第十三段付録! 安達太良先生の出前授業!
改めまして、こんにちは! 空満大学文学部日本文学国語学科の安達太良まゆみです! 噛みそうな名字よね、あだたら、は漢字でこのように書きます。覚えづらいでしょ、まゆみ先生と呼んでいいわよ。
文学部日本文学国語学科では、何を学ぶのか? 文学だから、きっと作品を読むのよね。日本文学かー、本朝で生まれた古典や小説、和歌や詩、その他いっぱいあるな。国語学ね、 国語つまり日本語の、文法だとか使い方だとかを研究するのかな。その通りです。皆さんが勉強している「国語」を、より細かく、深く、専門的に学びます。先生の解釈を聞くだけではありません、自分の力で読み解いて、作品について疑問に思った事、これは作者がこういう意味で表現しているんじゃないか、この人物のある行動が僕は・私はおかしいんだけれど、という発見をスタートに、参考となる文献をたどる、関連する文学と比較するなどして調べてゆきます。自分の考えに根拠があるのか、無ければ何が問題なのか、ゴールに着くのに時間がかかりますが、文学、ことばをみつめてゆくことは、楽しいものよ。社会で直接役立つかは、学んだ人しだいですが、文学とことばは、生涯を豊かにしてくれます。
今日は、日本文学国語学科の授業を体験していただきます。皆さんは『萬葉集』という和歌集を知っているかしら? 名前を聞いたことあるよ、という人は手を挙げてね。ふふっ、ほぼ全員かー。内嶺県に住んでいると、必ずどこかで見かけるのよね。まちの催しに「万葉なんたらまつり」がねー、観光地に歌碑があったりねー、私鉄に和歌が書いてある車輌が走っていたりね。へえ、ラッピング電車っていうの? 教えてくれてありがとう。私ったらこの年でひとつ賢くなったわ。
『萬葉集』といえば! 連想するものを聞かせてください。では、布施さん。短歌、そうね、五・七・五・七・七が多いわね。あらー、堂々としているわね、石切さん。植物園! 藤棚がいみじく美しいわよね。私も行ったことあるわ。ん、目が合った。富雄さん。ついてないな、ですって? むしろラッキーよ! さあ。額田王。なかなかやるわねー。うんうん、枕詞、柿本人麻呂、貧窮問答歌、東歌、防人歌……けっこう詳しいのね、あなた達。はあい、そこまで。じゃあ『萬葉集』の歌、四五一六首あるんだけど、二首を紹介しましょ。覚えて帰ってねー!
『萬葉集』は、全部で二十巻あります。今日は、巻第一の第十七番歌・第十八番歌を読んでいくわね。時代は、雄略天皇、舒明天皇から元明天皇まで、五世紀と、六二八年から七一四年、古代の飛鳥時代・白鳳時代です。聖徳太子が活躍、大化の改新、壬申の乱があった時期ね。巻第一は、雑歌を収めています。恋の和歌・相聞と、亡くなった人を悼む和歌・挽歌以外の和歌、中でも、公的な場で詠まれた歌が多いです。
額田王、近江国に下る時に作りし歌 井戸王の即ち和ふる歌
味酒 三輪の山 あをによし
奈良の山の 山のまに い隠るまで
道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを
しばしばも 見放けむ山を 情なく 雲の隠さふべしや
(巻第一・第十七番歌)
反歌
三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなも 隠さふべしや
(巻第一・第十八番歌)
六六七年、のちの天智天皇となります中大兄皇子が、都を飛鳥から近江国大津へ遷しました。近江国は、現在の洲富県です、琵琶湖が有名ね。国内では、斉明天皇が崩御……亡くなられ、国外では白村江の戦いに敗れ、良くないことが起きました。心を新たに、そして戦に備えるため、近江を目指しました。その時に宮廷に仕えていた歌人・額田王が、飛鳥を離れる気持ちを詠ったものです。
第十七番歌は、長歌です。和歌には様々な形があります。五・七を何度か繰り返して、五・七・七で閉じるものが、長歌。変だな? ってピンときた人は素晴らしいわよ。うまさけ、みわのやま、四・五じゃないの。ならのやまの、いかくるまで、六音もある。結びが、こころなく、くもの、かくさふべしや、五・三・七音。『萬葉集』の頃は、まだ形がしっかり定まっていませんでした。後の時代に、整ってゆきます。
この長歌、枕詞が二つ詠まれていますが、分かりますか? 枕詞に、歌との意味の結びつきはありませんが、特定の言葉を導き出すはたらきを持ちます。枕詞の有名な和歌は、在原業平の「ちはやぶる 神代もきかず 竜田川……」、ちはやぶる、が「神」を導き出しています。八尾さん、どう? あをによし、正解よ。「奈良」を導く枕詞です。弥刀さんは? ちょっと難しいかな。「三輪」を導く、味酒です。神様にお供えする酒を「みわ」と呼んだことから、「三輪」にかかるのね。三輪山が、奈良の山の、山の際に隠れるまで。道の隈、隈は、ここでは、入り組んで見えにくい場所……曲がり角をいうわ。道の曲がり角が、積み重なるまで。つばらに、形容動詞「つばらなり」、充分に、心残りがないさま。充分に見続けながら「ゆかむを」、「を」は逆接だから、見続けながら行きたい……そう! 行きたい「のに」よね。皆、冴えているわよー。しばしばも、は「幾度も」、見放けむ、は「遠くを見やる」、「はるかに眺める」。幾度もはるかに眺めたい三輪山を、無情にも雲が隠してもよいのだろうか。
第十八番歌は、前の長歌に対する反歌です。反論する、のではありません。「反」にしんにょうを補ってみなさいな。返しの歌です。三輪山を、しかもは「そんなにも」。そんなにも隠すのか。雲だにも、だに、は「せめて~だけでも」なので、せめて雲だけでも。情あらなも、なも、は他に対する願望の終助詞「なむ」の古い形、だから、せめて雲だけでも思いやりがあってほしい。隠さふべしや、は第十七番歌にもあったわね、隠してもよいのだろうか。
今のように、電車やバスで楽に行けません。カメラ、携帯、スケッチブックも無い時代です。写真、絵などに残せません。再び目にするなんてかなわなかったの。近江国に一人欠けないで到着できるのも難しかった。飛鳥の地とはお別れ、なのに、雲が三輪山を隠すとはひどい。雲に情けがあればなあ、人間ではないものに心があれば。でも、望み通りにいかないのが現実。本当は、雲があったのかしらね。晴れていたのかもしれない。雲がかかっていたけれど、少しだったかもしれない。状況の真偽はさておき、新しい都へ発つ時の心境が、一二〇〇年以上経ても褪せていないのよ。文学は、タイムカプセルのようなものね。
額田王の二首に、井戸王はどんな歌で答えたのか。都合により解説しませんでしたが、興味があったら『萬葉集』巻第一・第十九番歌を確かめてみてね。ここの図書室に、古典文学の全集がありますし、市立図書館をはじめ、『萬葉集』の現代語訳つきはどこでも読めるわよ。これにて、出前授業は以上!




