第十二段:咳をしても二人(一)
華火さん、こんにちは。唯音お姉ちゃんです。寒くなってきましたね、カーテンを閉めましょうか。しなくていいのですか。すみません、華火さんは、この窓から入る、外の世界を感じていたかったのですね。
綿菓叔母さんは、優しい人ですね。温かい心を持っていますね。私の親とは大違いです。今日は、物理学のお勉強ではなかったのか、ですか? 叔母さんがやめさせてくれました。叔母さんは私の親に、ごつんと言ってくださったのです。「勉強、勉強てさ、いくらお利口な唯音ちゃんでもパンクしちまうよ。家に来たときぐらい、息抜きさせてやんな!」親が酸欠のような状態になっていて、面白かったです。はい……? ごつんではなく、がつん、ですか。どちらもあまり違いは無いですが。華火さんは、詳しいですね。
今、女の子には何が流行っているか、ですか。そうですね…………お人形、でしょうか。カヤちゃん、と呼ばれている細長い女の人のお人形に、いろいろなお洋服を着せておままごとをしていました。私が直接遊んだのではありませんが、皆さん、好きなファッションを楽しんでいました。公園で、ござを敷いて、食品サンプルを食べさせるふりをしていましたね。小さな食品サンプルが、おもちゃ屋さんで手に入るようなのです。同じ大きさの食器もありました。私が見た女の子達は、お姫様のティータイムという設定でした。海月のような、裾が広がったつやのあるドレスが、きれいだと思いました。いつも私の着ているお洋服の方がきれいだ、ですか? よそ行きですから、家では粗末な物ですよ。ぼろを纏えど心は錦……華火さんは、難しい言葉を知っているのですね。仁科のお祖父さんが聞いたら、たくさん本を贈るでしょう。私は、文学の勉強はまだまだ二分の一前です。半人前、でしたか。何人前、だと、食べ物の数量になりませんか。言葉を扱うことは、難しいですね。
本物のカヤちゃんを差しあげたかったのですが、どれも似たような金髪のお人形でしたから、私が作りました。高陽ちゃん人形です。気に入ってくださいましたか。世界でたったひとつの、あたしだけのお人形。そのように言われますと、とても嬉しいです。
高陽ちゃんは、自分で歩くのです。背中のスイッチを押すだけで、お水を運びます。のどが乾いていて、使用人にお願いしたくてもお忙しそうな時は、高陽ちゃんを使ってください。……これは、どういうことでしょうか。設計図とシミュレーションでは上手に動きましたのに。高陽ちゃんが誤作動して、お水を本体の顔にこぼしてしまいました。華火さん、ごめんなさい。ハンカチがありますから、畳を拭きます……。拭かなくて構わないのですか。なぜ? あたしの部屋に、水たまりができたから、ですか。水たまりは、外にしかできない、しかも、雨が降った後にだけ。部屋には、お外らしいものが置いていなくて、寂しい。分かりました、そのままにしておきます。
華火さん、お外らしいものを見つけました。机の角に、とんぼが止まっているのです。使用人が空気の入れ換えで窓を開けていた際に、入ってきたのでしょう。取ってほしいのですね、お姉ちゃんにお任せください。昨日の夕暮れに漬かって染まったような朱をしています。仁科のお祖父さんに、教えてもらった表現です。
もう少し、もう少しで羽をはさめますから……………………。
一
霜月十日、空満大学を中心に、すさまじい風と、おどろおどろしい雨が襲い来た。白い猿が災厄を運んだのだ。降水確率0パーセントの予報だったけれども、局地的にもほどがある暴風雨だった。この世に「絶対」という言葉はあれど、絶対に晴れるという確証はどこにも無い。だとしても、天候を荒れさせる猿が現れたとなると話は別である。
自然の理を覆すような白猿を、この地―空満に引いた者は、人にあらず、しかし、人ならざるものにもあらず。人としてならぬ行いをした償いに「殊なる力」を宿した、安達太良まゆみであった。ありえない現象を引き起こす彼女は、空満大学文学部日本文学国語学科の准教授にして、日本文学国語学科二回生担任、また学科公認サークル「日本文学課外研究部隊」の司令官という名の顧問だった。
安達太良まゆみは過去の咎は記憶にあるが、「殊なる力」を持つことを知らず、暴走させては深い眠りに落ちる。では、誰が空を泣きやませたのか。安達太良まゆみが引き合わせた五人の娘、「日本文学課外研究部隊」が答えだ。
「え、わ、私? ひじきとか、千切り大根が好きかな」
隊長の大和ふみかが、戸惑いつつ返した。戦いにけりをつけて、拠点のある研究棟への道すがら、好きな食べ物を教えあっていたのだ。聞き役に徹したかったふみかは、お鉢が回ってきて、面食らったのだった。
「サバ味噌とごませんべいはフツーなのかっ? へくしっ」
最年少隊員の夏祭華火が、くしゃみをした。元気いっぱいな彼女が、めずらしい。
「そっちも好きな方だけれど……大丈夫? 冷えた?」
「へーき、へーきっ! あたしは抜山蓋世だっ、ぷしっ!」
一本に結った髪がしなって、レインコートのフードからはみ出した。椰子の葉っぱ、あるいは、盛んに燃える導火線にたとえられるそれは、華火の特徴だった。
「車軸スピンスピン雨デシたカラね、ビショ濡レっスよ」
五番目に加入した隊員、与謝野・コスフィオレ・萌子が、雨具の袖を振って、雫を払って言った。
「レインコートあるないで、えらい違いやもんねぇ。貸してくださった事務助手さんにきちんとお礼せななぁ」
隊長と同級生の隊員・本居夕陽は、ピアノの鍵盤柄がついた厚手のハンカチで、華火の鼻先とほっぺを拭いた。
「第一体育館へシャワーを浴びよな。風邪ひいてまうわ」
「ちょいと雨かかっただけだっ、家近いし荷物取って即帰る!」
「せやけどぉ……」
きつく言い聞かせては、華火の機嫌を損ねるかもしれない。やんわりと促そうか……逆効果に終わりそうな可能性がある。「心煩意乱っ、まだるっこしいんだよ!」華火ににらまれて、夜中にひとり反省会を開く結末がイメージできた。
「てめえらはシャワー行けよ。あたしんとこには風呂あっからよ。平泳ぎでもしてやらあ、へっくしっ!」
萌子が眉を八の字にして、ふみかに目配せした。強制スルしかナイっスね。
そうだね。ふみかは、うなずいた。
さっそく萌子が、華火の首根っこに手をかけようとすると、
「強がるな……です」
しばらく黙っていた隊員が、言葉を投げた。仁科唯音、理学部化学科四回生の年長者だ。今回の戦いは、彼女の奮闘があって勝てたようなものだ。相手が酌んだ酒を呑み、隠していた気持ちを皆に打ち明けた。酔いが醒めて、いつも以上にだんまりし、いつも以上に青白い顔をしていたのだが。
「華火さん、病弱だった、また、寝こむかも、しれない……」
病弱、に、華火はふくれっ面をした。
「昔のあたしじゃねえんだ、へーきだっつってんだろ」
くしゃみを二連発、咳までする始末。
「おとなしく、体を、温めてこい……です」
「だーかーらーっ、家で風呂入るっての! あたしは無病息災、健康優良なんだっ! 姉ちゃんこそ、血行不良治してこいよっ!!」
人差し指を突き出して、尊大な態度をとる華火。年上への敬いが欠けている、なんて簡単に注意できない。なぜなら、華火と唯音はいとこ、よそ者には分からない領域がある。
「………………………………」
唯音の瞳(ふみかは湖にたとえていた)に、さざ波が立った。唇を引き締め、いとこに背を向けた。
「勝手に、しろ…………です」
再び学外へ早歩きする唯音。淡々とした動きが、妙に恐ろしかった。
「あ、あの、ちょっと、先輩!」
ひとりにさせておけない。ふみかは彼女を追いかけた。横顔を夕陽にみせて、萌子と協力して華火の世話を頼んだ。
「……頑迷固陋なやつ」
ちょうどそこにあった石ころを蹴って、華火は研究棟を目指して風を切った。反対より走る、タオルを持った男女二人組を素通りして。
「華火ちゃん!」
聡明そうな女性が「待って、待って」と叫んだが、遅かった。一方、太っちょの男性はワンテンポおいて「やだ、すれ違い!?」など体型に合った低音で騒いだ。
「ねえねえ、君達、何があったの。唯音とふみかちゃんもいないしさ」
聡明そうな女性こと、日本文学国語学科四回生の額田きみえが訊ねた。ついでに、太っちょの男性は、同学科の家庭的な事務助手だ。
「実はぁ……」
嘘がばれやすい夕陽は、かいつまんで説明した。いきさつを全て述べなくて良い。特定の事項を伏せておくことは、偽証ではないのだ。




