1.海辺の町・サラシノ
海辺の町・サラシノは漁を生業にして成り立つ小さな町だった。
周囲に日や風を遮るような山々はなく、平坦に開けた土地には一年を通して豊かな陽光が惜しみなく降り注ぎ、潮風が町と人の隙間を涼やかに吹き抜けていく。美しい町だった。
ケントリコス大陸の東に巨大な領土をもつ大国・マリクタの、さらに東の海岸線沿いに位置するサラシノは、周囲に大きな商業都市を持たない辺鄙な土地にある。そのため、時代が進むにつれて大陸間を結ぶ交通網が敷かれたあとも、周囲の街や都市と商売貿易の交流をほとんど持たなかった。
サラシノで暮らす住民のほとんどが、日常をつつがなく過ごし万全に冬を越すだけに必要なぶんの食料を稼ぐばかりで、あとは誰もがおだやかに生活している。マリクタの統治を受けて、サラシノという名前が地図に載るよりもずっと前から、サラシノはそうやって続いてきた。目を見張るほどの豊かさも発展もなかったが、その代わりにこれまでに何度か訪れた戦火からも免れてきた。
「——かつてこのサラシノの地には、主が巡礼に訪れたとされています」
町の中央に建てられた小さな教会には、まだ漁にも行けない子供たちが集まっている。大人たちが海に出ている間、子供たちは教会でシスターに見守られて過ごす。いわば子供たちにとって、教会は学校のようなものだった。
シスターは海に似た深い青をたたえた丸い瞳をはつらつと輝かせて、今日も熱心に子供たちに説法を施している。
シスターは、子供たちよりもほんのひと回り年上にしか見えないくらいの、まだ成人にも届かない可憐な少女だった。彼女の透き通るような柔肌に溶け込んでしまいそうなほどにつややかな純白の長髪が、それ以外ではまるで幼く見える彼女の印象を聖職者然とさせている。
「主の巡礼の旅については、皆さんもこれまでお父さんやお母さんから何度も聞かされているように、よくご存じでしょう。1000年もの遙か昔……、神の祝福を受けた主が神の教えと恵みを分け与えるために、世界各地を回る旅に出ました。その旅の途中、主が一晩脚を休めた場所のひとつがここ、サラシノだったと言われています」
子供たちにとって、シスターの話は耳にタコができるほどに聞かされた話だった。何人かの子供たちは椅子に座り込んだまま眠りこけ、残りの子供たちはぼんやりと上の空でシスターの話を聞きながしている。
「かつてまともな水源がなく、枯れた土地だったサラシノに主は恵みを授けました。それが町に湧く、あの美しい泉です。そして私たちの祖先は主の教えに帰依し、主の教えを長くサラシノの町に根付かせることを主に約束し、この教会を建てました。——そして主はサラシノの民に、ひとつの忠告を与えました」
「“泉が枯れたときは、悪いことが起こるから気をつけろ!” でしょ! もう、それ何回もきいたよシスター」
それまで大人しくしていた子供たちのうちの一人が立ち上がって、シスターの話を遮った。
「え、ええ。そうです。よく覚えていましたね。ですから皆さんも……」
「泉を枯らさないように、いい子になれ!」
子供たちは一斉に口を揃えて、そう言った。
「はい……」
子供たちの圧に押され、しぶしぶにシスターが負けを認めると子供たちはこれでおしまいとばかりに、鬼の首を取ったように喜んで席を立った。子供たちは首輪の外れた犬のように走り出し、一目散に教会の外へと飛び出していってしまう。
「皆さん。まだお話は——!」
呼び止めるシスターの声は子供たちには届かなかった。叫び声を上げながら逃げていく子供たちをなすすべなく見送って、シスターはがっくりとうなだれた。
*
「私の話、そんなにつまらないのでしょうか……」
シスターは、無邪気に駆け回る子供たちを眺めながらそう呟いた。
町の中央に湧く泉を中心にできている大きな広場は、サラシノの子供たちにとっての絶好の遊び場だった。町の中央でこんこんと湧き続ける泉は小さな子供たちが泳ぐのにちょうどいい深さをしていて、日光を遮るものがない広場は濡れた子供たちを優しく乾かしてくれる。
生まれたときから水に触れて過ごすサラシノの子供たちは、サラシノの子供たちはそうやって水に身体を馴染ませ、そしてときにその怖さを知るのだった。シスターもまた、そうやって水を知ってきた。
シスターの傍らではシスターと同じ修道着に身を包んだ老婆が、愉快げにけらけらと笑い声を上げていた。
「お前さんがなんども同じ話ばかりをするからさね。おんなじ話をお〜んなじように聞かされれば、誰だって飽きるもんさ。私だって、おんなじ話を何万遍もしてればいやになったもんさ」
「グランマぁ……」
「お前さんだって、小さい頃はああやって広場でキャッキャしておる方が好きじゃったろうに」
「でも、グランマのお話は大好きでしたよ! 私だって、グランマみたいにお話が上手くなりたいのに……」
「あたしはお前さんの4倍も5倍も生きとる。そりゃあお前さんも、あたしの4倍も5倍も頑張らにゃいけん。お前さんはまだまだ若い。そう焦りなさんな」
遠い目で子供たちを見つめるグランマの切れ長の瞳は、明るいブラウンの色を隠している。グランマとシスターには血のつながりはない。しかし海難事故でたった一人の肉親を喪ったシスターを引き取り育て上げたのは、サラシノで町の教会を女手ひとつで切り盛りしていたグランマだった。
「……あのね、あたしは。お前さんを後継ぎにするためにお前さんを育てたわけじゃないんだよ」
「もう、グランマ。その話はやめましょうって何回も言ったじゃない。私は教会が好きで修道女になったんです。これは、私が決めたことですから」
「昔は……町を出たいと言ったおったのにの。あれは、嘘だったのかね。主のように旅に出ると」
「あれは……、グランマのお話が上手だったからですよ。主の巡礼の旅のお話——昔からずっと好きだったんです。だからシスターになりたいと思ったんですよ。だから、私はこれでいいんです」
シスターは胸の前でぐっと握りこぶしを作って意気込んだ。シスターは町の子供たちを見守り育てる要だと、シスター自身がなによりも知っている。子供たちの身体を大きく育てるのは彼らの両親の役目だが、彼らの心をのびのびと大きく育てるのは、彼らに付きそう修道女の使命だとシスターは信じていた。
「……外の世界を、見てきなさい。エレイナ」
グランマのつぶやきに、シスターははっと彼女の顔を見る。グランマがシスターのほんとうの名前を呼ぶとき、グランマはわずかに親の顔を見せる。その瞳の奥にはかすかな寂しさが漂っていた。
「お前さんがここに居着くのはいい。それは、お前さんが選ぶことだ。でも、それは今選ばにゃならんことじゃあない。お前さんが若くからここに縛られる必要なんて、ないんだ。主のように巡礼を——」
「私は縛られてなんてないです!」
「あたしもそう長くない。けどね、まだまだ半人前のお前さんがいなきゃやっていけないほど、あたしも耄碌した覚えはないさ」
そう言ってグランマは重い腰をゆっくりと上げた。その緩慢な動作は、シスターが彼女の子になった頃のものよりもずっと危うくて、老いを感じさせる。
「さぁて子供たちや」
グランマは声を張り上げる。グランマの声は昔から若々しいほどの張りがあって、遠くの水平線に届きそうなくらい、よく通った。
グランマの一声に、大声で騒ぎ立てていた子供たちは一斉にはたと動きを止めて、グランマの方を見た。
「グランマのお話を聞いてくれるかね。——今日は、転生者の伝説の話をしよう」






