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28話 落ち着く匂い

帰りの馬車の中で、ルラは行きの時よりもずっと気まずい思いで、固くなって座っていた。時折ガタゴトと揺れる馬車の中では常にお腹に力を入れておかないと、おしりがどこかに跳ねてしまいそうだし、でも壁に寄りかかろうものなら斜め向かいに座っているブラウン婦人に何を言われるか分からない。とにかく背筋を伸ばしてピン座っていようと、そして物音立てないように必死だった。ただ、そのブラウン夫人は馬車に乗り込んだ時からずっと、こめかみを押さえた格好で窓に寄りかかったまま動かない訳なのだけど。


ルラは、折を見てはほんの視界の端っこに入るくらいの角度で、夫人の様子を盗み見た。目は、多分閉じている。だけど、眠っているわけではないようだ。

ルラは、夫人が自分に対してものすごく怒っているのだと分かっていた。そう思うだけの出来事があったからだ。


それはついさっきまでいた、集会場でのことだった。

ルラの紹介が無事に済んだ後に、夫人達は重要そうに、今日の議題についての話し合いを始めた。当然ルラには関係のない内容で、放置されていたのだけど、ルラはつい何かの拍子に、夫人のことを『奥様』と呼んでしまったのだった。しかもタイミングの悪いことに、ふいに会場が静かになった瞬間のことだった。いっせいに皆の目がルラと夫人に集まり、夫人の顔は一気に青ざめて、徐々に赤く染まっていった。

突然のことに何が起きたのか分からなかったルラに、夫人は笑っているつもりかもしれない顔で、


「······あなた、『お母さん』って、呼びなさいって、いつも言ってるでしょう。ほんとにもう」


と、静かに言った。そしてルラは、たちまちに呼び方が不正解だったことに気が付いた。


「ご、ごめんなさい。お母さん······」


「ええ、それでいいわ。」


恐くて顔を見れなかった。夫人の手がルラに向かって伸びてきてぎゅっと目を瞑ったら、意外にも頭上をぽんぽん、撫でられただけだった。


(あ、あれ)


目を開いたら皆の目線はもう離れていて、夫人もすぐに背をむけたから、大丈夫だったのだと、その時は一応ホッとしたのだけど、


·······会場から離れて馬車に2人きりになった途端、ピリピリとした空気がルラを突き刺してきて、今に至っているのだ。


結局2人は、馬車の中では一言も言葉を発さなかった。永遠に感じられた長い帰り道に終わりが見えた頃、ルラは泣きそうに嬉しかった。




「二度とあんな間違いはしないで頂戴ね。」


馬車を降りた時、夫人は冷たい声で言った。


「はい、ごめんなさい、お母さん····」


もう呼び方を間違えません、という意味で改めて「お母さん」と声に出したつもりだったけど、夫人はつい、と不満そうに横を向いた。


「はぁ、本当に頭の悪い子ね。必要の無い時にまで言わなくていいの。」


「ごっ、ごめんなさい。」


その謝罪がちゃんと夫人の耳に届いたかはよく分からないけど、夫人はなにも言わずに母屋の方へ戻って行った。おそらく返事などどうでもよかったのだ。ルラはしばらくの間、突っ立ってその姿を見送り、やがてのろりと足を持ち上げた。



(疲れちゃった······。私も帰ろう)


そういえば朝からビスケットを少し食べただけで、もうお昼をずいぶんと過ぎている。ルラはお腹と背中がくっついてしまいそうなほど空腹なことに気が付いた。


(早く、帰りたい······)


なんとも言えない重たい気持ちが喉の奥の、奥の、ずっと下の方からせり上がってくる感じがした。その気持ちが溢れてきそうで、胸が苦しくなって、とぼとぼ歩いていた足取りは次第に早足になり、やがて駆け足になっていった。

だけどふいに、地面を蹴り上げたルラの左足の爪の先っぽが、何か固い物にぶつかった。あっ、と思った時にはもう、前につんのめる形で身体が傾いていく。


ーあっ、


素早く反応したのはトゥックだった。でも、トゥックは咄嗟に風を起こしそうになって慌てて止めた。気づかれる。あぁ、だけどそれではルラが転んでしまう······


(あーもうっっ)


頭を掻きむしって、ヤケクソな気持ちでルラの身体のバランスを少しだけ、整えた。気づかれないギリギリの、かろうじて転けないであろうところまでだ。具体的には、足を前に押し出し、前かがみになった背中を立てる感じで。


「わっ、わっ、わっ、っっとととっ」


結果、上手く行った。どうにか踏ん張りきったルラが胸を押さえているのを見て、トゥックはもう一度頭を搔いた。


(はぁ、もういい加減、戻ろう)


結局ずっと、朝から片時も離れずにルラを見張っていたのだ。自分でもこれは何か違うだろうと思う。


我に返ったトゥックはルラに背を向けた。何度か振り返る度に遠くなるルラは、呼吸を整えて、慎重そうにゆっくり、ちょこちょこと走り出していた。


(何をそんなに急いでいるんだか)


なんて、聞こえないように呟いてみたけど、トゥックの顔はむずむずとニヤけた。早く帰って慰めてもらいたいに決まっている。それも当然、このトゥックにだ。


先に戻ったトゥックが小屋に入ると、床の上に水の張られたお稽古が、ポツンと置かれたままになっていた。


(あ、片付けてないままだったか)


ルラがぷりぷりしながら出ていった後、トゥックも急に異変を感じて急いで追いかけたのだった。そういえば、あいつ···、とティックの事を思い出したけど、もう気配は残っていなかった。


トゥックは桶をクルクル回しながら中の水を気体にして散らし、部屋の隅に仕舞い、緩めの風を部屋全体にかけてホコリを舞い上げると隙間を開けた窓から追い出した。掃除くらいしておこうと思ったからだ。アリバイにもなる。

···アリバイって、誰に証明したいんだよ。トゥックはまた、頭をガシガシ掻いた。


それから、さてどうやって待ってようかなと、考えた。試しに座ったり立ったり、入り口に背を向けたり、空中であぐらをかいてみたり。

そうこうしているうちに勢いよくドアが開いた。ルラが帰って来たのだ。


「おかえり、ルラ。」


飛び込んでくるルラに、トゥックは大きく腕を広げた。いろいろ考えていたのに、自然とこうなっちゃうのだ。


「トゥックだっ!!ただいまっ!」


ルラは糸を引くように真っ直ぐトゥックに突進し、胴体にがしりとしがみついた。トゥックの顔を見た途端、ブワッと何かが溢れるようだったのだ。しかもトゥックは、ルラがしがみつくのに丁度良い大きさだった。腕の中は安心で、安全で、快適で、心地よくて。

鼻を押し付けて息を吸い込むと、そうした時にしか分からないトゥックの風の匂いがした。爽やかで少し甘くて落ち着いた匂い。ルラはもっともっと嗅ぎたくてフガフガ鼻呼吸を繰り返した。


「あれ、機嫌はもう治ったの?」


トゥックがわざとらしく、少し意地悪な調子で言った。


「······ん」


ルラは小さく曖昧な返事して、更に力を込めて顔をうずめた。急に後ろめたさを思い出したけど、もう全部もうなかったことにしたかった。今はとにかく、こうしていたい。何も考えたくなかった。




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