第二十段:けふ咲く花の いやしけ吉事(よごと)(二)
二
「おーっ! ペンギンだっ、ペンギンが縦横無尽に泳いでるぞ!」
レゲエ三人娘は、別館の南極エリアへと足を踏み入れた。始めは。ペンギン! と満場一致で決まったのだ。
「華ちゃん、あんまり遠くへ行かへんねんよぉ」
「足元すべりやすいみたいだから、注意してね」
華火は大きく手を振って、意気揚々と駆けた。大学に通うのを機に髪を梳いてもらい、ポニーテールがおとなしめになった。とはいうものの、十代のいとけなさがまだ残っていた。
「ふう、私にはあんな風にはしゃげる元気なんてないよ」
ふみかはベンチに腰かけ、ロケットのように水槽を飛ぶペンギンらを眺める。
「演習と司書課程で忙しかったもんねぇ。せやけど、お出かけてなぁ、わくわく、るんるんしてまうんやで。普段と違う場所なんや、華ちゃんの気持ち、分かるわ」
ふみかと並んで、夕陽が姿勢正しく座る。着ていたココア色のカーディガンは、しわにならないようたたんで腕にかけていた。
「そういえば、どうだったの? お母さんへの手紙」
「……せやなぁ」
夕陽は、人工の陸地でたたずむ一羽に視線を止めた。
「返事が、うちの机に置いてあったんやよ。朔日の朝に書いたんやろね。うち達、その午後に家に帰れたやんか。父にえらい心配されたんや。そやんな、深刻に受け止めてまうやんか。妹を泣かしてしもた……。母だけは、あっさりしていたわ」
人々がラッコ館へ流れてゆく。えさやりの時間らしい。
「読んでへんねん……」
「怖いから?」
夕陽が困ったような笑みを向けた。
「封を解いたら、母のメッセージを知ることになる。解かへんかったら、知らないままでいられる。うちの書いたことに関心を寄せる母と、そうやない母と……可能性がいっぱいあるんや」
「私は、知るべきだと思うよ。全然、話せていないんでしょ」
「そうや」
「返事を書くって、相手に関心が無ければしないよ。お母さんの気持ちに目を背けるつもり?」
二階のドーム窓に、華火が背伸びしてこちらをのぞいていた。ふみかがリーフレットをやや高く上げて応えてあげる。
「もし、私が夕陽ちゃんと折り合いが悪くなって、会話すらしていない時期が続いて、ある日夕陽ちゃんからの手紙が置いてあったら、仲直りする機会だなって、あれこれ書くよ」
とぷん、とぷぷん、次々とペンギンは水に入ってゆく。わざわざ、順に泳ぐのはなぜだろうか。
「ごめん、簡単な関係じゃないよね……」
「謝らんといてぇな。うちが考えすぎているんかもしれへん」
夕陽がさっと立ち上がった。
「今晩、読んでみる。ふみちゃんに言うて、勇気わいてきたわぁ」
「そっか」
両腕をのばして、ひと息つきふみかもベンチを離れた。
「ふみか、ゆうひっ、熱帯コーナーへダッシュ! ピラルクだってよっ!」
二人はほのぼのした表情をしあって、後輩を追っかけた。
「明子ガ堂々ト本名呼ビにシタ真相、っスか?」
本館にあたるうみがめ館を、アイスキャンディトリオはじっくり歩いていた。目玉の巨大水槽にて、乗って海を探検するなら、サメかエイかはたまたウミガメか議論して、海浜のお魚コーナーでは、展示している魚をいかに調理するかを考えた。
エスカレーターで上がれば、明子の大本命・クラゲワールドだ。
「前ニ、翻刻ノ追試あッタじゃナイっスか。つっちーノ『名前をつけてくれた親の思いを粗末にしてはいけない』ガ、ズガーン! ト胸ニめりコンだんデスよ。デモ、逡巡シてマシた」
薄絹のドレスが、紺青のホールに漂う。水母舞踏会、孤独に、時には絡みあう。いつか、こんなミステリアスな服を縫いあげたいものだ。
「障りヲ祓ッテ、決心ツイたんデス。情熱の歌人デモ、みだれ髪デモ、ナンボのモンじャイ! ト」
「大仕事を成し遂げて、自信がついたのね」
まゆみもミズクラゲのたゆたう様を見ていた。唯音はカラージェリーフィッシュに夢中だった。グミに似た肉厚さと、ラムネのような色に惹かれたのかもしれない。
「感謝ノ意ヲ表シテ、つっちーノ講義、時間割にプラスしマシた」
「特論……今の呼び方は研究Cだったわね。『古今』をやっているんじゃないの?」
「ソウっス☆ どーシテ分カッ……ぴゃ」
愚問だった! 明子は長からむ黒髪を振る。
「センセは空大OGデシたナ。当時ノ担任ハ、つっちー」
自他ともに認める先生フリークなのだから、基礎知識はおさえていたはずだった。
「お変わりないのよ、土御門先生たら。でもね、手は抜かない。プリントは毎年、作りなおしているの。学生の傾向に合わせているんですって」
手を後ろにして、まゆみは次の水槽へ進む。カブトクラゲ、明子の「大スキ」な生き物のひとつだ。体が虹色に光るところが、まるで、夜のメリーゴーランドみたいで甘い気持ちにさせられる。
「バイザウェイ、センセ達ハ、ランチをかケテ勝負してマスよネ? 毎日カレーか月見うどんナノは、ナゼっスか? 学食のメニュー、ソコそこバリエありマスよ」
まゆみが勝てば、カレーライス(恐るべき青垣山盛り)、土御門が勝てば、月見うどん(もちろんだしは関西式)だった。まゆみが赴任してはや三年、戦績は五分五分である。
「そうね……カツ丼、青椒肉絲、チキン南蛮等々、魅力あるわ。だけど、月見うどんまたはカレーじゃないと勝負にならないの」
どこからか「クラゲ、中華サラダ…………」と小さなあぶくのごとき声がした。
「カレーうどんにしたらどうなのか? とゼミ生に勧められたわ。……申し訳ないけれど、それだと別の意味になってしまうのよ」
まゆみなら、汁を飛び散らさず、しめやかにすすれそうだ。白いスーツは、汚れぬ自信の証。
「いかそうめんが、あるならば、クラゲそうめんも、ある、真か、偽か……」
唯音が食い入るように、というよりも、直ちにアクリルガラスをかち割って標的にかみつきかねない迫力でエチゼンクラゲを凝視している。
「ゆゆしき事態ね。順路を変更よ! カフェに駆け込みましょ」
「センパイ、甘味デ耐エシのんデくだサイ!!」
まゆみと明子が、ひもじき唯音を運び出した。なんとも妙な光景に、野次馬がたかる。瞬く間に噂となり、レゲエ三人娘がいる屋外展示へと広まった。そこに至るまでに尾ひれ、おまけに背びれがつき「クラゲワールドに巨大太刀魚が担がれていった」「リュウグウノツカイの模型が美女怪盗団にさらわれた」など現実味を帯びない盛りぐあいとなったのだが。
「魚づくし……ですね」
ビニールシートに両足を伸ばして、唯音は小旅行の前半をそう締めくくった。傍らで横になっているまゆみが、太陽光を音で表したように笑う。
「前に勤めていた所でお世話になった先生がね、開いたお店なの。お寿司、満足する味だったでしょ」
唯音は二度、首を縦に振った。漁れたての魚介類を存分に堪能しただけでなく、店主のひねりのきいた冗談も拝聴できた。
「『そこの水族園から捕まえてきた魚じゃないよ!』は、お客さんをつかむネタなのよ。お寿司だけに、ね」
「…………!」
思い出しただけで、おなかがよじれる。明日に使いたくなる名言ばかりだった。
「将来の夢がありすぎて、就いた仕事でなにかを百したら転職されるのよ。大学教授の時は論文を百本書いて、その前の船長は、海賊を百人倒したんだったわ」
「経験が、豊富……です」
「人生をありったけエンジョイしているのよね!」
ひじをついて、まゆみは砂浜に遊ぶ学生達へ微笑む。華火・ふみか対明子・夕陽の、ゆるりとしたビーチバレーを繰り広げていた。
「黄泉へ旅立つ日がいずれ来るのだから、あなた達に悔いを残してほしくない」
かの光源氏が籠った地―須磨の波に、まゆみの望みが乗る。
「私は黄泉に渡れるか分からないの。そうだといって、生を諦めたわけじゃない。人を外れたからこそ、神に至れないからこそ、若人の行く路を見届けるわ」
「まゆみさん……」
唯音は知っている。ここにいる「安達太良まゆみ」とは、誰なのかを。
彼女は、先祖神・アヅサユミを喚び、父を生き返らせた。父は、出自により冷遇されながらも家の因習に立ち向かってきた。己が妻と二人の娘を幸せにすることを望み。苦難の路を歩まされた父と、父を失いふさぎこんだ家族に笑ってもらうため、すすんで「人を外れた行い」をした。彼女は「引く」力を宿され、人と人ならざるものの間における存在に落ちて、行いを償うこととなった。
安達太良まゆみは、唯音達と共に命の路を歩めない。暗い事実は、きっとはかりしれない痛みを彼女に負わせているだろう。他に知っているのは、ふみか、夕陽、華火、明子である。偶然とは言いがたい、六人は空満大学文学部日本文学国語学科公認サークル「日本文学課外研究部隊」で「引き」結ばれた縁だった。
「私もバレー、よしてもらおうかしらね」
「ふらつき、しない……?」
まゆみが、親指を立てた。
「むしろ、お昼間に呑んでエネルギー満タンよ。……あ!」
両手を合わせて、唯音に小さく頭を下げる。
「帰りは、仁科さんに運転お願いしていい? お縄について新学期早々、不祥事を起こしてはいみじくみにくし、でしょ」
なぜ迷惑に感じないのか、唯音は考える必要はなかった。
「…………です」
靴を履いて、唯音も加わりに走った。
網を張っていないと単調でつまらないので、全員揃ったのを機にパス回しに切り替えた。『源氏物語』の時代を体験するなら、蹴鞠にすべきところであるが、女子といえば排球なのだ。昨今は少年漫画の題材に取り上げられていても、我らが師は「おなごゆゑに、うち泣くのぢや」とアタックで頂点を目指し、憎しみを越えて勝利のピースサインなスポ根世代だからしょうがない。この国、本朝は昔、世界に恐れられていたではないか……東洋に魔女あり、と。
「古今東西っ、最近びっくりしたこと! A・B号棟に地下教室があったっ、あきこっ!」
「最近びっクリしたコト! 購買のポテトにXLサイズがゲリラ販売シテた、ゆうセンパイ☆」
「ひやあ、ピンチやった。最近びっくりしたことぉ! 上田先輩のネット小説が書籍化しましたぁ、唯音先輩ぃ」
「最近、びっくりしたこと、私の、落書きが、学科の、イメージキャラクターに、なっていた、ふみかさん…………」
「ええ、わ、わわ!」
自分に来るとは思っていなくて、ふみかは受け損なった。砂にしおらしく着地したボールを拾うと、まゆみがこちらに渡すよう合図した。
「次のお題にするのは、待って。私にもあったのよ」
顧問はオーバーハンドパスを連続しつつ、話してゆく。
「あなた達が、一日以内に『大いなる障り』を祓って空満に帰ってこられた。奇跡をも超えた良き事だわ」
五人の髪や衣服が、汐風に揺れていた。
「百年要る戦いを、いかにして縮めて結んだの?」
ボールは、隊長のふみかに回る。
「後になって思えば、簡単な作戦だったんですよ。そこまでかなり長かったけれど。えい」
参謀の夕陽へ、低めのパスが来た。
「まずは、うちの祓で障りを早う退けるための方法を『知り』ました」
ひじをまっすぐに、膝をしっかり曲げて、遊撃手の明子に送った。
人の心を枯らす「大いなる障り」に勝てる呪いは「祓」だけである。「祓」は、奇跡を実現させる術「呪い」の最高位にあり、行使者は安達太良家の祖、弓と文学を司る神のアヅサユミだった。
「ステップ1、明子ノ祓ヲ行使シテ、『愛』護の帳ヲ自陣ニかけマシた☆」
両の親指を底辺にして手の三角を作り、山なりのボールを火元責任者の華火に渡す。
まゆみの父をこの世に戻した際、アヅサユミの呪いは五つに分かれた。不思議への信心が浅くなってきた現代が、アヅサユミを確実に衰弱させてきたのである。呪いは、五人の娘を選び、その心に埋まった。
「第二段階っ、主役の降臨だっ! はなび様の祓が百年分の時間を特急運転っ、『速』めたってーわけだ!! あたしらの体に影響あったらまずいから、あきこの帷で防いだってこった!」
よっしゃっ! 威勢よく声を出して、技術担当の唯音につないだ。
五人の娘とは、すなわち「日本文学課外研究部隊」の学生達である。「読」の祓はふみかに、「技」の祓は唯音に、「速」の祓は華火に、「知」の祓は夕陽に、「愛」の祓は萌子に宿った。
「ステップ三、五人の祓を、再びひとつに、合体技を、発動した……です」
ふみか・いおん・はなび・ゆうひ・もえこディヌモーン、祓を行使する乙女「スーパーヒロインズ!」の大団円である。
「空満へは、私の祓を、使って、無事に、抜けられた、未知なる、『技』術……ですね」
機械よりも繊細かつ巧みにボールを操り、ふみかに返した。
「空大に通じる転移点はどこかを『読み』とったのは、私なんですけどね」
「うちの祓は、『知』識をピックアップするのが限界でした。有名な学園ミステリの名フレーズやありませんが、『データベースで答えは出されへん』、ですよぉ」
しばし、ふみかと夕陽がアンダーハンドパスを交わす。
「祓に名前がついているんだったら、その意味にちなんだ効果があるんじゃないか、って。私だけじゃ、考えつかなかった」
「五人、いたから、入学式を、迎えられた……」
「小豆ユミ、じゃねえな、アヅサユミは、さめざめ泣いて手舞足踏してるだろなっ」
「五分の一の祓が集まったら、一を超えてもうたんですよぉ。理屈てゆう型を破れるんが、奇跡なんですね」
「センセに導かレテ、明子タチはスーパーヒロインにナレて、一手ひとつニ障りヲ討伐できマシた。サンクス☆」
赤、青、緑、黄色、桃色のスーパーヒロインが、司令官に丸い感謝を届けた。
「私が教えたかった、大切なこと……ちゃんと胸に刻んでくれたのね」
まゆみは、ボールをひしと抱いた。
「私からも、贈り物があるわ」
切れ長の目が、五人を射止める。
「贈詠・巻第十・第二一一一番歌、たまづさの 君が使ひの 手折りける この秋萩は 見れど飽かぬかも」
ふみか、唯音、華火、夕陽、明子に文が二通ずつ、手元に送られた。
「お手紙よ。アヅサユミと、私より」
白い萩が文に添えられる。咲くにはまだ早い花を降らせることを可能にしたのは、まゆみが奇跡を起こしたからである。『萬葉集』の歌を詠む、安達太良家の呪い「詠唱」だ。
「あの、さっそく読んでもいいですか?」
訊ねるふみかに、まゆみがウインクで返したら、一斉に封筒を開いた。
「アヅサユミ、あなたが蒔いた種は、にほふ花となったわよ」
弓と文学の神と顧問が、日本文学課外研究部隊に贈った言の葉とは…………畏れ多いので、記さないでおこう。




