第一章 九幕
一つ呼吸をする度、一つ鼓動を打つ度、内臓の鈍痛と皮膚や筋肉の鋭い痛みが押し寄せる。その情報を処理するために、脳が他の処理を止めているような気さえする。それでも脳が生命の危機信号を鳴らしているのは、頭上の男の存在ゆえだろう。頭上から太陽以外にロイを照らす存在がもう一つ。ムーリアリアが彼を見下ろしていたのだった。
ジョージは勝利を噛み締めている。もしかすると敗北していたかもしれない。その転換点となった場面はいくつもあった。追い詰められてからの勝利、初めて全力で戦ったことの解放感に、彼はひたっている。
そして同時に寂しさも感じている。ロイがもう立ち上がれない、おそらく魔術も使えないということがわかるからだ。大きく息を吸って、ゆっくりと吐き切る。彼の乱れた呼吸はそれだけで元に戻った。
彼は確かに魔術の行使で疲弊しているが、それは全力で走り続けることができないということであり、少し休憩を挟めばまた走れないことはない。
一方でロイは身体的なダメージが主だ。魔術だけなら使用できるだろうが、それ以上に身体的なダメージで動けないだろう。
会場は静まり返り、ある言葉を待っている。しかしそれはいつまで経っても唱えられない。審判である委員長はこの様子を黙って見ている。
「委員長、止めないのですか」
傍らにいた副委員長が委員長に訊ねる。片手には杖を持ち、もう片手には大きな旗を持っている。白地にフィオラをモチーフにした紋章が描かれている。
「なぜ?」
「ロイ・カニストさんはもう戦える状態にありません。今すぐ医者に診せねば後遺症が残る恐れさえあります」
淡々と話しているが、事態が一刻を争うことは明らかで、副委員長は内心かなり焦っている。委員長は決闘から目を離さず、静かに考えている。
「んー、だめかな」
副委員長は自分が就任してから、彼女の審判を見るのは初めてだ。故に委員長がどのような基準で決闘を止めるかは知らない。
「何故です」
「ロイくんはまだ意識があるし、ジョージくんもまだ臨戦体勢だし。フィオラを身につけている以上、よほど死にはしないよ」
「そんな心配はしていません!」
静まり返る場内に副委員長の声が響く。副委員長が咳払いをし、周囲に聞こえない声量に絞る。
「確かにフィオラを身につけていれば、我々ミリーの人間はよほどの損傷がなければ死亡しません。ですがそれは仕組みが不明で、しかも人体実験もできないせいであくまで民間療法なんですよ。彼には正式な医療措置が必要です」
「そう、肉体的損傷が厳しいだろうけど、それくらいでは死なないし、意識もあるよね。何より彼の負傷は自身の無茶によるものが大半だよ。決闘による負傷でない以上、止められないなぁ」
軽く言っているが副委員長にこの言葉は重くのしかかった。喉まで出た言葉を呑み込むが、やはり吐き出す。
「では、どうなったら止めるんですか?」
副委員長の言葉に、委員長はまた少し考える。
「んー、流石に気絶したら止めるよ。あとは確実に命を落とすような攻撃をジョージくんがしたら、命中直前に止めるかな」
「そんなタイミングよく止められるとは」
副委員長がまた声を荒げそうになると、委員長が手を差し出して遮る。目線は決闘から離されていない。
「でも何だか面白くなりそうな気がするんだよね。私の勘は結構当たるよ」
彼女が微笑むと、副委員長は自分達に近づいてくる人影に気づく。
「け、決闘を終わらせてください。カニストさんはもう戦えません」
その女性は長い金髪を一つの三つ編みにまとめ、大きな眼鏡をかけている。控えめな態度だが、主張には確固たる意志を感じる。
「決闘成立時にいたね」
委員長は決闘から目を離し、彼女の方を向いて少し屈む。以前会った時よりも迫力があり、マリアは俯いてしまう。ユーリは出遅れ、すぐに飛び出したマリアの早さに驚いている。
「君がこの場に来るとは、正直思わなかったよ」
「委員長、失礼ですが顔見知りで?」
副委員長は委員長が目を離したことを察し、決闘を監視している。マリアから見ると委員長の背後にいる。
「この子はマリア・ロールベルだよ。知らない?」
副委員長は目を離さずに驚きの声を上げる。
「その人が、あのマリア・ロールベルですか」
「そうそう。それでマリアちゃん。何の用かな?」
マリアは親族でもなかなかされない、ちゃん呼びをされて一瞬驚いたが、すぐに精一杯委員長を睨んだ。これだけでも彼女にとってはひどくストレスのかかる行為だ。
「け、決闘を終わらせてください。カニストさんはもう戦えません」
「残念だが無理だ、ロイくんはまだ意識があるし、負傷はほとんど自分で生み出したものだ。対戦相手の攻撃による負傷でない以上、決闘を止めるほどの負傷とは言えない」
マリアは副委員長と全く同じことを聞いて、委員長はまた同じことを伝える。副委員長は眉間に皺を寄せて、見えないだろうがマリアに共感の意を示した。
しかし、委員長はここで副委員長と違うことを言うことになる。
「時に、副委員長」
「え?はい」
委員長は屈んだ姿勢を戻しながら、上に視線を向け、わざとらしく何かを思い出すような仕草を取る。
「この決闘は実は伝統的でないルールがあるね?」
「えぇ、まぁいくつかはあります」
「そう。その理由は様々だが、この決闘が本来の決闘ではなく、戦闘教練に源流を持つことに起因するものがある」
マリアは委員長の意図を察せず、困惑している。
「あの、何の話を」
マリアが口を挟もうとした時に、彼らの横で強い光が放たれる。発生源はジョージだ。彼のフィオラがこれまでにないほど強い光を放つ。
ジョージは決闘終了の合図がないことから、委員長の方針を「徹底的にやる」と解釈したのだ。しかしジョージとしても死に体の実質的敗者に、先ほどのような本気の攻撃を加えるほど、厳しくはない。であれば、ロイに降参させる方がまだいくらか人道的だ。
ジョージは空に立ったまま杖を振り上げる。何の複雑イメージもない、願うはただひたすらに圧倒的な力。空中に水の塊と、熱が炎の形をとって現れる。徐々に水の塊は大きくなり、炎は強くなっていく。やがて水はちょっとした建物程度の大きさになった。ジョージが拳を握るとその水は凍り、周囲に炎を従えた。
威力を誇示し、ロイの心を折る算段のようだが、委員長たちには、ジョージが本当にトドメを刺そうとしているようにしか見えない。観客も同様で、ロイと席の近いものは避難を始めている。
「見事だねえ」
委員長は人ごとのように呟いた。副委員長は旗を持ったまま、部下に指令を出している。おそらく万が一が無いように止める準備を進めているのだろう。伝播していく命令に、部下たちは身構える。
「委員長!止めてください」
マリアが委員長に掴みかかる。
「あ、あんな質量、委員会の人たちで受け止められるんですか?ムーリアリアが引き出す量と同じエネルギーを、委員会総出なら再現できると?」
マリアが体を揺するが、委員長はびくともしない。体幹が鍛えられている。委員長はにこやかな表情を崩さずに、マリアを体で突き飛ばす。マリアは尻餅をついて転んでしまい、拍子に三つ編みが解けた。ユーリが飛び出そうとするが、委員が危険と判断して制止する。
「副委員長、先ほどの続きだ!」
委員長が高らかに喋る。マリアからは視線を外さない。
「決闘には実は一対一で行うというルールはない。始まる時にそこは決めるが、実は乱入者を禁じるルールはない。合っているね」
「いや、そうですが、何の話です?」
マリアは何かを察し、睨んでいた顔が解ける。委員長はマリアに向けて、ウインクをする。
「あんたまさか!」
副委員長が何かを察して声を上げると、マリアは勢いよく立ち上がって駆け寄り、副委員長の旗を掴んだ。魔術を行使するための杖を彼女は今持っていない。旗を奪おうと引っ張るが、別にマリアは力が強いわけではない。片手でも副委員長は十分に抵抗できている。
「離してください!」
「そういうわけにはいかない、危険すぎる!」
やがて周囲にいた観衆も異変に気付き始める。委員長は振り返りもせず、これを制止しない。副委員長が目線を離した分、決闘を見守っている。
「戦いが魔術を発展させた側面もあります。それでも彼らは学生で、カニストさんは既に致命状態です。あなたたちが止めないなら私が止めます!」
「決闘に参戦したこともない人間に乱入させるわけにはいかない、危険だ!」
揉み合いになるが、マリアは両手で力強く、旗の棒を掴んでいる。
「決闘がここまで過激になったのは、私が委員長になり、彼がムーリアリアになってからだ」
委員長はジョージを見ながら呟いた。天に立つムーリアリアを。
「良くも悪くも、決闘という世界は勝利で全てが決まる。決闘を終わらせたいのなら、決闘で勝てばいいんだ」
マリアは棒を強く掴んだまま、委員長を見る。
「君が天に立ち、そして全てを決めろ」
委員長は決闘から目を離し、マリアを見ている。その顔は負の感情を一切感じさせない、何かを期待している顔だ。面白ければいいのだろうか。
委員長が不敵な笑みを浮かべ、半歩下がると背後から手のひら程度の大きさの氷塊が飛来した。そして氷塊は真っ直ぐに副委員長の旗を握る手に命中した。副委員長は動揺して手を離す。そして旗はマリアの両手に身を任せた。
「マリア!」
氷を飛ばしたのはユーリだった。委員に制止されながらも伸ばした手には杖が握られている。
「走れ!」
マリアは何が起きたかわかっていなかったが、ユーリの檄により、咄嗟に走り出した。旗を両手に抱えて、走り慣れていない走り方だ。それでも友のために懸命に走る。
「青春だねえ」
「全部計算ずくですか?」
副委員長が負傷した手をさすりながら委員長の隣に立った。
「どうだかねぇ。でも勘はいいんだよ」
「ここまで来たらお供しますよ。楽しませてもらいます」
委員長は微笑み、マリアの背中を見つめている。
ロイは、天を仰ぎ見ていた。強い光を放ち、神話にあってもおかしくないような氷塊を操る存在。
「所詮人の身ということか」
ロイは自嘲気味に笑う。骨や筋肉は痛み、内臓からは鈍痛がする。まず間違いなく、魔術は使えない。あの氷塊をぶつけられれば、命に関わってもおかしくはない。それでも彼は降参して許しを乞う気にはならなかった。目の前の壮大な景色に心を奪われてしまったのもあるが、ここで負けを認めれば、事前に定めた代償を支払うことになる。必死に起死回生の一手を探る。この戦いで間違いなく進化した自分を信じて。それでも彼が得た力の対価は重く、体を締め付けるように苦しませていた。
しかしそんな彼の目の前に、ムーリアリアを遮るように人が駆けつけた。
「決闘を終わらせてください!」
両手を広げ、右手には旗が握られている。たなびく旗章はフィオラを象っている。金髪がジョージのフィオラの光を透き通してなびく。
「ロールベルさん」
「カニストさん、すみません。でも、これ以上は命に関わるし、止めないわけにはいきません」
ロイはまだできると言いたかったが、主観客観いずれからも、それが不可能であることは明らかだった。ロイが降参しない理由は意地と、大学にいたいという意識だった。
ロイが受諾した敗北の賠償は、国内大学からの永久追放。そして決闘権の剥奪。大学を中退しても魔術師は、魔術が使えないわけではないが、就職などその後の活動に影響が出る。家柄が高い身分でもないロイにとって、これは大きな痛手だ。
「だめだ」
キッパリと言い切ったのは、ジョージだった。
「乱入するだけでは飽き足らず、あげく止めろと?決闘に身を置くわけでもないくせに何様だ」
「この勝利であなたに何か得があるんですか?」
ジョージはロイが降参すれば、この戦いを終わらせることもやぶさかではなかった。それだけでなく健闘を讃えて、決闘の賠償も軽くしてもいいとも考えていた。
しかし、彼の目には決闘に水を差す偽善者の素人しか映らなくなっている。
「得はないが少なくともお前が口を挟むことじゃないことは確かだ。この戦いを止めるのが俺でもそいつでも、審判でもない、お前であることがとにかく気に食わない」
「とにかく私は退く気はありません」
ジョージは大きくため息をついて、大きく息を吸った。怒りを抑える癖がでている。
「審判!これを止めなくていいのか」
ジョージは委員長の方を見て叫んだ。
「申し訳ないが乱入者を止めるルールが無いので、そちらで何とかしてください。決闘の参加者と見なしていいです」
委員長は笑顔で大きく返事した。もう既に楽しくなっているようだ。副委員長は納得いかないような顔だが、黙っている。
「いいんですか?いざとなったら動きますが」
「いざとなったら私だって動くよ。それでも心配いらない気がするんだ。あの旗の意味は知ってる?」
委員長はマリアを指差してたずねる。
「ムーリアリア委員会の旗ですね。あなたのわがままで、倉庫にあったのを引っ張り出しましたが」
「それはそうだけど。あれはね、ムーリアリアを讃える旗なんだよ」
ジョージはしばし悩んでいる。決闘の参加者として見なしていいと言われたが、女性相手に大質量攻撃をするのを忍びない。しかし決闘に水を差されたのも我慢ならない。
ジョージは大きくため息をつく。怒りを抑えるためでなく、単に面倒だからだ。そして考えるのを辞めた。
「あんな発破をかけるくらいだから、何かしら防ぐ算段があるんだろう」
そう考えてジョージは大きく息を吸う。
「どうしても退かないか!」
「退かしてみろ、ムーリアリア!」
マリアの怒号にジョージを辛うじて縛っていた、細い善意の糸が切れる。ジョージは杖を振り下ろし、巨大な氷塊はマリアたちに向かって発進する。
「ロールベルさん!危ないから逃げて、僕は何とかするから」
「私は、マリア・ロールベルです!この誇りある姓に、魔術を発展させてきた先人に誓って、逃げるわけにはいかない!」
彼女は自分に言い聞かせるように叫ぶ。暴力が絡む喧嘩なんてしたことがないどころか、面と向かって口喧嘩した記憶もない。手足が震え、涙が溢れそうになる。
生まれてこのかた、目に見えた命の危機に瀕したことはない。今すぐにでも自分の命可愛さに逃げ出したい。
それでも背後には満身創痍の友がいる。図体の割りに控えめな性格で、かと思えば血気盛んな若者で、いいやつだ。
彼女の体から震えが消える。目の前には山のように降りかかる災い。それでも彼女には不思議と自信がみなぎっていた。何とかするという覚悟ではない、何とかできるという確信だ。彼女は両手で旗を持ち、氷塊に向ける。そして考える。とにかく、とにかく大きな反応を。あの氷塊を打ち砕く力を。彼女の胸元で、フィオラが笑うようにかすかに揺れる。
空を焼くような大炎が、大学周辺の空に轟いた。一帯の一般市民が頭上で観測できるほどの業火だ。観客席には巨大な波のように氷の山が迫っていた。大炎の対価だろう。広場の中にジョージの砕けた氷塊が何個か降り落ちる。氷の山も大炎も、マリアの所業であった。観客は一瞬の出来事に、悲鳴をあげる暇もなく、さらには驚きのあまり今も声を出せずにいる。
ジョージはバランスを崩しながら、何とか着地する。そして眩しさに思わず手をかざす。
「何だ、その光は」
マリアの胸元のフィオラは、ロイやジョージと比較にならないほどの輝きを放っている。
ロイは目の前の光景に目を奪われている。魔法の対価として氷の結晶が雪のように降り注ぎ、光を反射させる。光に包まれる小さな背中、旗が祝うようにたなびいている。それはまさに神話の世界のようだ。
「ジョージ・ライブラ、あなたに決闘を申し込みます」