなかったのだろう。


「女の勘?」


 ロゼッタが見送りから戻ると、部屋の扉が開いている。ロゼッタが駆け寄ると、中からマリアが出てくる。乱れた髪、おそらく他の人には見せられない、適当な服装だ。


「あぁ、ロゼッタ。終わったよ」

「マリア様、おつかれさまでした。お食事になさいますか?」

「いや、今はとにかく眠いかな」


確かにマリアはなんとか立っているように見え、ふらついている。ロゼッタが体に手を添えると、立つのもやっとだったのか、マリアはロゼッタに倒れかかった。


「今日はもうお休みになってください」

「うん、ありがとう。さっき誰か来てた?」


ウトウトとしながらマリアはたずねた。


「はい、ご学友がお二人。素敵なお友達です」

「ユーリとカニスタくんらか、応対できなくて悪いことしちゃったかな」


ロゼッタはマリアを抱き止めたまま、ゆっくりとしゃがみ込む。


「こうなっているのもご学友のためなのでしょう?これくらい大目に見ていただけますよ」

「そっか、人付き合いはわからないね。いつもありがとうロゼッタ、明日もよろしく」


マリアはそう呟くと、糸が切れたように眠りについた。ロゼッタの腕の中で。


「もちろん、あなたのロゼッタにお任せください」


ロゼッタはマリアを抱え上げ、ベッドまで運んで寝かせる。寝顔を数秒見つめ、首を横に振った。

 部屋の明かりを消し、一礼してから扉を閉める。部屋から移動する道すがら、手にしたランタンの火が、上機嫌に揺れていた。


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