第十九段:名に弓とる者ども(一)
一 安達太良千鶴(千弦)の如月
如月◯日 ◯曜日
朝食、梅がゆ、めざし、里芋と大根のおみおつけ
昼食、出前(お寿司)
間食、先生方から戴いた善哉
夕食、長女が作ってくれた炊き込みご飯、きのこスープ
長女の恩師、棚無和舟先生と土御門隆彬先生が訪ねて来られました。
自由参加の朝稽古を終え、雑巾がけをしておりましたら隣の原川さんが、お客様がみえていると声をかけてくださいました。道場の清めは、原川さんとお嬢さんにお任せして玄関にまいりました。お嬢さんには、稽古の後で申し訳なく思っております。小学生の部門まで手伝ってくださっているのです。
お客様は、お二人でした。
「ご無沙汰しています。棚無です」
「ふぉふぉ、わたしは、年末ぶりやったがな」
長女が大学院にいた時、指導いただきました棚無和舟先生。大学でも卒業論文を見てくださったとのこと。もう一人は、大学で担任でありました土御門隆彬先生。母の私が分かってやるべきだった、娘の抱えていた「人付き合い」の問題に、卒業まで親身に向き合ってくださりました。
お二人を応接間に案内し、たまたま顔を出しに来ていた親戚にお茶を頼みました。
「娘でしたら、散髪に出ております。こんな早くに行かなくても混むことはありませんのに……すみません」
土御門先生は、扇を持たれた手を力無く傾けていらしてました。棚無先生は、粋に笑っていらしてました。
「ハッハ! お嬢さまはいつもの願掛けをされているんだね? 口頭試問の日はすっきりした御髪で臨まれていたよ」
「あら、先生。娘の癖をご存知だったのですね」
「日の出とともに出発して、正午ちょうどに帰るんだったかい? 今回は早すぎるようだけれどね」
「来月は忙しいと聞いていますものでして」
お二人は、神妙な面持ちをされました。
「そのことですがな、お母様や。お嬢さんには、来月も力をお借りすることになりましたのや」
「はあ……」
長女は、安達太良の主に伝わる力を継いでおりました。母校で教師になりまして二年目、その力を空満の安寧を保つために行使する時が来たのです。去年の師走、初めて、土御門先生から任務についてお話がありました。不思議な力「呪い」を私欲のために行使する者が現れたので、亡き主人が考えた解除の術と、長女の力を貸してもらいたい、と。
主人からおおかた伺っておりましたし、長女が和歌を唱えているところを見てはいましたので、まったく分からないわけではありませんでした。ただ、我が家の枠に収まりきらない事態になっているとは想像していないものでして、娘に何かあったらと、久々に気が気でなくなりました。
「来月と再来月の境目に、災いがこの地に寄せてくるんさ。お嬢さまの導きが、私達……違うね、お嬢さまの教え子に要るんだよ。今回は、お嬢さま含めて十一人でこの地を守っていただく。もちろん、私達、日本文学国語学科も戦うよ」
昔とお変わりなく、棚無先生は勇あるお顔とお声で仰いました。貝のイヤリングと、真珠のネックレスが上品ですこと。先生には及ぶはずはありませんが、私もそういう歳の重ね方をいたしたいものです。
「さらにですな、不躾ではありますが、お屋敷の一室をわたしどもに使わせていただきたいのです。対策本部の中継地点として、よろしいですかな」
「ええ、お役に立てますのなら、喜んで引き受けます。道場はいかがでしょう。広いですし、長女がしめ縄を結っています。家で最も安全な部屋ですわ」
畳んだ扇を卓に置かれて、土御門先生は頭を下げられました。以前、といいましても二十年経ちましたが、あのきちんと固められた髪型もお似合いでした。現在の剃られたお姿は、大僧正のようです。
「先生、頭を上げてくださいませ」
お礼なら、私が。娘を使ってくださるのです。空満大学には、足を向けて寝られません。
「……娘は、皆様にご迷惑をかけていませんか。特に、力のことに関しまして」
「いいえ。行使経験の長い私達が、逆に学ばされることが多いよ。ね、土御門くん」
「……ふん、わたしから言わせれば、まだまだ青二才ですな」
鮮やかな唇を上げられる棚無先生と、あごひげをしきりに撫でていらしている土御門先生。教員どうし仲がよろしいのですね。
「青二才とは、いったいどなたのことですの? 教えてくださりますかしら?」
ショートカットをより短くして、長女が帰ってきました。
「まゆみ。先生方の前ですよ、挨拶なさい」
嫁いだ大人に指摘することではありません。私は恥ずかしくなりました。
「ごきげんよう、棚無先生、そして土御門先生」
「わたしは、おまけ扱いかいな」
「まゆみ! すみません、もう四十になりましたのに、しつけがなっていませんものでして」
長女を謝らせ、私の横に座らせました。いまだに子供の心が残っている娘です。真弓家の皆様が苦労されているのではないでしょうか。
「私は、席を外した方がよろしいですか。任務の詳しいお話をされるのでしたら、お邪魔ではないかと」
「あ! 原川さんがこの機会に雛人形を出そうかお困りみたい。お母様、私の代わりに采配を振ってくださいますか」
「分かりました」
娘なりの気遣いなのでしょう。主人の背中を見て学んだのだと思います。私はこの場を離れました。
母でありながら、長女に何もしてやれませんでした。お義母様がほとんど世話をしてくださいました。教育に関しましては、主人も意見を出していました。私も安達太良家の一員ですので、お義母様、親族の方々の輪に加わろうとしましたが、主人に止められました。「千鶴は道場を守ってくれたら良いのだ」と。
主人は、必ずや「千鶴」を取り戻す。と度々約束してくださいました。安達太良の嫁に入り、私の名前は「千弦」に改まったのです。お義母様は「つる」の読みを、気に入ってくださったのです。お義母様に喜ばれたから、私はこの世界で一番愛している人と結ばれました。
「千鶴、私は、千鶴とまゆみ、なゆみを幸せにできただろうか」
主人が、私に訊ねました。息を引き取る前日の、昼のことでした。空気を吸い、はくのがやっとだった主人が、はっきりと言葉を紡いだのです。私は、泣いて抱きつきたくなりました。ですが、今は甘えてはならないと自らを律しました。
「はい。とても、幸せです。娘達も、同じ気持ちですよ」
うまく伝えられました。
「まゆみは、私に似て頑固だ。それでいて、まだ精神が幼い。故当主が閉じた教えを授けたために。どうか、まゆみを外へ出してやってほしい」
「はい」
「なゆみは、繊細で心身を傷めやすい。私の父もそうだった。だが、賢い。やりたいことを、自由にさせてやってほしい」
「はい」
「千鶴……」
主人は、私の手を探っていました。すぐに握ってさしあげました。
「お前を置いてしまうかもしれないが、また会えたら、夫婦になってもらえるか」
これまでそばにいてきて、最も弱々しいお顔をされていました。ずっと、おひとりで安達太良の行く末を案じていらしたのです。私は、何も知ろうとしないで、あなたに守られて……。
「はい……! 何度生まれ変わっても、私は弓弦様と共におります」
「…………ありがとう…………」
主人は、素敵な夢に入り込んだように、心地よく眠りました。布団をかけて、一緒に昼寝をしました。間にまゆみとなゆみがいれば、にぎやかになったのでしょうが、上はもう立派な女性です。下は大人に近づいています。私がいますので、弓弦様は寂しいことなどございませんでした。
主人に後を任され、私は頑張ろうと誓いました。しかし、実際は思うようにいかず、心と体が反発しあって、ふさぎこむ日が続きました。娘達を遠ざけて、空の色が移りゆく様をぼうっと眺めておりました。
長女が、真弓家にもらわれることとなりました。主人が我が子のように大切に育てていた弟子の春彦さんが、ぜひ家に、と来られたのです。使い物にならなくなっていた私の代わりに、原川さんが縁談をまとめてくださいました。祝言まで整えてくださったのです。「私も夫に先立たれて、立ち直るのに三年かかったの。ちづちゃん、ここで思いっきり吐いて。周りのことは、任せてよ」地域の人にも呼びかけて、無事に送り出せました。
長女は、行く先々で会った人達に支えられる運命にありました。助けてくださった方々に、私から深く御礼を申し上げます。弱い私の代わりに、まゆみにいろいろ良くしていただきました。
私は、まゆみの母です。まゆみを世間に放してあげただけの、母です。私の母がしていたことさえ、まともにできていません。欲しいおやつ、おもちゃを与えたり、遠くへ出かけたり、たいていの親子がしてきた交流が、私とまゆみには欠けていました。次女は、ゆえあって実家に預けておりましたので、節目ごとに帰って、会っていました。まゆみから見た私は、母よりも「弓道場を仕切っている女」の印象が強いでしょう。
弓を引けても、子の手をつないでいない、歪な親なのです。
「毎年お雛様を出しているのかい。えらいよ」
玄関広間に飾られた雛人形を、和舟はじっくり鑑賞していた。
「二組なんだね。お母さんと妹さんのかい?」
「お内裏様とお雛様ふたりは、母が実家より持ってきましたの。右の五段は、元は祖母のものですわ。妹と私共用になりました」
「どちらも上等だよ。私のは蛤でね、内側に絵が描いてあって、合わさってひとつになるんさ」
「まさに、貝覆ひですわね!」
和舟とまゆみは、向かい合って笑い声をもらした。
「壱の壇を、まゆみちゃんが引き継ぐとは。翻刻の帝が翁に老いるのも納得だよ」
「帝、でしたの。『西の隆彬』ではありませんでした?」
「東の近松、西の隆彬」。まゆみが日本文学国語学科の学生だった頃、助教授だった土御門と近松にかやうな異名が付けられていた。若き教員に惹かれて、日文生が二派に分かれてそれぞれ追っかけをしていた。現在は、女性教員の美しさを天体にたとえて「陽向の安達太良、月陰のエリス、綺羅星の紘子」が広まりつつある。
「女子は、西の、だったけれど、本分に励む子達は『翻刻の帝』と恐れていたんだよ。ちなみに私は『女傑』さ。ハッハ、学生は本質をとらえているものだよ!」
「当のご本人は、昼呑みされてぐったりですが。おほほほほ」
居間で転がっていた土御門が、くしゃみをしていた(かもしれない)。
「私は、母の物が好きですわ。結婚を決めたきっかけは、こちらのお内裏様とお雛様ですの。別々の畳にいますけれど、仲睦まじさを感じられます。まるで、父と母のよう」
少女に戻ったみたいに、まゆみはうっとりしていた。
「お母さんが聞いたら、喜ぶだろうね」
和舟がひと言、ひと言噛みしめて教え子に聞かせた。
「まゆみちゃん、お母さんを慕っているかい?」
師匠へ、まゆみは不惑らしい成熟したまなざしで答える。
「ええ。娘であることを誇りに思っておりますわ」
夜の部を始める三十分前、道場にて千鶴が瞑想していると、誰かの気配がした。
「まゆみですか」
こちらへいらっしゃい、目を開けて千鶴は正座のまま右へずれた。
「道着の姿は、三歳以来ですね」
上下とも真っ白のまゆみは、義母が朝な夕な祝詞をあげていた掛け軸の「アヅサユミ像」を写しとったかのようであった。産着に包まれていた頃から、先祖がえりだと褒められていた。
「お母様、私に再び弓を教えてくださいませ」
六歳まで、生徒と一緒に引いていた。翌年、力を継承するため義母と生活の大半を過ごすようになった。我が子をひいきしているわけではないが、筋が良かったので伸び盛りの時期に弓をさわらせられなくて、千鶴は残念に思った。腕がなまっていないか心配していたものの、まゆみは和歌一首で岩を貫ける「安達太良の術士」に成長していた。
「何のために、誰がために、弓を引くのですか」
「この世を救うため、今ここに生きる人々とその人達が大切にしている人やものを守りぬくため」
まゆみは即時に答えた。一本の矢、迷いなし。
「戦を止めるよりも、困難を極めますよ」
「覚悟しておりますわ」
「安達太良の弓は、一本限り。『腐れ弓』の本当の意味を、あなたは充分、知っていますね?」
射るような切れ長の目が、ぴんと張った。紛うことなき我が腹よりすべり出てきた子だ。
安達太良家は、弓矢の名門でもある。術士を当主に据えつつ、優れた射手を輩出してきた。一本の矢で、戦の源に終止符を打つ。射れば戦場や鍛錬を辞して弓を腐らせる、という謙遜・他流の者からの揶揄は、当家にいらない。たった一本の矢が、みだりに射る戦狂い達の弓を置かせ、長いこと引き方を忘れ、腐らせる。安達太良は武と呪いで空満を平らかにしたのだ。
「良いでしょう。生徒と並びなさい。当分は呼吸と姿勢を復習させます」
早く形がいつでもとれるようにならねば。矢を番わせてもらえるまでに「大いなる障り」が来てしまう。まゆみは勇ましく返事をして、立ち上がった。




