第十三段:文学部安達太良准教授(三)
三
ボールは天使勢に渡された。天におはすらしき審判が、選手の手間を省いてくれているようだった。
全ての像が、ボールを目指して台座で床を滑らかに進む。身体は可動できない不便な作りをしている。行使者がうかつなのか、これも計算のうちなのか。
「僕が取ってまいりましょう」
言うと同時に、真淵の姿が天使の山に着く。シール遊び絵本にたとえれば、旧体育館内の絵に、シールの真淵を任意の地点に貼るような容易さであった。
「あなた方の福音は、少々砂が混じっておりますよ」
ワイシャツの襟元を飾るブローチの石が明かりを反射する。蒼穹より掘り出したかのような青い石の中に、多弁の花を象った紋章が描かれていた。ブローチを継いだ彼のみが行使できる呪い、物に寄せるのではない、瞬間移動の奇跡。
「後はお願いいたします」
かつぎあげられた球を持ち、森に山なりのパスをした。
「……」
か細い身で受け取り、結んだ巻き髪を揺らしてドリブル、籠へ一歩、二歩、投げる。球は籠に吸いこまれるように、くるり回って網を抜けた。日文:2、天使:1、
「五十体引かれたか」
土御門が扇で一拍打った。ボールは、眠る安達太良の真下に来た。肥満体の天使が奪いにゆくも、にやにや坊が早く確保した。
「持て余されているようですが、土御門先生」
「待っとるんや。疾うよこしなはれ」
遠めに投げてきよって。労らんかい。コートのある領域を表わす線を踏み、泣く子も黙る翻刻の翁・土御門が己に鞭打った。
「還暦の超感激スリーポイントシュートや」
さっきの一点は、まぐれだ。宮中育ちの文系、うん十年前にほんの短期間我が子とふれて、が最後の籠球歴。そんな翁が三点取れた理由は、
「寄物陳呪・『酩酊時に経験する幻覚大全』、本を【切る】態度」
ゴールの直前、時進に暗示をかけてもらったのだ。本を介して「入る」・「見る」・「切る」に応じた効果をもたらす主任の呪い。「切る」は、書物や対象の人や物の「本文」を自由に切りとり、操れる。『酩酊時に経験する幻覚大全』第四八六頁「過ぎ去りし若さを取り戻し、今ならなんでもやり遂げられる幻覚」を切り、土御門の本文に加えた。
「真淵くんには、私の影を薄くする役目を果たしてもらいらした……」
翻刻の翁より年をとっていても、頭に雪が降らない黒い毛が、おびただしい汗で濡れている。強力な分、心身を消耗させるようだ。日文:5、天使:1。相手はついに、百体。
「ふむ、順調だ。これなら安達太良さんを」
近松よ、楽観すべきではなかった。銅像が一斉に、紅蓮に染まる。人にはあらねど血相を変えて、違反者に攻めかかったのだ。
「悪魔にでも堕ちましたか」
呼吸するのがやっとの時進へ、真淵がテレポートする。退却したくとも、遅い。捨て駒になろうと、弟子が両腕を広げたら、
「Was(何、)? Wohlhabend, hm(富貴。)?」
憤怒の天使らが、弾き飛ばされた。時進と真淵を覆うドームが、盾になったのだ。
「独国式の呪いに命拾いしましたか」
独国語の文章で結界を編んだ行使者が、金属の百合の花を掬った。ほどかれたシナモン色の髪が、香る。
「先の大戦において本朝の薬とされた術を、軍医の曽祖父が簒奪し、西洋魔術に変形させた。疲弊せず争い続けられるための矛に…………」
競争を司る女神・エリスの名を付けられた教員は、冷徹に述べる。盾には使わなかった代々の家長に一寸の怨みを刺して。
「戦いは、不要にならないのであろうか」
紅蓮の欠片が、ドームの周りに落ちてゆく。双方守りきれなかった。言行不一致の自分が恥ずかしい。業務終了後、近松に特訓を請い願おう。
「天王山、焦りが出ましたな」
笛が三度鳴った。時進・真淵・森に退場命令だ。錆びた牢が、もうすぐ満員になる。一人でめちゃくちゃなバスケットボールに勝たねばならない。
「……奥の手を使うかね」
近松は、のびた宇治に背広をかけてあげ、森に携帯電話を貸すよう求めた。できれば来させたくないけれども、苦杯を喫するよりはずっと好い。
「討っておくれ、呪いのものを……!」
信じとうはなかった。お嬢の冗談が、叶うわけあらへん、と。行使者は、お嬢のファンなのかや?
「いつでも来なされ」
種も仕掛けも無い、超上級レベルの呪いや。わたしでも扱えませんぞ。
「えらいこっちゃ……ふぉふぉ」
ボールが五個やと? そちらはルール破り可なんか。全部といきたいもんやが、少なくとも二個は食い止めてやらんとあかんな。
天使像が十体一組の団子になって、五つの隊を成す。翁がそのひとつに追いつけたものの、足がつってしまった。
「時さんの強化が、尽きましたな…………」
敵がひざまずくのもお構いなしに、天使はボールを持ち上げては、籠にたたき落とす。眠れる安達太良准教授は、宙ぶらりでいられる方便を断たれてゆき、不穏な踊りをさせられる。
「お嬢!!」
一本が、彼女をぎりぎり支えている。日文ティーチャーズ最強と謳われる術士であっても、意識を失った状態で落下すれば簡単にむなしくなれる。
頬がこけた疫病天使が、土御門とすれ違う。しもた、反撃の一個を取られた! 心は走ろうとしているが、身体は悲鳴をあげていた。
「……ふぉふぉ、ふぉふぉふぉ、ふぉふぉふぉふぉふぉ」
娘は、アイドルグループに狂って東下りしよった。十六も離れとる若い衆にお熱やで。わたしには理解でけへんかった。
息子は、万年補欠のバスケットボール部を経て会社勤めに漕ぎ着けたが「おれの実力はこんなものじゃない」と転職を繰り返すときた。少年漫画の読み過ぎやあらへんか。ぐらついた人生を送ってからに。
どのような末路を辿ろうが、責任は自分でとってもらう。しかし、や。放っておかれへんのが、親ちゅうもんなのや。家内を通して、近況は聞いとる。仕送りしてええか、と相談があれば、甘やかさへん程度にな、と答えとる。
子どもらと同じぐらいに思いやってしまう教え子が、一人おる。ぷらんぷらんして、生死の境にさしかかっとるんやが、ぐーすか寝ている娘や。
「寄物陳呪・禱扇興」
わたしに「あれ」を行使させるとは、高うつくで。わたしが常日頃持ち歩いとる超・雅な扇はな、骨の素材がかの石山寺の柱を削った、いわくつきの品なんや。呪いの道具に最適なのですぞ。『源氏物語』各巻をイメージした効果を発揮してな、その中でも「あれ」は、ごっつえげつない奇跡を起こすのや。
「巻―」
安達太良嬢や。昔、教えたったな。禱扇興の術すべてを。シークレットの巻もな。言うたな、巻九は軽はずみに仰いだらあきまへん。行使者にとっての僥倖を産む代わりに、魂を費やすんや。幸の度合いが大きければ大きいほど、搾りとられる。生き霊に憑依されたようにな、我が我ではなくなってゆくのや。先代は……わたしの師匠は、腹違いの妹のために使うて、三途の川を渡ってしもうた。お腹の子ともども助からなんだところを、風向き変えたんや。御子を抱く妹を目にできずに、逝ったのですぞ。全然ハッピーエンドやあらへんやろ? わたしはしとうないな。生きて幸をつかむのがええ。
のう、もしもやで、もしもいうても九割九分九厘無いと思うがな、わたしが「あれ」を吹かした時は…………そちに禱扇興を継がせる。ふぉふぉ、罰ゲームや。そちに『源氏物語』が「読める」かや? 十二歳で全巻読んだそうやが、源氏は真に人を愛せたんかや? わたしの出す超難しい宿題や。安達太良嬢や、生涯かけてせいぜい苦しみなはれ。
「巻九―」
孫の顔を、見たかったよの。新発売のヤング焼きそば代表取締役夜逃げ覚悟のテラ盛りを拝みたかったわ……家の蛍光灯、また交換しとらんかった。後の世は髪の毛増し増しでな―。
「ずっどーんっ!!」
あ、ふ、ひい!? 翁はつい泡をふいてしまった。疫病天使がボールもろとも木っ端微塵になったのだから。
「油揚げをさらうんやないわ! 名を名乗りなされ!」
荒々しい入場をしおった輩に、扇を突きつけた。
「ストーブを焚くにはまだ早い季節だけれど」
緋色の衣装を着た地味な娘が、やけになって声を張る。
「風が、ある日は、温もり、ほしい…………」
露草色の衣装のやせ型のっぽ娘が、染み渡らせるように言う。
「底冷えな場面はおさらばよっ!」
爆撃をしかけた常磐色の衣装を着たちび娘が、景気良く叫ぶ。
「飲酒は適量、ほどほどにぃ」
蒲公英色の衣装のメガネ娘が、諫める。
「酔うナラ、楽シイ酔イにシちゃイまSHOW☆」
わざとたどたどしくしゃべる撫子色の衣装を着た娘が、憎たらしい烏の濡れ羽髪を振った。
「やまとは国のまほろば! ふみかレッド!」
「原子見ざる歌詠みは、いおんブルー……です」
「花は盛りだっ! はなびグリーン!」
「言草の すずろにたまる 玉勝間、 ゆうひイエロー!」
「こよい会う人みな美シキ☆ もえこピンク!」
『いざ子ども 心に宿せ 文学を! 五人合わせて……スーパーヒロインズ!』
遅いわ、正義の味方よ。




