第十三段:文学部安達太良准教授(一)
一
土御門隆彬は、最初、ついに酔って幻でも見るようになったのかや、と思った。
休日だというのに、朝っぱらから勤め先―しかも馴染みの薄い旧体育館に移されていたのだから。
我ひとりならまだしも、なんで同僚らまでついとるんや。キャラメルのおまけやないんやで。
「天井が余計に回っていらす~。おめれとうございら~す」
時さんはへべれけになっとるわ、
「ふぬう……私も参戦できるならば、百でも千でも斬り捨ててやれるというに」
初さんは錆びた鉄の柵の内におるわ、
「たはああああ! うううう、腕が鳴るのですよ! 相手をしてくださるのですよね!? ぱたぱた逃げられるのは今のうちですからね!!」
腕章の女史ちゅう大層なあだ名がついとるせわしない娘は、赤ら顔でけたけたとやかましうしよる。
「勝負に勝たなければ、取り返しのつかない結果になる」
「仰る通りですねえ……。たかが球技、されど球技。僕達はよりにもよってエースを封じられてしまいましたから」
舞姫と坊がけったいなことを言い出した。舞台の前にぶら下がっとる相手側のもんらしきゴールの隣に、吊された者がおったのや。コードのような細うてちぎれやすい縄に縛りあげられとるゆうのに、すやすや眠りこけとった。現在は同僚、昔は教え子やった安達太良まゆみや。
「お嬢……」
どういうこっちゃ!? 夕べは、ひいきにしとる居酒屋に全員おったやろ。なんでこないな状況に急転しとるのや。
内側から槌で叩かれているように痛むつるりとした頭をおさえ、土御門隆彬は記憶を手繰るのであった。
昨夜は「花の宴」が開かれた。出勤しなくとも良い「研究日」だったが、「くちあに」の件のせいで、金曜日に緊急極秘日本文学国語学科教員会議があったのだ。会議は早々(はやばや)に切りあげ、店が開く十八時半までそれぞれ事務・課題または雑用をしていた。
「たはああああ!! 飲まなきゃやってられませんよ!!」
宇治紘子准教授が、一杯目で笑い上戸と化した。生真面目な最年少職員である彼女は、カルーアミルク(苺味)を相棒に、宴をにぎやかにするきっかけを作るのが常だった。
「土御門先生―、安達太良先生が一升リードしていますよ! 置いてかれちゃいますー!」
「わたしはいわゆるスロースターターなんや。そち『雷ほふり』くれんかや」
「飛ばしているじゃないですか! なはああああ!!」
頭はぴかぴか、あごはふさふさの土御門隆彬教授は、安達太良まゆみ准教授と恒例の「呑み比べ」をしていた。白スーツで決めた安達太良は、小柄で細身なわりにはよく食べ、よく呑む。目にもとまらぬ速さで一升瓶を空け、テキーラを楽々と味わっていた。常人では三途の川を渡りかねないので、あなかしこ真似すまじ。
「チキン南蛮美味しうございますわー。タルタルソースにいぶりがっこが入っておりますのね」
「レバー煮込みも、おすすめれ~す。鉄分補給できら~す」
安達太良にレバーのおかずを勧めたのは、時進誠教授だ。小太りで老眼鏡をかけた年かさの教員であるが、学科主任を務めている。貧血を抱え、お酒を薬として飲んでいるも、すぐ赤くなり、滑舌が悪くなってしまう。
「近松先生、お酒のおかわりはいかがれすか~」
そばの立て膝で座っていた屈強な男に、時進は呼びかけた。左手の杯が空であったのを見逃さなかったのだろう。酔っていても気配りは忘れない、それが主任だった。
「適当に頼んでおくよ、時進さん」
立て膝の男は、近松初徳教授という壮年の教師である。壮年といっても、精悍な顔つきで背筋が伸びており、まだまだ老いとは無縁だった。
「君は何か頼むかい?」
「現時点では不要である」
ロマンスグレーの近松と並ぶ、妖艶な美女は森エリス准教授だ。西洋のお人形みたいにつるりとした手には、ハラペーニョサイダーなる緑色の不透明な飲料が握ってあった。
「……辛そうだね」
「この程度の刺激は、序の口だと判断する」
平気でのどに通す森に、近松は敬うような、畏れるようなまなざしを向けていた。
「あらー、そぞろさむき飲み物ですわね。焼酎割りで注文しようかしら」
「舌が麻痺しとるんやないかえ、お嬢や。やっぱり飲めまへーんとなっても、責任取りませんぞ」
「怖れない者の前に道は開けますわ! すみません、ハラペーニョ焼酎割りを。それとザグカレー・マハラジャ盛り!」
「ちと暴挙に出とらへんか!? わたしにも同じもんを、大ジョッキや!」
二十年前の空満大学では、土御門は教壇に立ち、安達太良は机に席を置いていた。ワックスでこねくりまわせる毛量があった熱血担任と、喪服かというぐらいに暗いワンピースを着た本の虫。二人とも姿と性格が百八十度がらりと変わったが、縁はつながっている。競い合うという形として。
「真淵くん、楽しんれいらすか?」
「…………ええ、とても」
もう一組、似た関係があった。こちらは学問における師と弟子だった。もの静かに、でも愛想良くウーロン茶をちびちび飲む、真淵丈夫准教授。空満大学入学前から、時進に国語学の手ほどきを受けていた天才である。
「いろいろなお話が耳に入ってゆきますから」
弟子がご機嫌だったので、時進は穏やかに喜んだ。
「近松先生は結局、本命を一人に絞れたのですかはははー!? 人妻・独国と本朝のハーフ、・学級委員タイプ、私の属性、肉食系家庭的学級委員なのですよー! 絶対落としてみせますから! トゥルーエンド確定ですから! なんなら先生のお好きなシュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテ焼きますよ! さくらんぼケーキは愛の味です!」
「ははは、たった一人しか愛してはならぬと、誰が定めたのかね。宇治さんの想いも、しかと受け止めてあげるよ」
「ジョロキア・カイエンミックスのホットをいただきたい」
「分かった、今言ったことは取り消すよ。だから自分を大切にしておくれ、森君」
「ぎゃはあああ、森先生には甘いですよねー!」
「ソムタムをいただけるかしら。キュラソーフラッペのホワイトもお願いしますわー」
「甘い物が欲しうなってきましたぞ。わたしもキュラソーや! 赤、赤ですぞ! お嬢には負けへんで!」
日本文学専門の五人は、毎度かまびすしくなり場を盛り上げてくれる。中世文学の宇治が近世文学の近松にからみ、近現代文学の森がこっそり闘争心を燃やす。安達太良と土御門は底なしの胃袋にあれやこれやと味わいつつ詰めたり流し込んだりする。
「私、ぐいぐいいっちゃいますよー!」
「積極的な女性は苦手でないよ。ふぬ!? 痛いよ、森君。種なし梅を投げないでおくれな」
「……………………」
「豆乳プリンカラメル抜きや!!」
「異議ありですわよ、土御門先生。黒蜜カラメルあっての豆乳プリンですの!」
三人と二人のやりとりに埋もれてうたた寝する主任に、真淵は自身のマフラーを衣紋掛けから外し、かけた。暖房が効いているといえども、師のお身体が冷えぬように。
「……思いもよらない事態が、起こらなければよろしいのですが」
とひとりごちながら。
勘定は真淵と時進にまかせ、他はのれんを抜けて横の来客用駐車場にてかたまっていた。花の宴は、遊びの敗者二名が支払う決まりである。今回は「山手線ゲーム 散文詩の題名と冒頭一行編」だった。
「しゃああああ! 二次会、二次会なのですよ! やりますよね!? 二次会!!」
寒いのに腕まくりをして、宇治が意気込んでいた。脱ぎ捨てた上着は、近松が地べたに着くまでにさっと拾いあげ、持ってやっていた。
「そうだね、歌いに行こうかね」
「私、トップバッターでよろしいですか!? 『伝えたいLegend』で上げていきましょう!!」
拳を天に突く宇治に微笑み、近松は傍らの部下に話しかけた。
「森君は、何の曲にするんだい?」
「『宿酔』である」
「中原中也の、かね?」
森がはっきりとうなずいた。
「泰盤大学大学院の教授が作曲し、ある深夜番組で取りあげられ流行となった」
「ネット上に動画が投稿されていましたよね! 『山羊の歌』シリーズ! バス・ケット・ボール、バス・ケット・ボールの!!」
宇治が「バス」「ケット」「ボール」に合わせて近松の背を太鼓がわりにする。骨太で日々鍛えている彼にとっては、じゃれつかれているものでむしろ嬉しかった。
「宿酔、宿酔と仰いましたわね!?」
食いついてきたのが、もうひとり。体がやっと暖まってきた安達太良だった。
「依頼人の生徒が、音楽系の部活に協力してもらってコラボレーションを果たした、いみじく素晴らしい歌でしたわよね。元の、ピアノの孤独な伴走が好きですが、吹奏楽版も重みが増して良いですわ!」
宇治の「ゆあ~ん、ゆよ~ん!」に負けない通る声で、安達太良は「宿酔」について語っていた。土御門は、また熱くなっとるなとだけ思っていた。お酒が入ってもいなくとも、安達太良嬢が、自分が良いと感じたものに饒舌になる性質であることを理解していたからだ。
「千の天使とバスケットボール! さぞかし熱狂する試合に違いありませんわ。日文ティーチャーズで対戦してみたいものですわ! 私達なら怖くありませんわ! おほほ、おほほほほほ!!」
安達太良が、口に手を添えて高らかに笑った。彼女の全身が白く輝いていたのだが、後ろで車が出たのだろう。
「さっさと離れなはれ、迷惑ですぞ」
……なぞ言ったところまで、土御門は覚えていた。二次会は行ったのか、自宅に帰れたのか? 過程がすっ飛ばされて、旧体育館に至った。正式な名称は、国原第二体育館だったか。土御門の住む陣堂府の宮中の牛小屋にも劣る狭さ、彼の感覚からすれば、ひなびた建物だった。
一番に目を覚ましたのは、宇治だった。ここが学内だと分かると、倒れ伏している皆を揺さぶり、または頭突きをして起こした。けらけら笑いは抜けなかったけれども、「文学部日本文学国語学科」と記された腕章をきっちりつけなおした。
「しかし、なにゆえ私は窮屈な所に寝かされていたのだね」
自力で目覚めた近松は、好色な顔をしかめた。ところどころ塗装がはげて錆のある柵に囲まれ、自由に動けない。
「なれば」
彼は士族であった。この国・本朝は、先の大戦を経て、国民が政治を執る時代になったが、華族・士族という身分は生きていた。華族はみな、国の象徴たる帝の御許で陣堂市内の宮にて生活している。士族は大半が現在の首都がおかれた東陣都に居を構え、警官となり国に仕えていた。研究者の近松は異分子であり、華族の土御門と仕事を同じくする自体が稀な例だった。
ベルトに手をかける。士族は役所に届け出をし認められれば、帯刀を許された。ただし使用には複数の制限がかかり、申請をするにも通るにも面倒な過程があった。物好きでなければしないものだ。ベルトには群青色の紐でくくりつけた守刀が差してあるはずが、指が鞘に当たることはなかった。
「しまった」
姿勢正しくコートに立つ森と視線が合った。部下は冷たい表情で短刀を掲げてみせる。相当、根に持っていたらしい。昨晩……いいや、一昨日の「あれ」か。
「秘密のもめ事はさておき」
心を知り尽くしたかのような物言い、真淵か。
「近松先生、あちらをご覧ください」
恭しく上方にてのひらを向けた。つくづく慇懃な小僧よ。
「なに……!」
柵の間をのぞくと、白いスーツの人妻がぶら下がっているのが分かった。随分頼りない結び方をされて、ぐらぐらしていた。
「あららら先生が捕まっていらす。助けらければなりらせん」
時進が駆け寄ろうとするも、ふらついて転びそうになる。真淵と森が支え。座らせた。
「誰が安達太良先生を人質にとったのか。何をしたいのか」
「ご丁寧に、自ら答えてくださるそうですよ」
真淵はわずかな変化を聞き取れていた。閉め切られた館内に煙が立ち込める。においは無く、真っ白だった。十秒経たないうちに薄くなり、代わりに群れをなす物が出現した。天使の彫像だった。幼児の姿、男にも女にもとれる若者の姿、いずれも弓と矢を持っていた。赤銅色の、文学的な表現をすればチョコレートのような天使達であった。
「ひい、ふう、みい……きりあらへんやんか。冗談抜きで千はおるんとちがうか」
安達太良の元へは行かせまいと通せんぼうする彫像を、土御門が雅な扇で数えていた。
「天使が千やとすると……」
眼前を球が横切った。低く弾んで教員と天使の間に境界線を引く。
「バスケットボールですか!」
取りに走ろうとした宇治だったが、先に銅像の台座がボールに触れていた。
「ああ!!」
さらに天使像が九体、氷の上にいるかのように床を滑り球にたかった。押し合いへし合い、球が像らの天辺に乗った。真ん中の一体が突き、球が宙に弧を描いて安達太良のそばにあるゴール籠をくぐって落ちた。
「遊びに誘っているのれしょうか」
直後に時進は、お酒で血色が良くなった顔を一瞬で青くする。ぶちり、と切れたのだ。捕らえられた教員を縛っていた縄の一本が。
「おやおや、あと六本ですか。安達太良先生の命綱は、限りがあるようですねえ」
「相手の得点が入らないよう、阻止せよということか」
諧謔を交える真淵と、沈着な森。こういう型の人間がいるおかげで、やるべき行動を考えられる。
「けったいなもんがわいてきよって。休日出勤決定かいな。しかも『裏』の、な」
文学とことばの学びを説く、学生の抱える諸々の問題に適切なアドバイスをする、などは本学文学部日本文学国語学科教員「表」の業務であった。土御門達が持つ「裏」の業務とは、くちあに、「口」と「兄」、並べると「呪」。つまり「呪い」を止め、その行使者をつかまえることだ。
現実を覆す物事、人では能わざる不思議―奇跡。奇跡を起こせる術を「呪い」と呼んだ。古の本朝で盛んに用いられたが、科学の知識が広まり、また生き方が多様になって信心が希薄になった現代では、行使できる者が稀少な存在となった。「呪い」と聞けば「おまじない、の丁寧じゃない表現」だと勘違いするほど知名度が低くなってきている。
「裏」の仕事は、宗教学部(宗教学科)と文学部(歴史文化学科・日本文学国語学科)が交替制で行っていた。しかし「呪い」による騒動が久しく起こらなかったせいか、どの学科が当番なのか忘却の彼方へ行ってしまった。そういう状況が都合良く、空満神道校との別件があって、や、国原キャンパス地下の広大な遺跡の調査が思いのほかはかどらなくて、と渋る学科が出たのだ。そちらがさやうな態度でおるんやったら、わたし共がやったろうやないかい。誰とは言わないが、そう啖呵を切った教員が日本文学国語学科に所属しているため、数十年ぶりに始動した業務を担当する運びとなったのである。
「主任として、命じらす。全員れ力を合わせ、安達太良まゆみ先生を助けらしょう」
業務の最高責任者・時進誠が、枕にしていた本『酩酊時に経験する幻覚大全』を脇に抱えた。舌がうまく回っていないけれども、命令は命令だ。
「了解なのですよ!」
「承知致しました」
鼻息荒く、左腕に通していた臙脂色の腕章を外した宇治紘子と、笑みを絶やさず胸元の婦人向けブローチに指先を当てる真淵丈夫。いつでも戦える意思を示した。
「了解だよ」
「了解した」
鉄の柵をつかみ、近松初徳は苦々しく返す。森エリスは近松の短刀をワンピースの内にしまい、答えた。
最後に、土御門隆彬が扇を豪快に開いて、表面に書かれた「雅」を華々しく披露した。
「了解や」
宴のあとにひと汗流させようと、同僚の命握るおそらく千はいるであろう天使を止めよ。そして呪いの行使者を発見し、つかまえよ。
―空満大学文学部日本文学国語学科特殊業務規定・其の五に基づき、業務を開始する。




