第十八段:橘(ときじくのかくのこのみ)は朽ち果てない(四)
四
柑橘の果汁にまみれた乙女達とご婦人は、お風呂につかってすっきり、さっぱりした。
「はあ……、とんでもない目に遭ったよ」
「シトラスやから、お肌つるつるになれたんちがうやろうかぁ」
ふみかはため息をつき、夕陽は頬や腕を湯にからませていた。
「夕陽ちゃんは、ポジティブだね。いいと思うよ! あれあれ、唯音どうしたのさ? しょげちゃって」
「ジュースをボトルに詰メそびレテ、ヘコんデルんスよ」
「もったいない……です」
潜水する唯音を、きみえと萌子は眉を下げて見守った。
「なっちゃんちのお風呂、すんげくでっかいんだな! 汗もみかん汁も流せで、皆で湯舟入っで極楽なんだな~」
伸びをしたとこよに、凍莉がお湯鉄砲を撃った。
「あなたがUSBを慎重に差さなかったのが、悪いんですのっ! 凍莉もべたべたになりましたのっ!」
「ごめんなんだな~」
「そこまでにしとけ、こおりっ。とこよの活躍で倒せたんだからよ」
「なっぢゃ~ん……!」
「ちょい、てめえ、やめろ、苦しいだろがっ」
のっぽのとこよに抱きつかれて、華火はたじたじだった。
空満市の大地主、夏祭家の屋敷は「広大」の言葉を当てはめてもまだはみ出るほどの面積であった。各部屋も然りで、浴室も例外ではなかった。九人で入っても、全然混雑していなくて、後から十人もの団体客が三組来たってへっちゃらだった。
「おいしいわねー」
まゆみは、ちゃっかりお酒を持ち込んでいた。指導後の一杯は、えもいわれぬ美味さなり。
「バイザウェイ、冬至じゃナイのニ、柚子浮イテるんスけド……」
横半分に切られた柚子をすくって、萌子は湯舟を見渡した。
「多スギまセンか?」
乙女達は、苦笑いした。お湯より柚子の量が多いのではないだろうか。集合体恐怖症を持つ人や、柑橘類が嫌いな人には拷問以外の何物でもない。
「しゃあねえだろ、あいつが善意で送ってきたんだっ。腐らせるわけにゃいけねえ」
「どちらさんなんだな?」
友達の純粋な質問に、華火が恥ずかしそうに答えた。
「……あたしの、許嫁」
とこよは顔を真っ赤にして、わ~、きゃ~と叫んだ。きみえと凍莉は前のめりになって聞いていた。婚約者がいることは「スーパーヒロインズ!」しか知らされていなかった。去んぬる聖夜のお泊まり会にて、枕を抱き恋の話をしたのである。なお、杯を傾けている顧問のまゆみは、華火が入隊する前から把握していたらしい。
「なになに、もっともっと詳しく話して?」
「凍莉の初期データに、入ってませんですのっ! 一切合切、吐いてもらいますのっ!」
柚子を掻き分けて逃げる華火を、とこよ達が追い回す。萌子は面白がって、情報提供しだした。
「なっちゃん、もう結婚するお相手がいるだか~。いいな~」
「ひゅひゅひゅう、結婚は人生の墓場ともいわれてますのっ! せいぜい四苦八苦してですわっ!」
「あのなあっ!!」
華火は、諸手で柚子を投げた。とこよと凍莉に当てるはずが、萌子とふみかにぶつかった。どこからか華火の肩に果実が飛んできて、雪合戦ならぬ柚子合戦が開かれた。
「今日はしも 柚湯なりける 旅の宿」
高浜虚子の句を口ずさむまゆみにも、かぐわしき実がやってきた。香る戦が、より激しくなったのは、言うまでもない。
学生達は、華火の部屋でのぼせた身体を冷ましていた。合戦で文句なしの勝利をあげたまゆみは、備えつけの浴衣ではなく勤務時の白スーツを着て、華火の祖父と母へお礼をしに行った。
「泊まるやつ、挙手ーっ」
唯音、萌子、凍莉が泊まりを希望した。いとこの唯音は、年間のほとんど世話になっており、萌子は、下宿先に外泊の許しを得ていた。凍莉は、データ更新と空満の偵察を兼ねて、だそうだ。自身の基となった華火について、深掘りしたいのだろう。
「食べられねえ物あるかっ? ねえようだなっ。んじゃ、言っといてくる! 後でおやつ出すから、待ってろっ」
半纏をはおって、華火は襖を閉めた。
「ふみちゃんとうちは、おやつをいただいてから、お暇しますぅ。先輩とトコちゃんはどないされますかぁ?」
「私は、もう少しいるよ。唯音に頼まれていた本、貸さないとね」
「トコは、ジョギングして帰ります!」
「そうですかぁ、お気をつけて。特にトコちゃん、まだ暗くなるん早いんやから」
とこよは夕陽にガッツポーズを見せた。
「ありがとうございます! お家、近所なのでびゅ~んと行けますよ~」
「あはは、速う走れるてかっこえぇね」
やりとりを聞いていた凍莉が、後ろに宙返りして起き上がった。
「瞬足なら、凍莉が最強ですわっ!」
ソフトクリームをふたつ逆さにしてくっつけたような巻き髪を揺らして、涼しく高笑いした。すぐ乾き、形状記憶のためヘアアイロンを当てなくていいらしい。作者は妙な点で天才だ。
「ふゆちゃん、トコと競走するだか!? なっちゃんも呼んで最速クイーン決めるんだな」
「一等はいただきますのっ! ひゅひゅうっ!」
とこよと凍莉の後ろに龍虎ではなく、ひぐまとオコジョが現れた気がした。ふみかは、そんなあほな。と自分の想像力につっこみを入れたのだった。
「うーい、おやつだぞっ」
華火が硝子の器をたくさん乗せたお盆を片手に、戻った。なぜだかげんなりしている。
「華火お嬢様、危のうございます。私がお運びしますから、お盆をこちらに」
女中のおようが止めて、おやつを預かった。
「またあいつだよ、女子が果物好きだっつっても、程度があんだろ、程度ってもんがっ」
ふみか達は、察しがついた。
「差し出がましいことを申し上げますが、観世様は華火お嬢様に喜んでもらいたくて、贈り物をされているのです。どうかお怒りを鎮めて召し上がってくださいませ」
「……分かった。手紙書くから、送っといてくれ」
おようは深く礼をして、配膳に取りかかった。
「はなっち、イツかハ、観世サンにナルんデスね」
「観世、なにさんて、いいはるの?」
「観世風舞、どっちかってえと、芸術系っぽい名前だろ。能、習ってるみてえだしよ」
華火は、萌子と夕陽へ口をとがらせた。観世さんは、空満市の議員を務めている。華火の父とは同業者であり、師弟関係だ。
「風に、火か……。助け合う夫婦になりそうだね」
「至言……ですね」
「ふみかちゃんはさ、いつも粋なこと思いつくからすごいんだよ。歌人だ、歌人だ」
唯音ときみえに拍手され、ふみかは恐縮した。
「お待たせしました。本日のおやつは、蜜柑の大福、金柑の甘露煮、二色のグレープフルーツゼリー、レモンシャーベットです。柚子の紅茶と一緒に、どうぞ」
観世さんは、しょっちゅうこんなに「素敵な」物を贈るのか。未来の結婚相手に対しては、心の尽くし方が恋人とは相違があるのだろうか?
「ゼリーとシャーベットですのっ!? 凍莉、華火の家の子に志願しますのっ!!」
冷菓を前に浴衣の袖をすり合わせ、華火そっくりの少女は喜色満面である。
「およう、大福、残り、ある……?」
「ございますよ。すべてお出ししましょうか」
唯音は、静かにうなずいた。どこもかしこも細い彼女、実は健啖家なのだ。人の倍食べても太らない体質を、ふくよかな夕陽はうらやましく思っていた。
「金柑おいしそうなんだな~。トコ、今年のおせちに食べただよ」
「前に作ってみたことあるんだけどね、鍋焦げつかせてさ。こんな透明感のある照りとはかけ離れていたわー」
「お店ノっスかねー? きみセンパイ、甘露煮ナラ萌子コツをレクチャーしマス☆ コンフィチュールだッテ、お手ノ物デス」
とこよ達のはしゃぎように、華火は「むう」とうなった。
「あらー、柑橘まつりじゃないの。今時のティーラウンジでも、かやうな丁寧さでは作れないわよ」
おようが座礼をして下がる。やっとこさ顧問がいらしたので、おやつをいただいた。
「夏祭さん、どうしちゃったの、顔をしかめて」
「フィアンセの愛ガ重クテ困ってイルんデスよ、お惚気っス」
「ばかなこた言うなっての、よさのあきこ!」
萌子(明子)は、舌を出して挑発した。
「観世さんだったかしら? いみじく誠しき殿方じゃないの」
「あたしは、みかんとかゆずとかより、メロンがいーんだけど」
とぶつくさ言いつつ、ゼリーをすくって口に運ぶ華火だった。
「幼い頃、ゆずの水羊羹を気に入っていたのよね。熱が少しの間でも引くから、と。観世さんは、覚えていたみたいよ。夏祭さんに健やかでいてほしいんだわ」
「……よく、手紙にもそんなこと書いてあった」
まゆみは紅茶で温まってから、ふふっ、と笑った。
「嫁ぐかどうかは、あなたが好きに決めて構わないとして。幸せなことなんだから、への字の唇を上げなさい」
「…………おうよっ」
頬を薄紅に染めて、華火はゼリーをかき込んだ。ふみかは、華火が観世さんに抱く想いが読めた。緋色の「祓」を行使しなくたって、分かることだった。ふみかにも、気になる人がいるからだ。
「うっし、今度はあたしがあいつを青息吐息させてやっか! 瓜科で攻めるか。柚子にゃ南瓜で対抗だっ!」
九色の声が、三十畳の部屋を彩り豊かに震わせた。
〈次回予告!〉
「アヅサユミさん、私は、家内の事で不自由していることがあるんですが……」
【良し。聞かむ】
「毎日、家内に食事を調理してもらっているのは感謝しております。しかし、どの献立もなぜかカレーになってしまうのですよ」
【なに、我が子孫がさやうなしわざを……】
―次回、第十九段「名に弓とる者ども」
「先日は、ハンバーグを所望しましたが、ハンバーグ入りカレーを出されましたし、昨日なんか驚嘆しましたよ、ぶり大根がそのままカレーの具材に!」
【汝、苦しみたるか。されども、其は我の好む物ぞ】
「ええ、カレーは大昔からあったんですか!?」
【乾飯なり。我、永きにわたり、食んできし。飽くまで】
「音は似ていますが、違いますよ!」




