第十二段:咳をしても二人(四)
四
夏祭家は、由緒ある大地主・最盛期は国の中枢まで握った政治家、二つの面をつけて舞う一族であった。何坪か数えるのもおっくうなほど広い土地には、本朝の美を追究した庭園、本朝の伝統的な建築様式に、現代の暮らしに合わせた設備を取り入れた家屋が据えられていた。
邸宅は鳥瞰図に表わせば、天に遊ぶ朱雀のようであった。当主の娘は、母屋の自室で床につかされていた。少女には持て余す三十畳は、障子風のついたてで半分にされていた。家具がついてある側に、介抱ついでに泊まりに来たいとこが、当主の娘のそばで座っていた。家に着いてより、全然口を利いていない。極端に気を遣っているのか、意地を通しているのか。案外、どちらでもないかもしれなかったが、きっかけがめぐらなかった。
「華火お嬢様、唯音お嬢様。安達太良まゆみ先生がお見えですが、ご案内してよろしいでしょうか」
住み込み女中のひとり、おようが部屋の前に正座して申した。二十六の若さだが、夏祭家に仕えて十年になる。
「いーぞっ、入ってもらってくれ」
「……です」
かしこまりました、と頭を下げ、おようは襖を音を立てずに閉めた。
「まゆみ、わざわざあたしの見舞いに来たってのか……」
華火は寝返りを打ち、唯音に目を合わせた。
「……説教でもするつもりかよ」
唯音ののどが甲高く鳴る。華火さん、まゆみさんは、叱りに足を運んだのではありません。その「わざわざ」に、まゆみさんの思いやりがあるのです。ですから、
「素直に、優しさを、受け取る……です」
また、いけない癖が出てしまった。全部、言えなかった。紀貫之が『古今和歌集』で、六歌仙のひとり(唯音が想いを寄せている歌人だ)をこのように評価していた。
その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくてにほひ残れるがごとし。
自分もその通りだと思った。和歌を詠んでみても、こうだった。物言わずは、美徳なのだそうだが、自分は物言わずではない。物言えずなのだ。
「……………………」
静けさが、怖かった。華火に悟られないよう、ズボンの生地をつまんだら、襖が気持ち良く滑り出した。
「改めまして、こんばんはー!」
昼に逆戻りしたかに感じた、明るい声だった。唯音は細い息をつく。白いスーツがまぶしい顧問に、助けられたから。
「ごほっ……あかさたまゆみ……けほ、けほっ」
体を押してまで、いつもの掛け合いを始めないでほしい。せっかく訪ねてきてくれた顧問に、そっぽを向くのは失礼だ。どうして、憎まれるような行動をすすんでとるのか。唯音は、いとこの名前に心情を詰め込んだ。
「華火さん……」
頭も布団で隠して、完全にこもる。思春期最後の抵抗でもしたつもりなのだろうか。彼女の幼さに、腹部が煮えそうになっていたところを、
「これだけ言えたら、とく治るわね。『な』と『は』が抜けていますが、韻の都合上、大目にみてあげましょう。私の名前は、安達太良まゆみ」
顧問がいとこに温かく接していたので、持ち直した。まゆみのような、丸い心になりたい。角のある私は、未熟だ。
「おようさんに、メロンと烏骨鶏の卵を渡したわ。どうぞ召しあがってね。おいとまする前に、一首」
布団の盛りあがった部分に、トン、トン、と手を置いては離し、まゆみは詠んだ。
ぬばたまの 今宵の雪に いざ濡れな 明けむ朝に 消なば惜しけむ
屋内だというのに、六花がまゆみの周りにちらついていた。華火に落ちても、水滴ひとつ見当たらない。原理はどうなっている?
「理屈で説こうとしてはダメ。我が家に伝わる、熱が下がりやすくなるおまじないよ。『萬葉集』巻第八・一六四六番歌なんだけど、こういう使い方もできるの」
「……ですか」
「ですよ」
タイトスカートのしわを伸ばし、まゆみは一切のぶれなく立った。
「お大事にね」
陽光にも勝る笑顔を置きみやげにして、顧問は部屋を退出されたのだった。
「華火さん…………」
寝たのだろうか。清らかな暗誦が、熱でけばだった意識をならしてくれたはずだ。
「……明日は、まゆみの誕生日だな」
うなるような声が、綿を隔てて唯音の耳に届いた。
「…………有言実行っ、あたし、行くかんな」
息継ぎをするたびに、いとこは鼻をすすっていた。風邪がひどくなったのか? いや、まゆみのおまじないが効かないわけがない。お姉ちゃん代わり十八年の経験からすれば、この愛い子は、人一倍、情にもろく、感情表現が豊かであるということだった。
「止めるなよ、気合いで治してやる。まゆみのおかげで、ちったあマシになってんだ。食べまくって、寝まくるっ……はなび様の、脅威、の、生命、力、を、ご覧じ、ろい…………けほ」
空元気なんか出さなくていいのに。唯音は、血管が透けて見える手で背中とおぼしき所をさすった。
「疲れたら、疲れたと、言って……です」
明日、霜月十一日、空満大学国原キャンパスの研究棟二階、二〇三教室でまゆみをお祝いしよう。日本文学課外研究部隊の五人で。
「皆、華火さんを、大切に、思っている……です」
掛け布団が、谷折りにされた。こもるのをやめたいとこは、歯を食いしばって、目と鼻をこれ以上湿らさないようにこらえていた。
「おやすみ……です」
はぐれていた氷嚢を拾い、華火の額に乗せ、布団をかけなおしてあげた。空気が冷えてきているなと感じ、窓のカーテンを引いた。昔からあるレースの物と、華火が高校に進級した折、一緒に選んだヴィリジアンの一枚。大人っぽい雰囲気になって、華火がその場でスキップを踏んでいたのを覚えている。
「これは…………」
つい、机に視線を落としてしまう。隅にひとつだけ、ちょんと金ぴかのとんぼが止まっていたのだ。
「真鍮……ですか」
「…………じいちゃんが作らせたんだ。純金にしたかったけど、職人がビビっちまったんだってよ」
あくびまじりで教えてくれた。寝られなかったか。
「もうすぐ寝るから。……姉ちゃんがお人形くれた時、とんぼいただろ」
「逃げられた……ですね」
「孫バカなじいちゃんが、コレならどこにも飛んでかねえって。もっと大事なとこにお金使えよってカンジ」
夏祭家のお祖父さんは、配偶者に先立たれ、孫の華火が生きがいになったそうだ。財産は、息子にではなく(市議会議員でせこせこ稼いでいる男には過ぎた物という見解)孫に一切合切譲りたいのだとか。
「……あたしは、生きているとんぼをつかまえたかったんだ」
いつ尽きるか怖くてたまらなかった。だから、精いっぱい燃えている命を直にふれてみたかった。そうしたら、少しは火を分けてもらえそうな気がした。
「姉ちゃん、またとんぼが来たら、つかまえられるかな」
身体は燃えながら、命が消えいりそうな苦しみは、救われた。今は、山や谷や、道、学校、この足で走っていける。あの夕焼け色のとんぼとまったく同じやつはいないけれど、次こそは。
「……姉ちゃん?」
眠ると約束したのに、起き上がっていた。数年ぶりの、表情だったのだ。両目を細めて、口を開いて。人工のとんぼの羽を指ではさんでいた。生きていないはずの冷たいとんぼにまで、熱が通っているみたいだった。
「つかまえましょう、ふたりで……」
唯音お姉ちゃんの一番好きだったところが、水浸しでぼかされてゆく。こぼすな、こぼれるな、自分に厳しくするよりも、浮かんできた思いを放った。
「やってやろうな」
後で大きな咳があったが、一人じゃなかったので寒くならなかった。
〈次回予告!〉
「ふぉふぉふぉ、次回はついに雅なわたしが主役ですぞ」
「違います! 僭越ながら、私、宇治紘子が主人公を務めるのですよ!!」
「ははは、二人とも冗談はよしたまえ。次は私と森君のロマンスさ」
「近松先生、自分は共演を許可していないのである」
「ふぬ、つれないなあ……」
「お好きなように仰っているようですが、時進先生の他にどなたが主役たりうるので
す? まさか本気で抜擢されるとでも思われているのではないでしょうねえ」
「そんな、真淵先生、恥ずかしいです。代わりに私の妻、息子と孫達を……」
「皆様、あいにくですが次回は私の話ですわ。題名をご覧になって!」
―次回、第十三段「文学部安達太良准教授」
「なんや、『暴走教師安達太良嬢』の間違いやないんか?」
「ずずずず、ずるいです! 私もタイトルに加えてください!!」
「どこかで聞いた事がある名だね」
「筒井康隆作品のパロディだろうか」
「クス。今回は安達太良先生にお譲りするとしますかねえ」
「そうですね。主任として命じます、私達で次の話を面白くしましょう!」
『了解!』




