第十段:庭の七竈(三)
三
空満神道本殿前に、怪物鮹が現れた。いつものように本殿にて夕づとめをしていた信者たちは、商店街からはみ出した、数本の太い足を見るやいなや、怖れ、おののいた。年かさの信者は、神々の怒りにふれてしまったかと、世の終焉に憂い、嘆くばかりだった。
「ニョニョニョニョニョ~!」
雄叫びとともに、丸い頭が商店街のゲートを天井すれすれに突破した。
「逃げろー!!」
吸盤と足を不気味にくねらせて、蛸が押し寄せてきた。信者たちの悲鳴がわきあがり、神聖なる場に禍々しい気が満ち満ちてゆく。さらに、白い雲が、暗く重い色合いを持って濃紺の空を覆いつくした。
「神様がた、何卒、鎮まりくだされ。鎮まりくだされ……」
年かさの信者は掌を合わせて、本殿に祈った。
「行いは改めます。何卒、何卒…………!」
暴れる鮹を、止めてくだされ。老いたる者の切なる願いは、果たして届くのか―。
「火すれば、花だっ! はなびボンバー!!」
溌剌とした声が、行き交う悲鳴を貫いた。そして、怪物に、鮮やかな緑の火花が炸裂した。
「ニョニョニョ!?」
「いー加減くたばれってんだっ、このタコ助っ!!」
一人の少女が、疾風のごとく鮹の前に躍り出た。先ほどの元気あふれる声の主だ。
「おお、我らをお助けくださったか…!」
乾ききった唇を震わせて、年かさの信者が安堵した。
「だ、だれだっぺ!?」
「あんた、失礼なこど言うじゃないだ! あの娘さんは」
乳呑み児をおぶっていた信者の女性が、夫をはたいて少女に向かってひざまずいた。胸元に「唯我独尊」と毛筆書きのプリントが施されたトレーナーの少女の正体は……。
「この土地一帯を持っでて、議員と官僚を出しでらっしゃる夏祭家のお嬢さん、夏祭華火さんだっぺよ!」
女性がそう言うと、周りの信者や通行人が華火へ五体を投げ出して、一斉に「ははあ」
と拝みはじめた。
『夏祭様、どうか私たちをお助けくださいませエー!!』
「うるせええええええええええええーっ!!」
百人近くいるであろう群衆を、華火はどでかい一言で黙らせた。
「てめえら、他力本願のイミはき違えてんだろっ! 往生したくねえなら、とっとと失せろってんだ、てやんでえーっ!!」
『ははあー!!』
群衆は少女の叱咤にかしこまって、さっさと安全な所へ避難しに散らばっていった。皆を見届けた後、華火は歯をあらわにして笑った。
「けっ、てめえなんざ、あいつらをあてにしねえでも倒してやらあ…って、どわっ!」
闘志を燃やしていた華火に、蛸の足がアッパーをお見舞いした。体重の軽い彼女は、いとも容易く跳ね上げられた。空中で止まったかと思うと、今度はとんでもない速さで、華火の体が地をめがけて降下していった。
「どわあーっ!」
このまま地面にぶつかると、かすり傷ではすまされない。だが、華火は怪我したって平気そうだった。
「骨の一本や二本折れたって、病院行きゃどーにでもなるぁっ!」
意に反して震える体を奮い立たせ、華火は身の行方を自然にまかせた。そして、参道の一地点に衝撃音がとどろいた。
「痛って……くねえ?」
おかしい。あたしは、石畳に直ぶち当たった。なのに、あんで何ともないんだ? 言いしれない奇妙さは、すぐにほぐれていった。華火の足元に黄色い布が幾重にも敷かれていたからだ。見慣れたこの色に、華火の瞳はたちまちに光り輝いた。
「ふう、なんとか間に合ったあ」
「華ちゃん、お待たせしてごめんやで」
大学への入り口側から、二人の女性が登場した。放課後に会えそうなアイドル風の衣装をばっちり着こなした、赤と黄色のヒロインだった。
「やまとは国のまほろば! ふみかレッド!」
手を振りかざし、勇敢にポーズを決める。風にはためく膝上丈のスカートが、彼女に秘められた活発さを表していた。
「言の葉の すずろにたまる 玉勝間、ゆうひイエロー!」
胸の前に組んだ両手を広げ、優雅にポーズを決める。彼女の奥ゆかしさを物語る、足首までのスカートの裾が風でひるがえった。
「やることやるのは、いーけどよ」
『?』
名乗りを一通り聞いた華火が、なりふり構わずふみかレッドにチョップした。
「遅えっ!! どんだけ孤軍奮闘したと思ってんだ、ったく」
「な、な、何もぶたなくたって」
頭のてっぺんをおさえるふみかレッド。この時ばかりは華火に腹を立てた。が、
「信じて待ってたあたしの気持ちも、ちったあ考えろよな」
うつむいて、照れた顔を懸命に隠しながら言うところを見て、許してあげた。独りで戦っていて、心細かったのだろう。
「それで、あちらにいてはるんが、今回のお相手やね?」
ゆうひイエローが、前の巨大な生き物に手のひらを向けた。蛸が、長く太い足を踊らせて、空満本通りを通せんぼしている。
「油断大敵っ、こいつ、技くらわせてもびくともしねえんだ」
「どういうことなの?」
華火が、ひどく悔しそうに言った。
「フツーならボンバーで、火吹いてどーんっと一発なのによ、今日はなんか調子悪いんだ。こんじゃ、ただのおもちゃ花火だっての。ヒロインに変身してねえからか……?」
「そ、そういえば」
ふみかレッドは、華火が普段着だということに気がついた。これまでに戦ってきたが、必ず変身して臨んでいた。変身、といってもユニフォームに着替えるだけで、不思議な力を宿しているわけではない。この衣装じゃないと、戦えないのだろうか。中学生の頃に国語で読んだ、猩々緋の服折と唐冠纓の兜ではあるまいし。
「わかった。華火ちゃんは休んでて」
「むう。あたし、まだイケるぞっ。花火攻撃がムリなら、素手でやってやる」
華火は地団太を踏んだ。親切で言ったつもりが、彼女には戦力外だからいらない、と受け取られたらしい。どうしよう、とふみかレッドが戸惑っていたら、
「ここからは、うちたちに任せとき」
ゆうひイエローが、優しく華火に呼びかけた。
「華ちゃんが戦えるていうんは、よう伝わってる。せやけど、技が効かへんからには、素手でいったら危ないだけや。ごめんやけど、下がっててほしいねん」
「あたしだって、ヒロインだ。逃げたくねえ」
その場を動こうとしない華火。だが、ゆうひイエローは折れなかった。
「逃げる逃げへんの問題やないねんで。華ちゃんには、華ちゃんにできることがあるから、なぁ?」
「あたしにできることか?」
そう華火が訊ねると、ゆうひイエローが頭を縦に振った。すると、華火が、二人に決意のまなざしを見せた。
「おう。やってやる」
「華火ちゃん」「華ちゃん」
「の前に、状況確認だっ。タコ助が出たわけ、教えるぞ」
華火の話によると、タコ、もとい、以下の通りだ。
母の買い物を手伝いに、華火は空満本通りに来ていた。大方の用事はすませ、後は晩御飯のおかずの食材だけだった。娘がよく働いたので、華火母は、娘の大好物、きゅうりを使いタコの酢の物を作ることにした。きゅうりは買えたが、肝心のタコがどの魚屋をあたっても売り切れだった。途方に暮れていた時、
「鮹、鮹はいらんかね~」
親子の前に、桶を提げた天秤棒をかついだ男がふらふら歩いてきた。当世には珍しい、振り売りの魚屋だ。渡りに船だと、華火たちは迷わず買おうとしたが、どこからか「待った!」がかかった。
「その鮹、よおく見てみなさい。足が切れているわよ」
桶の中をのぞくと、その通り、ところどころ足がぶち切られた鮹がうごめいていた。しかも、体に赤みがさしていて、とても新鮮な品物にはみえなかった。
「お粗末な物を売って儲けようとするなんて、商い人の風上にもおけないわ。丁稚奉公から出直してきなさい!」
「ひい、二度としませ~ん!!」
魚売りは、滝のように汗を流して逃げ去った。
「もう少しで、下手物をつかまされるとこだったよ。ありがとうね」
「いえ、たまたま通りすがっただけですわ」
ご婦人はゆっくり振り返って、華火母にまぶしいスマイルを送った。純白のライダースーツと、指通りなめらかなショートカットで、華火は何者かすぐに当てた。
「あ! ハタハタまゆみっ!」
「ふふっ、魚扁に雷じゃないわよー。私の名前は萬葉仮名と平仮名で、安達太良まゆみ」
ウインクしてツッコミと自己紹介をしたこの人が、日本文学課外研究部隊の顧問だ。これでも准教授の位をもらっており、『萬葉集』の研究では頭角をあらわしている。
「歌の文句じゃないけど、いみじくかわいくない魚屋さんだったわ」
まゆみ先生は、大きなため息をついた。さらりと言っているようだったが、明らかに声色に怒りがにじんでいた。
「おい、まゆみ?」
「鮹に代わって、成敗したいものね! 今すぐにでも捕まえて、殴ってあげましょ。鮹だけに。耳にできるくらいお説教もしたいわ。鮹だけに。ん、意味違うわね。タコ? 鮹? 鮹! タコ! 鮹! 鮹! 鮹! 鮹ー!!」
アーケードの下で、先生の絶叫がつんざいた。華火は背すじに寒気をおぼえた。
あのヘンな力が、出る!!
華火の勘は当たった。まゆみ先生の体が真っ白に光り、その光が天に昇った。
「華火、あんたの部活の先生、どうなってんだい!?」
「んなこた、あたしにきくんじゃねえよ母ちゃんっ」
まゆみ先生に秘められた、特別な力がはたらいたのだ。何というしくみなのか、先生の力を暴れさせるきっかけは何なのか、どうにも見当がつかない。些細な事で反応するし、逆に、常人なら動揺するであろう事には平然としている。くしゃみをしただけで、鼻の長い内供を召喚したのは、さすがに呆れた。
「けっ、化けもんのお出ましってか」
母ともめているうちに、商店街に大きな鮹がのしのしとやってきた。あの魚屋が売っていた鮹の親玉みたいなものだった。
「ふんぎゃあ~!!」
早速、鮹の餌食にされた者がいた。さっき先生に撃退された魚屋だ。存分に殴られて、ついにはアーケードの外へ放りだされて、星になってしまった。
これでまゆみ先生の鬱憤は晴らされた。しかし、鮹の暴走はおさまらず、本殿側へ脱走した。華火は、被害を広げないため、先生の力を止めるため、勇気をふりしぼって鮹を追い、ここに至るのだった。
「これまた、タイムリーな事件やなぁ」
「ちょうど共同研でしゃべってたんですけど」
何いってんだ? とポニーテールをはねさせる華火。しかし、事態は事態。放ったらかしにしても、巨大鮹は海に帰りはしない。
「とにもかくにも、鮹、倒さなきゃね」
「安達太良先生の力は、うちたちしか抑えられへんもんな」
通りにのさばる鮹を見すえ、ふみかレッドとゆうひイエローは、本題にとりかかった。
―いざ、戦闘開始。
先をきって走るは、ふみかレッド。おばけ鮹に、果敢に攻めこむ!
「まずは懐に入るよ!」
接近戦に持ち込むことに決定。だが、しかし。近寄るにはあのじたばたする足が邪魔だ。
「教祖様、すみません」
ふみかレッドは、道に落ちていたいくつかの石をつかんだ。本殿に敷かれた玉砂利だ。
「未信者だけど、人助けのために使います!」
ぱっと左手を開き、ふみかレッドはその上に石を六つ並べた。
「ことのはじき・六花閃!」
並べた石を、右手で一斉にはじき、襲いくる足をなぎはらう!
「これなら、いけるかも」
技に確信を得て、ふみかレッドは猛攻撃に出た。
「二花撃! 三花撃!」
「ニョニョ~!!」
立て続けに繰り出されるおはじき六連発が、鮹を着実に追いつめる!
「四花撃!」
これで、二十四の石を飛ばした! …………はずが、ふみかレッドが今しがたはじいた
石は、たったの三つだった。
「うっ、また失敗した」
今度こそ、あの伝説の技を完成させられると思ったのに……。目分量で石を取っていたのが原因か。六花閃の進化版への道のりは険しい。
「でも、いいや」
技は失敗したが、作戦は成功した。あの大きな鮹の頭のそばへたどり着いたのだ。足をよけながら、相手に乗っかるのは難しそうにみえて、案外易しかった。
「けり、つけさせてもらうよ」
髪に留めていた円い飾りを外し、手のひらへ厳かに置いた。ふみかレッドの必殺技が、これより発動する!
「やまと歌は、天地だって……わ、わあっ」
決着の寸前に、ふみかレッドは足をすべらせてしまった。なんたる失態。
「ふ、不安定すぎる」
ぬるりとして、踏みしめるたびに沈み、蠕動する表面。ぬかるみにせっけん水をかけたら、きっと同じ体験ができるだろう。感触もさることながら、魚介類独特の生臭さが鼻につく。当分は、鮹への食欲がわかなくなりそうだ。
「これじゃあ、けり、つけられないよ…………」
「レッド、あきらめるんは早いでぇ!」
後から走ってきたゆうひイエローが、髪に結んでいたリボンをほどき、鮹へ投げた。
「善き事、禍事、い継ぎい継ぎて全善き事、善禍の舞!」
数メートルはある黄色いリボンがあざなわれ、細長い縄になった。縄は、そのまま鮹へ伸びてゆき、かたく対象を縛り上げた。
「これ以上は、暴れさせへんよ」
身動きがとれなくなった鮹。拘束は、ゆうひイエローの得意分野だ。
「あ、ありがと!」
「どういたしましてぇ」
と、ゆうひイエローは会釈して、鮹にあがり込んだ。
「さて」
ふみかレッドの隣に立ち、ゆうひイエローはメガネの位置を正した。
「そこの鮹もどきさん」
「ニョ?」
ふいに名前を呼ばれ、鮹の目玉が黄色のヒロインに焦点を合わせた。
「うちはあえて、あなたのことを『鮹もどき』言うたんです」
もどき、とはどういう意味なのだろう。ふみかレッドは首をひねった。対して、ゆうひイエローは控えめな笑い顔を見せた。
「簡単なことですよ。よくご自分の足を数えたらどないですかぁ?」
足の数と聞いて、ふみかレッドは仲間の意図を読みとれた。なるほど、ヒロイン一、頭の回転が早い人だけはある。
「ウニョ、ニョ、ニョ」
鮹は、縄に邪魔されながらも懸命に自身の足を数えはじめた。
「ニョ、ニョ…………ニョ?」
異変に気付いたのか、鮹は目玉を白黒させてあわてている。かかった、とゆうひイエローは、相手をあおりに出た。
「六本しかありませんよねぇ。本物の鮹なら、足は八本あるはずですよぉ」
「ウニョッ!?」
真実を突きつけられて、鮹はますます狼狽した。
「赤、タコって十本足だったよな」
本殿で逃げ遅れた人を世話していた華火が、上にいるふみかレッドにこう訊ねた。
「え、八本だよ?」
「マジか」
「十本足はイカじゃないかなあ」
「朝は四本、昼は二本、夜は零本、ってやつは?」
「それ人間。というか、最後は三本。勝手に幽霊にしちゃだめでしょ」
「だーっ、足の数とかイミ分からん!!」
二人が勝手にやりとりしている傍らで、ゆうひイエローが詰めに入ろうとしていた。
「西鶴の『世間胸算用』巻四の二『奈良の庭竈』にもありますように、足が六本の鮹など、神代の頃から見たことないんです。いいえ、あり得ないんです。……もう、理解していただけますよね?」
たれ目だったのが急につり上がり、ゆうひイエローが鮹に鋭い視線を送った。
「ウギョギョギョー!!」
水もないのに泡を食ったような様子で、鮹は縛られた体をあちらこちらへねじらせた。勝機は、もはやヒロイン側にあり。
「機知縦横っ、黄色、すげえ冴えてるぞっ!」
「うん」
ゆうひイエローは、いつでも頭が切れている。膨大な知識と、目にしたものを絶対に忘れない記憶力。覚えているだけじゃない。蓄えた知をここぞという時に活用できるんだ。本人は大した事ないと謙遜していても、努力で積み重ねられた知は、確かにあの子の実力を裏付けているんだよ!
「イエロー、あとひと押しいこう!」
「エセタコ助に、ガツンと言ってやれっ」
仲間たちの応援を受けて、ゆうひイエローはさらに自信が満ちていった。律儀に二人に礼をして、彼女は堂々と物申した。
「あなたが『鮹』と名乗る資格は、ないんですよぉ! さあ、堪忍してもらいましょうか」
「ニョ、ニョ~…………」
ここまで畳み掛けられたら、潔く「鮹もどき」だと認めるしかない。おこがましくも鮹として暴れていた「鮹もどき」は、とうとうしょげてしまった。
「レッド、仕上げやで!」
「ラジャー!」
大変長らくのお待たせ。完全に動きを止めた鮹もどきに、ついにとどめをさす時が来たりけり。
「疑うたらあかん! ゆうひジャッジメント!!」
鮹もどきをくくっていたリボンが、ゆうひイエローの手に戻り、今度はふみかレッドの腰にきつく巻きついた。
「そぉれ!」
余ったリボンをしっかりと持って、ふみかレッドごと空へ投げ上げた!
「おい、必殺技かけるヤツ、ミスってるぞっ!」
秀才のゆうひイエローが、相手と味方を間違えた!? 華火が声を大にして注意したが、かけられたふみかレッドは、
「い、いや、間違ってない。間違ってないよ」
これでいいと、自ら望んでもっと高く跳躍した。
「それにしても、考えたよね」
「せやろ。レッドやったらのってくれるて信じてたもん」
「ふう、イエローってば突拍子もない事、思いつくんだから」
白い空を上昇する赤のヒロインと、白い地を踏みしめる黄のヒロイン。二人が編み出した勝利の結末への道とは、いったい。
『足場は、空中でも作れる!!』
リボンが伸びきったところで、ふみかレッドは再び髪飾りを取った。
「やまと歌は、天地だって動かせる! ふみかシュート!!」
最高点から、赤い髪飾りが一筋の雷となって鮹の脳天に直撃した! 一瞬にして、一蹴。鮹もどきは白い煙となって空気に溶けてゆき、はかなくも消えてしまった。
「ただいま!」
空から赤服の女性が、おばけ鮹もどきの跡に舞い降りた。女性の周りには、黄色いリボンが羽衣のように風にふくらみ、たなびいていた。
「おかえり、ふみちゃん」
リボンと同じ色の服の女性―夕陽が、赤服の女性を迎えた。
「なんとか、倒せたね」
「安達太良先生、ご無事やとええんやけどぉ…」
「安心しろいっ、まゆみだったら、母ちゃんが引き取ったぞ」
存在を忘れるなと言わんばかりに、華火が夕陽とふみちゃんの元へ駆け寄った。
「あたしん家の静養室で、絶賛介抱中だっ!」
親指を立てて、華火は二人に「良し!」のサインを見せた。まゆみ先生の真似だ。
「あはは、あんな大きな鮹もどきさんに会うたら、たこ焼き食べたなってきたわぁ」
「わ、私は遠慮するから」
「えぇ? なんでなん?」
「ったくよ、食い意地張ってっとまたデブるぞ。夕陽」
「ふえ!? うち、太ってるん!?」
「おう。メガネ巨乳デブだっ」
「なんやてぇ!?」
両腕を振り回して、夕陽が華火にポコポコ叩きかかる。華火は舌を出して走り、鬼ごっこしているように楽しんでいた。ふみちゃんは二人の後ろで、
「……夕陽ちゃんの胸の脂肪、ちょっと分けてくれてもいいのにな」
風に紛れて、ひとりごちていたのだった。
「有り難や、有り難や」
空満神道本殿の陰より、年かさの信者がふみちゃんたちに拝礼していた。この信者、実は空満神道の書物を管理している、偉い人なのだ。彼は、今日の出来事を、編纂している空満神道の逸話集に加えようと考えた。
神々が召した足六本の鮹から人々を、この地の少女が守り、その勇気に応えて降臨した赤衣の天女が黄衣の天女と助け合い鮹を帰し、神々の怒りを鎮め、人々の行いを改めさせた、というのは、どうか。この逸話は、後に大学の必修科目「空満神道学」にて学生に語られることとなるとか、ならないとか。
「あの、華火ちゃん」
自分たちが伝説になるとはつゆ知らず、ふみちゃんは戦いの前から引っかかっていたことを訊ねた。
「通信入れたの、私と夕陽ちゃんだけだったの?」
「いーや。姉ちゃんらにもかけたぞ」
河豚のように、華火はふくれっ面をした。
「来るっつってたのに、来なかった。あいつら、どこほっつき歩いてんだろな」
「講義でそないな歌教わったなぁ。『萬葉集』巻四の五二七番歌、大伴坂上郎女や」
夕陽が華火の心情に近い和歌を口ずさもうとしたら、
「オ待ちナさいサイ、ビジテリアン大祭☆」
『!』
商店街の方から、恐るべき速さでペダルをこいで、黒髪の乙女が三人の前に参上した。 フリルとパフスリーブで可愛らしさを強調させた撫子色の衣装が、彼女と非常に相和している。
黒髪の乙女は、華火に負けないぐらいの声量で、名乗りをあげた。
「こよい逢う人、皆美シキ☆ もえこピンク! ト」
乙女の後ろで、青白い顔がぼおっと浮かんだ。荷台に腰かけていたもう一人のヒロインは、
「原子見ざる歌詠みは、いおんブルー……」
と、もえこピンクとは対照的な消え入りそうなトーンで言った。
「イザ尋常ニ、バトルスタート☆ っテ、あにゃ?」
ハンドルを握ったまま体を浮かせて、もえこピンクが辺りを見回した。だが、相手の気配がしない。どこだ、どこだと探している彼女に、華火が唇をとがらせた。
「足切りタコ助なら、とっくの大昔に倒しちまったよ」
「ぴぎゃーっ、ソーだッタんスか!? 恥ずカシー!」
本殿の前にも関わらず、もえこピンクは車体を揺らして思う存分にわめいた。ヒロイン唯一の信者にしてあるまじき行為。
「萌子宅デいおりんセンパイと夕食のラーメン作ッテたんスよ! デコレーション終ワッて、イザいただきマス☆ ってトコでSOS入ッてキタんデス! まゆみセンセか!? ラーメンか!? 究極ノ選択じゃナイっスか!!」
腰まであるつやつやした黒髪を振り乱し、もえこピンク改め萌子は、出遅れたいきさつを力強く語った。のだが、
「紆余曲折っ、晩ごはんをとっちまったわけだな」
華火には、言い訳にしか聞こえなかったようだった。
「グスン。だカラ、マッハで食べテ、フルパワーで見参シタんスよ。しかしbutしカシ、間ニ合イまセンでシタ……」
這いつくばって、拳を地面に叩きつける萌子。悔しがる後輩を、ふみちゃんは気の毒だなあと思った。
「ま、まあ、来てくれるだけでも嬉しいよ」
「皆サマ、すみまセンっス」
自転車から降りて、萌子は華火達にお詫びした。変わり者だが、けじめはしっかりつける。そこが彼女の良い所だ。
「デハ、無事ニ解決シたノデ、帰リまショウっス☆」
日本文学課外研究部隊の御一行は、商店街へと連れ立った。
「ラーメン、戻しそう……です」
「姉ちゃん、酔ったのかっ!?」
「喉元に、空満スタミナ味、上がっている……」
「ヒャハッ、いおりんセンパイ死にカケてマスよ、ガチのリバースっスか!?」
「駅まで、我慢する……です」
「はなっち、ココは協力シテ、センパイをシェイクするっスよ」
「よっしゃ、振りまくって醤油ベースのスタミナスープ、胃に返してやるっ」
「ファイトー☆」
「ゲロに負けんな、姉ちゃーんっ」
「やめて、出る……です」
吐きそうないおんブルーこと唯音に、萌子と華火がとんでもない荒療治を施していた。
「そーだ、ふみか、夕陽」
つま先立ちするかジャンプするかして唯音をゆすっていた華火が、何か思い出したようだ。
「てめえら、学校から来たんだろ? カバンとかどーしたよ」
『あ!』
訊かれた二人は、仲良く声を揃えた。
「そういえば、荷物、置いてきちゃったんだよね」
「共同研究室、もう閉まってるかもしれへん。二〇三教室には着替えがあるんやで。どないしよぉ……」
夕陽は、通信機の時計を確かめた。十八時四十二分、閉室まで残り三分だ。走ってもここから研究棟まではとても間に合わない。あきらめて、帰路につくしかないのだろうか。
「ふみセンパイ、ゆうセンパイ、萌子ノ愛機使ッテくだサイ!」
「ほえ!?」
ふみちゃんは、萌子にハンドルを押し付けられた。
「絶対天使専用機、『銀河レールウェイ ☆ ナインナインナイン ☆ トゥインクルナイト』デス。マックススピード出セバ、ヨユーでキョドケンに行ケルっス!」
「お、恩にきるよ」
例の専用機は、見事にパイロットによって改造されていた。ボディはもちろん、カゴやメタル部分もピンク。目を凝らすと、ラメが入っていたり、星やハート型のスパンコールが敷き詰められたりしていた。これだけ飾りつけられていたら、学内で目立つこと必至だろう。よくぞ盗難に遭わなかったものだ。いや、かえって盗むのをはばかるか。
「夕陽ちゃん、後ろ乗って!」
「ふえっ、はいぃ!」
「い、行くよー!!」
ありがたく、使わせてもらおう。ふみちゃんは友人を荷台に座らせ、サドルにまたがった。
「間にあってえええええー!!」
力の限り、ペダルをこぐ。きらびやかなピンク一色の自転車が、彗星のように宵闇の学内を駆けていった。




