26話 ビスケットのお裾分け
ブラウン夫人が教会の中に入っていくのを見つめるルラの口の中は、涎でいっぱいになっていた。だって朝から何も食べてない。もうさっきから、右手の指先は、スカートのポケットの上で紙の包みの形をくるくるとなぞっているのだ。
もらった時に鼻を通り抜けた匂いが思い出されて喉の奥が変な音を立てた。
夫人が見えなくなるとルラは辺りを見回し、建物の裏側に走った。そこは敷地を取り囲む、ルラの背よりも高い塀がすぐそばまで迫っていて、隠れてお菓子を食べるのは好都合な場所だった。ルラは孤児院がどんなところか、経験がある。今は周りに子供の陰はないけれど、それでもやっぱり目立つところで1人だけお菓子なんか食べてたらいけないのだ。
建物と塀との隙間に入り込んだルラは、そのまま固い地べたに座り込んで用心深くポケットから包みを取り出した。ごくり、と喉が鳴った。1度深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、ゆっくりと包みを鼻のすぐ近くに持っていった。そして、フスーっ、と思いっきり息を吸い込むと、たちまちバターの香ばしい匂いが喉の奥で広がり、少し後からチーズのうっとりするような匂いが、鼻の上の方を抜けていった。
「はっ、チーズ味なんだ!やった。」
包みを丁寧に開ける事が出来ずに、夢中で破って開けた。中身はポケットに入れていたからやっぱり割れてしまっていて、小さなかけらになっているのもあった。でもそんなことはどうでもよかった。
まずは、その一番小さなかけらを1口·····。と、思ったら、ふいに、どこからか視線を感じる。
「え?」
キョロキョロ見回すと、さっきルラが来た方から、真っ黒の2つの目玉がじっとこちらを窺っていた。それは小さな男の子だった。
「だ、誰?」
男の子の白いシャツと茶色のズボンは、孤児院で準備された物にしては綺麗な感じがした。新品ではなさそうだけど黄ばんでいないし、染みもなさそうだ。ルラは無意識に、反対側の手でビスケットの包みを握りしめた。だけどスカートの上で広げていたから、開いたままの紙の端からぼろぼろと欠片が散らばり、あっ、と思ってスカートに視線を落としてもう1度顔を上げたら、もうさっきの2つの目玉は、こぼれ落ちたビスケットの方に釘付けになっていた。
ルラの身体は緊張して強張った。これは、まだ匂いだけしか嗅げてない、大事なビスケットだ。でも、····その物欲しそうな目付きを、ルラはよく知っていた。
「·····い、一緒に··、食べる?」
恐る恐る声をかけると、男の子の顔が、パッと厳しい表情になった。
「っおれは、べちゅにっっ····」
「別に?」
「べ、べちゅにっ、はらをちゅかちぇて(腹を空かせて)いるわけじゃないっ!」
「え?あっ、そうなの? 良かった。」
ルラは安心してにっこり微笑んだ。服装からして、きっと孤児院の子供ではないのだ。手に持っていた欠片を、ぽいと口に放り込んだ。想像してた以上の、チーズの濃厚な味が、鼻からフワッと抜けた。それをまた、大きく吸い込むと、今度は鼻の奥の奥でチーズがフワリ。舌の上では、バターがフワリ。次は大きな欠片を掴んだ。サクサク、フワリ。サクサク、フワリ、フワリ。
鼻を大きく膨らませながら夢中で頬張っていると、まだそこにいたらしい男の子が、大きな声を出した。
「おいっ。おまえっっ」
「え!?」
ルラはびっくりして、男の子を見た。
「おまえっ、おれをむち(無視)ちてるのか?」
「むち?···あ、無視?どうして?」
ポカンとして目をパチパチさせると、男の子はますますムッとしたようだった。
「おれを、みないじゃないか。」
「·····」
つまり····?ルラは考えた。
「···やっぱり一緒に、食べたかったの?」
「なっ、ばっ、ばかにちゅるなっっ!」
男の子は怒っていた。だけど、いくら怒ったって、そのおぼつかない口調や、真っ赤になった顔が幼さをより目立たせていて、ルラはつい頬を緩めた。なんとなく、トゥックを思い出したのだ。
「そんなに怒らないで。こっちにおいでよ。」
「怒ってなんかっっ·······」
と言ったところで、男の子は一瞬固まった。
「ん?怒ってる···のか?いま、おれは····」
「うん。でもきっとね、これ食べたら、笑顔になるよ。」
実際に、食べたルラ自身が笑顔になっていた。だから、分けてあげてもいい気持ちにもなったのだ。
「···む。」
男の子は眉間にシワをよせながら、トコトコとルラのそばまでやってきた。
「·····いいにおいがちゅる。」
「うん、そうでしょ。1つどうぞ。」
小さい欠片にするか、大きな欠片にするか、ルラは一瞬指を迷わせ、結局大きい方を摘まんで男の子に差し出した。
「うむ。」
男の子は、小さい手でビスケットを受け取った。目の高さまで持っていって、縦にしたり横にしたり、裏返したりして、そっと齧った。
「······うまいな。」
「うん、美味しいの。」
トゥックのふわふわの髪の毛も好きだけど、この男の子の真っ黒でさらさらな髪の毛も気持ち良さそうだなと、ルラ密かに思った。目だってキラキラしている。しばらく見つめていたけど、うっすらとあの人がルラを探している声が聞こえてきて、ルラは急いで立ち上がった。
「私、もう行かなきゃなの。あ、これはあげるから、あなたはゆっくり食べててね。」
「む?」
破れた包みごとビスケットを男の子の膝の上におくと、ルラはそのまま振り返らずに、もといた場所に向かった。男の子は口をモグモグさせながら、満足そうにルラを見えなくなるまで目で追いかけていた。
(やっぱりこっちの世界にいた方が、感情がよく育つ気がするな···。)──なんて思いながら。




