プロローグ
「魔王も勇者もいなかったね」
と、寂しげにそいつは言った。切りそろえられた端正な短髪に、窓から差し込む夕日が乱反射して、オレンジの光がまるで散り散りにきらめいている。
そいつの前には油彩の塗りたくられたキャンバスがあった。そいつはもう長い間、まるで手強い敵に立ち向かうかのようにそのキャンバスに絵筆を振るっていた。俺は、そいつと俺のために貸し切られた小さな教室の中で、そいつと同じ時間だけ、その絵を見つめていた。
酷い絵だ。と思っていた。いや、そう思い始めたのはついこの頃のことだった。そいつがキャンバスに向かう時間が増えるたびに、余計な一筆を塗り重ねるたびに、それはみすぼらしく汚れていくように見える。作者の迷いと焦りがそのままキャンバスに塗り重ねられているのだと、素人の俺にもわかった。そして俺がそう感じていることも、きっとそいつは理解していたはずだった。
「魔王はいるだろ。そこに」
俺はキャンバスを指さしてそう言った。そのキャンバスにはそいつの苦しみがそのままに表れている。絵を描く人間の重圧が、創作の痛みが、そいつを何よりも苦しめている。
「やめちまえよ、絵なんて」
俺は何度もそいつをそう諭してきた。キャンバスに向かうそいつはいつだって、不幸に見える。真っ白なキャンバスの先に、そいつだけにしか見えない深淵を覗き込んでいる。そしてわざわざ、そいつはその深淵から不幸を取り出してきては、その痛みを嘆いている。
「でも魔王はここにしかいないんだよ」
「おまえが描かなきゃそこにはいなかったんだよ」
「でも、ここに魔王がいるんだとすれば、そこに立ち向かうぼくはつまり勇者みたいなものじゃないか」
「その割りには、おまえに勝ち目はないように見える」
「そうだねえ。じゃあ、ぼくは勇者には向いてないのかもしれない」
そいつは絵筆を置いて、なげやりな様子でこんなことを言う。
「勇者って卑怯じゃないか。死んだってやり直せるし。怪我したって傷も治るし、パーティを組んでくれる仲間だっているし!」
俺はそのとき、そいつにかけるべき言葉を言いよどんでしまったことを、長く後悔することになる。
俺にとってそいつは、勇者のような存在だったのだ。険しい道を勇敢に進む姿にずっと憧れ続けていた。俺はおまえの後ろ姿ばかりを追っている。おまえはいつだって、俺の先を行く勇者だったのに。
「まぁ、この世界に命をかけて戦うようなものなんて、そうないしな」
と、俺はろくな考えもなく、そんなことを言った。
「うん。……知ってるよ。——命をかけてもさ、こんなもので世界は変えられないんだ」
そいつは小さな声でそう呟いた。そいつの顔は、逆光に遮られて覗えない。凶暴なオレンジを放つ夕陽が真っ黒に塗りつぶしてしまったそいつのシルエットを、俺は長く忘れることはないだろう。
佐伯悠宇はその日を最後に、この世界から忽然と姿を消した。
勇者を失った俺の世界には、そいつが生み出したキャンバスの上の魔王だけが残された。