首相、転生する。
とある国会、そこは正に凄惨たる状況になっていた。所謂『乱闘国会』という物になっており、事態の収拾がつかなくなっている。男は椅子に深く腰を降ろし、その様を傍観していた。
乱闘の原因は自分に関する話題に依るものなのに、男は不思議な程冷静で居られた。1人の議員が殴り合いから抜け出し半ば強引にマイクを手に取り、男を睨みながら言い放った。
「首相!もうこの内閣は終わりだ!さっさと自分のしたことを恥じてッ、とっとと首相を辞めろ!」
その議員以外にも、様々な罵詈雑言が男のいる大臣席に向かって投げかけられる。国民の恥だとか、人として生まれる場所を間違えたとか。
しかし男は気にしなかった。見飽きた風に席を立ち、自分だけそそくさと国会から退出した。その行いに更に国会の様相は荒れ狂い、後に『令和の国会戦争』と呼ばれる騒ぎとなった。
その原因である男―――唯野ヲ吉は汚職に汚職を重ねた史上最悪の首相だった。
―――二年前、日本の経済が低迷の一途を辿る中唯野は選挙に勝ち、首相に選ばれた。経済を回復するために様々な政策を押し通して一世一代の改革を日本の端から端まで進めた。それにより日本の株価はゆったりと上昇し、税率が初めて引き下げられるまでに日本の景気は上昇した。これはそこから三年にに及ぶ『令和バブル』の始まりであった。
―――しかし、そのバブルは衝撃的な終わりを迎えることになる。
…その原因は汚職だった。首相や内閣の主要な大臣が各大企業に大量に賄賂を送っている事が大手週刊誌で報じられた。バブルを担っていた大企業の株価はみるみる下落の一途を辿り、呆気なくバブルは終わりを迎えた。
それまでは政治的圧力に抑えられていた警察も捜査せざるを得なくなったが、どれだけ探しても決定的な証拠は見つからず結局は証拠不十分として処理され、唯野が逮捕される事は無かった。
それでも国民は首相の即時解任を求めた。しかし、唯野が念入りに築いた勢力内の議員同士のパイプの繋がりは異常なまでに強く、解任推進勢力との乱闘になるまでに勢力同士の争いは続いた。
…と、このように日本中を巻き込んだ前代未聞の大事件を起こしたのが、唯野その人であった。
―――そそくさとその乱闘国会から抜け出した唯野は、公用車に迎えに来てもらおうと運転手に電話を掛けた。周りは大量のSPが囲んでおり、奥に集まっている記者達に詰め寄られてもその手が届く事は無い。よくもこんな取材を続けていられるな、と唯野は感心になりながら廊下を歩いた。
そして記者の群れに唯野はSPを盾にしながら突っ込み、あくまで無表情に、淡々とその足を進めた。
「汚職について何か説明は無いのでしょうか!」
「このまま首相を続けるおつもりなのですか!?」
「首相!答えて下さい!」
「このまま黙り通すつもりですか!」
どの記者からも同じような質問しか出て来ない。まあ結局は記者なんてこんなモノなんだと唯野は内心嘲った。
「まだ続投する予定は有るのでしょうか!」
「国会はどのような状況でしょうか!」
「これからどうするのですか!」
「―――死んだ方が人の為じゃないですか?」
唯野は雑多の中から聞こえたその一言に反応したが、時は既に遅かった。SPの間を縫うように首相の目の前に躍り出た小柄な女は、下から『物差し』で唯野の腹を一直線に切り裂いた。そのまま唯野の背後に周り、首相の首を切り裂く直前までに『物差し』の刃を当てた。尋常じゃない痛みが唯野を襲ったが、あくまで冷静を装い女に話しかけた。
「…やけに手際が良いじゃないか」
「無駄口を叩く前に自分の置かれた状況を理解したら良いのでは?」
『物差し』の刃が少し首に押し当てられ、僅かながら血を垂れ流す。SPは唯野が人質に取られている状況で迂闊に動けず、記者陣も突然の出来事に静まり返っていた。
「私は…あんたに全てを壊された。友達も、家族も、一番大切な人まで皆死んだ。」
「…そうか」
「あんたには、その記者共のカメラを通し、国民の目の前で死んでもらう。」
ゆっくりと、時間が過ぎているように感じる。
女が私を跪かせようとスーツの背中を掴もうとした時、一瞬だけ『物差し』が首から離れた。私はその好機を見逃さなかった。
一瞬の間に力を入れ、動脈を切り裂かれないようにぐるりと180°方向を転換する。動揺している女にそのまま頭を突き上げ、怯んだ瞬間にその場を離れた。
一連の行動に腹が痛み、視界が一瞬霞んだ。
―――その時、昔見た景色を思い出した。
思えばあの頃が一番幸せだった。
何も気にせず、ただ家族に身を任せる事が出来た短い時間。
その記憶は薄れていたが、今になって漸く思い出すことが出来た。
『ヲ吉。我らの流派【二釘流】が掲げる目標は【一閃】、只それだけだ』
幼少期、祖父は木で出来た標的を目の前にそう言った。
『どれだけ攻撃を受けようとも、どれだけ不利な状況でも、死に掛けになろうとも、その【一閃】さえ当てれば形勢を変えることが出来る』
祖父は鞘に納めたまま刀を構える。そして少し刀を持つ手を動かしたかと思えば、木の標的の上半分は斜めに“滑り落ちた”。
『そしてその【一閃】を日常的に可能とすることで、この流派は完成する』
幼かった私は、祖父に「じゃあ、この流派はまだ完成していないのですか」と聞いた。
すると祖父は此方にやって来て、私の頭をわしゃわしゃ掻き撫でながら言ったのだ。
『完成はしないだろうな…残念ながらこの道場は明日で閉める。さっきのが最後の一振りだ』
その言葉を最後に、祖父は道場から出て行った。そしてその三日後、自宅で突然息を引き取り、そのまま剣は伝承されなかった
…ここで想起は終わった。あの刀捌きを思い出し、私は呆然と様子を見ていたSPから警棒を強引に奪い取り、手に握る。不思議と切られた痛みは感じなくなった。
「首相なめんじゃねぇぞ…」
女は態勢を立て直し、今にも襲いかかろうとしていた。私は同時に踏み出し、女の振りかざした『物差し』を警棒で防ぎ、右足で女の腹を蹴り飛ばした。奥に飛ばされた女は嗚咽を上げ、そのまま数回咳き込んだ。
それでも起き上がろうとした女は、漸く状況を理解したSP達によって捕縛され、そのまま床に叩きつけられた。
「首相!大丈夫ですか!?」
秘書が駆け寄ってきて、私の肩を持とうとしたが、その前に膝から私の体が崩れ落ちてしまう。
下を見てみれば、赤いカーペットが更に緋色に染まっていたのが良く分かった。
アドレナリンで未だに痛みは感じないが、相当な出血量であることは分かった。私がじきに死ぬことも目に見えていた。遂には仰向けで倒れ、体が酷く重くなった。
「首相っ…!死なな゛いでくださぃ!」
何で秘書は泣いているのだろう?そこまで慕われるような事を私はしたことは無いし、ましてや恋人でも無いのに何故泣いて居るのだろう。
…ああ、きっとこれから来る激務に恐れを為して泣いてしまっているのだろうな。折角だから指示を出しておこう。
「桜君…機密書類とその他諸々の書類の処分…それと後の事務所の担当は任せる…それと私が死んだ後の遺産は…君達に分割してやる。誰かの次の選挙資金に使っても良いし、私腹を肥やすのに使っても構わない。」
秘書の涙が幾つも頬を伝い落ちて行く。偶に目に入ったりして邪魔だな、と死ぬ前に少し面白い思いをした。最後に形だけでも感謝の形を伝えて置こう。
「最後に…能力も何も無い私をここまで昇らせてくれてありがとうと事務所の奴らに伝えといてくれ…それと桜君の父親には天国で君の愚痴を散々言ってやるよ…」
「そんなぁっ…」
そこは笑う所だろ。とツッコミもしてみたかったが、案外長く続いた遺言タイムは終わりを迎えたようだ。
意識は段々と現実から手放されて行き、視界は闇に落ちる。
唯野ヲ吉は、その生を終えた。