第十二段:咳をしても二人(二)
二
「先輩、唯音先輩てば!」
走らなければ、どんどん先を越されていた。ふみかは、運動量の少なさを嘆き、口の中に満たされる鉄くささを堪えていた。
わびしい正門、この度の戦場だった御剣橋、青が短すぎて利用者に不満の声があがっている信号を突破し、唯音の背をとらえた。
「どこへ行くつもりなんですか」
機械よりも無機的に、首がこちらに回った。
「華火さんに、会わないように、遠くへ行く……です」
「と、遠くへ、って……。果てしない旅でもするんですか。いいんですか? 華火ちゃんとあんな形のままで」
唯音が、主電源を切ったようにぴったり止まる。ふみかは、これ幸いと前かがみになって息を整えた。
「華火さんは、健康だと言った、私は、心配する必要、ない……」
「いや、しているでしょ。先輩が、華火ちゃんを切り捨てるわけないもの……。だって、怒っ……」
のろのろ運転する自転車に当たりそうになった。同じ方向、大学の職員なのか。灰色セーターのおじさんよ、安全への心がけ、あやまちすな。
「怒って、いない……です」
「じゃあ、学校へ戻りましょうよ」
「…………」
分かりやすくて、苦笑いした。とことんお伴しようか。うっとうしくなった合羽の頭巾をずらしたら、さっきの灰色セーターが急ブレーキをかけた。
「大和さん、ですよね?」
サドルにまたがった男性は、ふみかの知っている人物であった。時進誠五、大学の附属図書館に勤めている司書だった。閲覧のたびに、最近読んでいる本について話しあったり、開架図書の中でおすすめを紹介してもらったりしていた。
誠五は、年のわりには渋い形の眼鏡を通して、ふみかのある一点を凝視して声を震わせた。
「どうしたんですか、お顔が腫れていますよ!」
九割九分の女子大生にそんな言葉をかけた日には、誠五はたこ殴りにされていただろう。一分の類いに入るふみかは、きょとんとした後、心当たりがあったのに気づいた。
「あ、そういえば」
白い猿との戦いにて。酔った唯音を落ち着かせるため、彼女に潜んでいた想いを受け止めたのだ。頬をめいっぱい打たれ、まさに体を張った行動だった。
「そのうえ、寒そうな格好を。この雨の中、出歩いていたんですか? お友達まで!」
もの静かな司書が、矢継ぎ早にしゃべるだなんて。ただごとではない。張本人は、うつむくしかなかった。
「自宅、詰所なんです。手当を受けてください。それとお風呂、どうぞ。タクシー呼びますので。『文法大教会』です。メモをお渡ししますね!」
左のあごと肩で折りたたみ式携帯電話をはさみ、用紙を右膝に乗せペンで書きつける。器用というのか、足さばきが軽いというのか。受付の椅子に腰かける誠五と別人に思えて、ふみかはただただ驚いた。前かごが空っぽ、鞄は持たない主義らしい。
「タクシー、ここまで五分もかからないそうです。僕は先に帰りますので、また!」
ズボンの側面ポケットを両方とも膨らませて、誠五は一礼し、ペダルをこぎ始めた。徒歩と変わらない速さだ。ふみか達が早く着くだろう。
空満神道は、この地で開かれた宗教である。人間を創った空満王命は、みなが助け、支え合う「明るきくらし」を共に楽しもうと、身体を人間に貸し、親となって見守り、迷い子になりそうになれば元の道を教えてきた。人間は、親の期待に応えるため「明るきくらし」を達成できるよう心を磨く。
空満神道の教えは、本朝、世界に広められ、各地に教会が建てられた。教会といえども、西洋の聖堂ではなく、瓦葺き、マンション、我々の居住する家と違いはない。空満神道本部直属の「文法大教会」は、三階建ての一軒家だった。「大」が付いているので、家の程度を超えた面積であったが。
登校で飽きるほど通行している商店街の裏に大教会があったとは。しかも、国営鉄道・私鉄空満駅がとても近い。ふみかは、二年もいて空満市のほんの狭い部分しか知らなかったのだ。
「無事に来られたようですね。ようこそ、文法大教会へ」
正面で誠五が手を挙げていた。鈍行運転だったのに、どうして。ここに到るまでに下り坂があったのか? とっておきの時短経路を使ったのかもしれない。
「父はまだ勤務先なんですが、母ならおります。何かあったら、母に遠慮せず聞いてくださいね!」
しまった。ふみかは頭を抱えたくなった。誠五の父は、時進誠。日本文学国語学科の教員だった。嫌いなわけではないけれど、次に学内で会ったら、気まずかった。家にあがったことをあれこれ訊かれそうだ。先週、司書課程の講義前に同級生がこんな雑談をしていた。「こないだの土曜、バイトだったんだけど、まさかの時進先生がお客さんだったの! 体育学部の校舎そばのケーキ屋さんなんだけどね、一瞬、固まっちゃったー。抹茶とかあずき系かなーて予想してたら、いちご系だったんだー! ミルフィーユとムースパフェ、他はシュークリームとエクレアいくつか買ってた。お孫さんにあげるのかな。先生、スイーツ好きってカワイイよね!」……こっちは、実家に誘われたんですけど。固まるどころか、砕けて塵になるわ。
玄関に入る。五十人で押しかけても充分余裕のある空間だった。三人を迎えたのは、棒アイスをくわえた男の人だった。時進先生を若返らせて、身長を伸ばして、おなかをひっこめさせて、筋肉をつけて日焼けさせた感じだった。
「五う、やるな。両手に花じゃないか」
ふみかは眉をひそめた。成人過ぎての半ズボンは、強烈だ。袖があっても下着だし。あんまりうろつかないでほしかった。
「誤解です、誠三兄さん。大学の生徒ですよ、豪雨に降られていたのでお湯を」
「女っ気のないおまえがなあ……」
時進家の三男は、興味深そうに女子学生らを眺めていた。
「あれ、仁科さんじゃありませんか。愚弟がしつこかったですか?」
唯音は首を小さく左右に振った。そして、ますますいぶかしむふみかへ、耳打ちをした。
「時進誠三さん、華火さんの、担任……です」
時進先生には五人の息子がいて、それぞれ社会に貢献している。以前、日本文学課外研究部隊でそういう話があった。こたつ開きをして、亥の子餅、スコーンなんとやら(横文字はふみかの苦手分野だ)、琥珀糖がおやつだった。
「お二人とも、スリッパ、適当に履いてください。お湯沸いているから、おまえも浸かったらどうだ、五う?」
やわらかくなったミルクアイスを食べ終え、誠三は棒に顔をしかめた。はずれだったらしい。平和な高校教諭だ。
「アイスありますよ。いただき物があまっているのでね。コペン・ダーツのカップも充実していますよ。ぜひ」
「三くん、娘さんの前よ。そろそろ三十路なんですから、ジャージを着てらっしゃい」
右手の廊下より、白髪の婦人がやってきた。空満神道信者がはおる、黒い法被にエプロンを掛けていた。
「おっと、刀自のおなりだ」
腰を低くして、誠三は奥の階段をやかましく登っていった。やんちゃ三十路坊主、ふみかは胸の中であだ名をつけた。
「すみませんね、暑くるしい男所帯でして。五うくん、二階へ座布団七枚運んでおいて。シルバー会の皆さんがいらしているの。挨拶してね。娘さんは、私にまかせて」
「はい」
「うちの人たちがお世話になっております。妻の法子です。さ、まいりましょう」
はきはきしゃべり、きびきび働く。教授を支え、五児を育てあげた奥様は活力にあふれていた。
詰所を置いている文法大教会は、そこかしこに黒法被がくつろぎ、また、せわしなく行き来していた。下宿生(空満神道には、三ヶ月、教えを学び、おつとめする課程があるのだ)が「おつかい、ただいま帰りました」「手洗い場の石鹸を補充しておきました」と法子に報告する。「あいちゃん、おかえりなさい、雨は大丈夫だった?」「うえくん、ありがとう。みんながきもちよく手をきれいにできるわ」法子は、家族と接するように答えていた。年の近い人達の「法っぺ、誠五くんのお嫁さん候補を連れでぎたんか?」「ご飯いただいていくわー、法ちゃん」に、「岡さん、素敵な娘さんでしょう。でも、残念。あの子には当分、仕事をしっかりしてもらわないとね!」「キクさん、毎週花を生けてもらってありがとうね。冷蔵庫のはちみつ梅とらっきょう、よかったらつまんでいって」軽く、でもおざなりではない返しをした。踏んできた場数が、嫁入り前の二十代と比べものにならなかったのだ。
「ラッキーね。大浴場、空いているわ」
「女湯」の看板は、山の雄々しい香りがした。檜だ。すりガラスの引き戸を越えると、衣類置き場、洗濯機、体重計など銭湯や温泉宿で目にする物が揃っていた。
「うちの人は凝り性でね。お洋服の洗濯は、使い方の紙を貼っていますから、その通りに押してくださいな。乾燥機もあります。ネットに入れるのがいいわね。横に吊っている物をご自由に。部屋着は、あちらの箪笥に洗いたてがありますよ。浴衣と、スウェット? だったわ、お好きな方を着ていって」
丁寧に教えながら、法子はバスタオルと手ぬぐいを二組用意して、置き場のプラスチック製かごにかけていた。
「シャンプー、リンス、ボディーソープ、固形石鹸、中のはなんでもどれでも使ってくださいな。貸し切りじゃなくなるかもしれないけれど、ごゆっくりね!」
終わりのあたりは早口になっていたが、親切な奥様だったのは確かであった。二人きりになり、入浴の仕度を始めた。
「ふみかさん、私の服も、まとめて、いい……?」
「はーい。じゃあ回しますね。『時短』にしよう」
ふみかは、そわそわしていた。過去に宿泊行事で複数のクラスの女子と行水(予定が詰まって、与えられた時間が十分未満だった)したし、今年と去年の卯月は新入生歓迎合宿にて、汚らわしい品評会も催されていた。夕陽が連続で優勝していたのを、湯船で傍観していてのぼせた。彼女の経てきた「裸のつきあい」は、ろくでもない思い出ばかり。唯音が厄介なまねをしでかすはずがないと信じたい。
「入らない……ですか」
「あ、いや、いきますよ」
「…………」
「せ、先輩」
先輩は体を隠さないのか。手ぬぐいを広げて、できるだけ露出を抑えている自分が、恥ずかしくなった。
シャワーの水圧は、弱め。温度は、湯が六で水が四の割合に。ふみかのこだわりだった。
「先輩は、蛇口で汲むんですね」
「少し、熱めが、好き……」
つま先、足、膝、肩、うなじの順にシャワーをかけてゆく。唯音は、たらいで上半身に湯をぶつけていた。
「……………………」
シャンプーを手に受けて、泡立てる唯音。ふみかは瓶を探した。「シャンプーです」「リンスだよーん」「ボディソープばい」と太字サインペン書きしたガムテープつき瓶に、噴き出してしまった。唯音のは、何だろう。「シャンプーでいってみよー!」浴場がばらばらに崩れないか不安がよぎった。
「華火さん、昔、難病に、かかっていた……です」
肩にぎりぎりつかない髪に、泡がまんべんなく行き渡る。唯音より短いふみかは、少量とり、液のままつけた。
「熱、下がらない、五年、寝付いていた……」
「うそ、皆勤賞な印象だったのに」
蛇口をひねり、湯を勢いよく出した。たらいにだいたい八分溜めて、投げつけるように浴びる。修行僧みたいな所作だ。「先輩はストイックですよねぇ」夕陽の言っていたことが分かる。
「六歳の、神無月に、完治した……です」
唯音にならい、リンスをもみこんだ。自宅では面倒だから省略しているが、間をもたしたかった。
「あれから、風邪ひとつ、無い、それでも……」
すすいで、手ぬぐいに「そうです、私がボディソープです」を一滴落とす。腕をこすり、ふみかを一瞥した。えもいわれぬ哀愁が漂っていた。
「いや……です」
「華火ちゃんが、身体を壊すのは、ですよね」
「……です」
唯音はかけ湯をして、湯船に浸かりにいっていた。焦りシャワーの水量を増やして、泡を流す。慎重にしていたものの、浴槽に足を突っ込んだら意外にも底が浅くなくて、ずぶずぶ沈みかけた。裸のつきあいは、本当にろくでもない。
「もしも、あの日……」
「?」
「とんぼを、捕って、あげられたら……」
華火さんは、私を「お姉ちゃん」と認めてくれただろうか。がっかりさせなかっただろうか。私の言葉がまっすぐ響けば、華火さんを…………。
「あんまり、責めちゃだめですよ。先輩」
体温が、じっくり上昇してゆく。胸の内側に、波紋ができる。なぜ、大和ふみかには、揺さぶられるものがあるのか。言霊が、機能している? 熱い。湯気にあたりすぎた。
「お先に……です」
白くて、へたに触れたら折れそうな後ろ姿が、寸の間停止した。
「ふみかさん、どうも……です」
いったいどんな表情をしていたのか、のぞくなんて野暮だった。足取りが、機械っぽくなく、素の、女子大生だったから。
ひとり風呂を充分楽しんで脱衣所に出ると、時進夫人が浴衣やらタオルやら手提げ袋やら両脇に抱えていた。
「びっくりさせたわね。唯音ちゃんなら、居間で三くんとアイス開けているわ。出て左に曲がったお部屋ですよ」
ふみかは、とりあえずバスタオルを巻いた。乙女のお作法だ。
「もうじきあがったかしらって。保冷剤取ってきたの。お顔、打ったそうよね?」
「あ、治ったみたいなので、平気です」
迷惑をかけまいとついた嘘ではない。いつの間にか腫れがひいていた。
「いちおう持っておいて。ふみかちゃんのお着替えの妨げになって悪いけれど、ちょっこしタオル積ませてもらうわね」
時進夫人は籐の収納箱に、手際よくタオルを並べた。
「うちの人がよく言っていたのを、思いだしたわ。『日本文学課外研究部隊』ってサークルで活動しているのよね?」
「は、はい」
ふみかはスウェットにした。着るのが簡単という理由で。
「五うくん……誠五くんもね、ふみかちゃんのこと教えてくれるのよ」
ふみか達の衣装を、夫人は乾燥機に移してボタンを押した。法被はどこへやったのだろう。ふみかの疑問を察したのか、
「誠五くんが寝ていてね、かけたのよ。毛布でもよかったけれど、こっちが早くってね。うちの人に似て、机で作業している途中に眠くなるの」
「へえ」
「誠五くんはね、女の子が怖かったのよ」
あ、そうなんですかを呑んで、続きを待った。身の上話を聞く一日であった。
「高校生だったわね、誠五くん、クラスの女の子に告白されたの。あの子は誰かに好かれるのが初めてでね、そのうえ物事を決めるのに時間がかかる性格だったもので、一週間待ってください、ってお願いしたようなの」
下校、食事中、本を読んでいても、入浴、寝ていても、登校、授業を受けていても、交際するかしないかを考えていた。やっと答えにたどり着き、女の子のもとへ勇気を持って踏みだしたら、女子が大勢でおしゃべりしていた。
「ケイコ、どーすんの? OKとかいわれたら」
「カレシ乗り換えるの? フタマタしちゃう?」
「ウチらもついてっていーよね」
告白してくれたケイコは、清楚な雰囲気を裏切るはすっぱな笑い声をたてた。
「付き合うワケないじゃん。ドッキリでしたーてオチ。てゆーかさ」
そこに誠五がいるのが分かっているみたいに、わざと聞こえるように言った。
「あんなネクラキモメガネを好きになるコなんか、全惑星探してもいねーから」
品性の欠けた嗤いと、喝采が誠五を完膚なきまでに痛めつけた。
「…………負けずに学校へ通ったわ。でもね、誠五くん、しばらくご飯がのどを通らなくて、何も感じなくなったのよ。女の子を避けるようになって、笑い声に過呼吸起こして……。代わってやりたかったわよ。こういうときに、親は何もしてやれなくて、悔しいわね」
「……どいですよ…………」
ズボンの紐を、ふみかは爪の色が変わるほど締めていた。
「ひどいですよ、誰かに好きになってもらった喜びを、もてあそぶなんて!」
根暗で気持ち悪いのは、あなたたちだ。誠五さんを、ばかにしないでよ。あなたなんかのために、真剣に恋を考えていたんだから。バカ女は、安っぽい男とつるんで、使い捨てにされちゃえ。薄っぺらい友情にしがみついて、蹴落としあってみじめに地をはう行く末になれ。
「ふみかちゃん」
「すみません、頭に血がのぼって、その」
時進夫人は、人当たりの良い顔をさらにやわらかくした。
「誠五くんがふみかちゃんの話をするわけが、わかるわ」
「え……?」
「懲りずに附属図書館へ来てやってくださいな」
小粋に去りたかったけれども、髪を乾かすことに決めた。誠五にしどけない有様をご覧に入れては、まずい。家ではもちろん、自然乾燥だった。
「ところで、五うくんは、どんな本を貸しているの?」
「加納朋子さんの『駒子シリーズ』です」
「まあ、『ななつのこ』ね! 五うくんが初めてわがままいって買ってあげたのよ。『ささらさやシリーズ』も読んだ?」
「い、いえ……」
「あれは、五うくんがおこづかいで買った一冊目ね。うちの人も後で読んで、泣いていました。親になったら、読む角度? が違ってくるようね」
「先生、感受性強そうですよね」
「そうなのよ! 孫が敬老の日にね……」
文法大教会は、まさしく「みんなのおうち」であった。




