第十段:庭の七竈(二)
二
霜月の風静かに、空満大学に通う若者たち、若者たち。諸学生、学んでの幸い、遊んでの幸せ。さて、卒業論文、レポート課題、発表の下ごしらえにおいて、年のはじめを迎えるための、抜け目のない論理、有力な先行研究と文献、何なりとも欲しい物を手に入れようと、それぞれの知恵袋からひねり出し、探し出している。学生たちよ、学祭を終えてより、卒業・進級の胸算用油断なく、一日千休の大みそかを知るべし。それ、ここにも知恵をしぼる二人がいる。
国原キャンパスに建つ研究棟、その二階にある「日本文学国語学科共同研究室」にて、学科生が、課題の調べものに励んでいた。
「あ、あったあ。版本あったよう」
赤いパーカーの娘が、室内の書庫から出てきた。彼女は、背に『世間胸算用』と書かれた、薄い橙色の滑らかそうな表面の書物を小脇に抱えていた。
「夕陽ちゃんが言った通り、『近世』のところの西鶴コーナーに隠れていたよ。ありがと」
彼女は、メガネをかけた娘―夕陽がいる机に、本を広げた。机といっても、組み立て式の縦長の事務机を四台組み合わせたもので、女子二人が占領するには、充分にゆとりがあった。
「お役に立ててよかったわぁ」
夕陽は、手を合わせて柔らかく目を細めた。クリーム色のカーディガンが、彼女の持つ優しい雰囲気を醸しだしている。
「えっと、巻四の二だったよね……ここだ」
赤パーカーの娘は、開いた本の頁をいくつかめくり、目当てのところで手を止めた。そこには、「咸神院」と書いてある額をかけた鳥居と、提灯を持った者、松の木々と社に出入りする者たちが見開きいっぱいに描かれていた。
「本文の語釈をするのは楽しそうだけど、この、版本をレジュメに載せて翻刻する作業はめんどうだなあ」
翻刻とは、古典に記されている文字―ひらがなを崩して書かれた変体仮名(一般の人々はよく、みみずがのたうっているようなものだと想像している)を、今日われわれが目にしている文字に直すことをいう。もっとも、当時の人々にとって変体仮名は見慣れた文字で、わざわざひらがなに直す必要などなかったのだが。
日本文学国語学科の学生は、一回生の後半に翻刻と出会い、長く付き合うこととなる。翻刻ができなければ、日本文学を、特に古典を読み解けないといっても過言ではないのだ。なお版本とは、版画の要領で刷られた書物をいう。
「そうかもしれへんけど、版本と翻刻本との違いを比べてみるんも、作品をよう読むための一歩なんやでぇ」
気が進まない様子の娘に、夕陽はまるで妹を諭すように言ってあげた。
「うーん」
どうも納得しかねるらしい。
「うちも手助けするから、がんばろ」
「……うん」
ようやく聞き入れてくれて、夕陽はほっとした。この彼女は、入学式で声をかけて以来の友人で、今年の神無月から「日本文学課外研究部隊」で共に課外活動をしている。二人は活動を通して、現在では互いの本音を言い合える仲になった。
「とりあえず、コピーとらなくちゃ」
赤パーカーの娘はそう言って、ズボンのポケットに入っていた定期券ケースより、コピーカードを抜いて出入口横のコピー機に差し込んだ。
各学科の共同研究室に設置されているコピー機は、専用のコピーカードを入れてはじめて利用できる。コピーカードは入学時に学生へ配られ、返却期限(たいていは四年間)まで、利用する枚数をカードに入金して使い続けてゆく。たかがカード、と思うかもしれないが、されどカード。これ一枚無くては、資料をコピーできなくなり、発表・レポート・試験勉強もろもろをこなせなくなり、苦境に追い込まれてしまう。学生生活の命運を握る大事な物なのだ。
コピー機の上カバーを開けて、娘は『世間胸算用』の版本を読み取り面へ乗せた。
「ていうか、近松先生って、わりと厳しいよね」
「そうなん?」
「普段は、いっぱい青春しろだ、自由に学べだ言ってるのに、実際は容赦ないもん」
印刷開始ボタンを弾くように押し、赤パーカーの娘は夕陽の方に面を向けてコピー機にもたれた。
「青春、青春って言いながら、いろいろ注文つけて苦しませて……」
「まあまあ、そない言わんでもぉ」
愚痴こぼしをなだめながら、夕陽は心の中で驚いていた。彼女が時々何かつぶやくことはあるが、今日より雄弁なのは見たことがない。よほど内に溜めこんでいたのだろう。友は、大人しそうに見えて、辛辣なのだ。
「これじゃあ青春通り越し過ぎて玄冬だよ、まったくもって」
と、娘が言った途端、夕陽は大口を開けてわなないていた。
「どうしたの? 夕陽ちゃん」
「ふえ、あの、その、なぁ……」
あわあわ、と声をもらして、夕陽は彼女の横に手のひらを差し向けていた。その先には、屈強なおじ様が立っていた。
「ふむ、玄冬か。なかなか粋な表現だ」
『近松先生!!』
噂をすれば、影。この人こそ、彼女が物申していた相手だ。ここだけの話だが、彼女は先生に「うわ、出た」と前につけそうになったが、口からすべり出る前になんとか飲みこんで留めた。
「手を煩わせて、すまなかったね」
動揺する二人に対し、近松先生は堂々としていた。白髪と黒髪が、せめぎ合うことなく混じり、渋さを含んだ銀色を作り出しているのが、憎い。
「だが解っておくれ。これも愛ゆえになのだよ。青春を謳う諸君に、輝かしい未来を築いてもらうためにね」
自身で最も格好の良い姿勢をとり、近松先生が夕陽たちに流し目を送った。これが万人の女性を悩殺させる技か、と夕陽は思った。業平、源氏、世之介に次ぐ、現代の好き者、それが近松先生なのだ。
「む、胸やけがする……」
友には、刺激が強すぎたようだ。二回生になっても、まだまだ子どもなところがあるんやね。夕陽はこっそり微笑んでいた。同級生といえども、夕陽は一浪していたため年齢はこちらが上だった。そのせいか、ついついお姉さんぶることがある。
「ありがとうございます。うちたち、精いっぱい準備しますぅ」
近松先生にお辞儀をして、夕陽は片手でメガネを上げて笑顔を見せた。名前の如く、一日の疲れを癒す、優しい輝きを放っていた。
興に乗ったのか、近松先生は嬉しそうに、
「ははは! 大和さんと本居さんならば、完成度の高い発表をしてくれるだろう。期待しているよ」
人差し指と中指をぴんと立ててくっつけたサインを二人に送り、それでは! と風を吹かせるようなターンをして、共同研究室から去っていった。扉の向こうでは、先生の色気ある「ははは」がこだましている。ああ、なんとも憎らしい。
「……で、夕陽ちゃんは『奈良の庭竈』だっけ」
こだまが聞こえなくなったことを確かめてから、赤パーカーの娘は再び話しだした。
「そやで」
「私、そっち希望してたんだ。でも、かぶっちゃってジャンケンで負けて別のを担当することになったんだよね」
「『闇の夜の悪口』、ええやんか。けずりかけ神事の悪口合戦してるとこ、わいわい、やいやい言うてておもろいやん」
二人の話題にのぼった「奈良の庭竈」と「闇の夜の悪口」は、娘がコピーをとっていた『世間胸算用』に収められている。近世文学の代表作家、井原西鶴が著した「町人物」という、町人の実態を描いた作品だ。一年の決算日である大晦日をいかにして過ごすか、各国の町人が知恵をしぼっている様が、この作品に集められている。
「普通に読んだら面白いけど、発表だと楽しむ余裕ができないな」
コピーを終え、赤パーカーの娘は『世間胸算用』と翻刻する頁の写しを持って、夕陽の元へ戻ってきた。読書家の彼女は作品を純粋に楽しみたくて、講義の教材として読むことにやや抵抗があるもよう。
「そやったら、うちもやん。蛸と数の子、何の関係があるんか考えすぎてわけわからへんなってるんやけど」
ルーズリーフと資料を整理していた夕陽が、手元にあった「奈良の庭竈」の本文を娘に見せてあげた。頁の右側には、変体仮名が並びたてられており、左側には、松の木が生えた峠で四人の刀を持った男たちが、桶を天秤棒にかついだ男に寄ってたかっている挿絵があった。
「この暗峠のところが難問なんやよ。桶の中身が数の子て、謎やろぉ」
「えー。にやりとするところなのに。このオチが、いい味だしてるんだよ」
「うそぉ」
「嘘じゃないもん。嘘だと思うなら読んでみてください、だよ」
「もぉ、ふみちゃん、インスタントラーメンの宣伝やないんやからぁ!」
バシン! と夕陽が彼女の背中をはたいた。その有様は、全国で一番強いとされる人種「泰盤のおばちゃん」が、お昼のお茶の間で、テレビ新喜劇を見て大ウケしたときの反応と瓜二つだった。
「うっ、叩くことないでしょー」
患部をさする赤パーカーの君、ふみちゃん。花の女子大生・夕陽に、早くもおばちゃんスピリットが宿ってしまったのか。かつては天下の台所と称された泰盤に生まれ育った女性には、おのずから備わっているとでもいうのか。
「あっはははは、ごめん、ごめんやてぇ」
「んもう、夕陽ちゃんてばあ」
「あははははは」
「……ふっ、くくっ」
夕陽があまりにも大笑いするものだから、ふみちゃんにもうつってしまった。こんなありふれたひと言でさえ、娘たちには笑い飛ばせるのだ。笑った分、思い出が積み重ねられてゆく。学生時代の思い出は、きっと社会に出ても色あせず、再会した日の語り草になるはずだ。
喋っては本文を読み、本文を読んでは資料に線引き、また喋ってをルーレットのように回転させていると、いつしか室内は二人の貸し切り状態になっていた。
「あらま、もうこんな時間やわ」
事務助手席の壁時計を目にして、夕陽は小さく叫んだ。短針は五と六の間、長針は十一を指していた。いつもなら閉室時間を告げてくれる事務助手さんは、気づかないうちにあがっていったようだ。
「ふみちゃん、帰ろかぁ」
「そうだね。きりのいいところだったし」
ふみちゃんは夕陽の言葉にしたがい、パーカーに近い色のショルダーバッグに、筆箱やら文献やらを放り込みはじめた。
「今日は活動休みだから、けっこう調べる時間があると思ったんだけどなあ」
「四しばりやと、あっという間やねぇ」
「ほんとだよう、一回より忙しいよね」
講義が一時限から四時限までつまったことを、空大生は「四しばり」といっている。つまり、朝から夕方まで講義で拘束されている状態だ。学生にとって、講義は新たな知識を得られる貴重な時間でもあり、苦行の時間でもある。こんなことが、教員の耳に届いたらさぞかし肩を落とすだろう。または「けしからん!」と憤慨するかもしれない。
「勉強の内容が濃うなってるし、課外活動にも入って、充実してるわぁ。ある意味、リア充やな」
「ある意味……ね」
ふみちゃんが夕陽の「リア充」に知的な面白さをくみ取っていると、足元に二つ折りされた紙きれが、ふわりと落ちてきた。
「ん?」
拾いあげると、文字が透けて見えた。メモ書きだろうか。
「これ、夕陽ちゃんの?」
「はうわ! それ、うちのやわぁ」
うっかりしてたわぁ、と夕陽は、紙きれを恭しく受け取った。
「えっと、かなり大事なもの?」
ふみちゃんが訊ねると、夕陽はゆるやかに波打たせた髪を揺らした。
「小説なんやよ。母の教育実習先の生徒さんが作ったんやわぁ」
と夕陽ははにかんで、小説が記された紙きれを机に寝かせた。その側には、「Yuhi」のタイトルが入った三日月柄のノートが休んでいた。
「うちなぁ、小学生の時、人見知りが激しいて、よう友達と遊ばれへんかってん。母がそれを見かねてなぁ、これ読みぃて、貸してくれたんや」
「そ、そうなんだ」
ふみちゃんはまたひとつ、夕陽の中にある扉を開いた。この前は、無言で渡された交換日記からだった。ある諍いから、夕陽の友達でいていいのだろうか、自分は夕陽の友達だと思い込んでしまっていたのではないかと行き詰っていた時に、ノートに綴られた自分への思いが、ふみちゃんに光を与えたのだった。
夕陽ちゃん、昔は人見知りだったんだ。とてもそうには見えなかったんだけれど。初めから人付き合いがうまいと思っていたのに。そう、小鳥が木や電柱にとまるように、自然な感じで誰にでも話しかけられるから。
「読んでみる?」
つい内の世界に入りこんでいたら、夕陽がさっきの紙きれをもう一度手に取って、広げてくれていた。
「あ、ありがと」
私の思っている事、分かっているんだね。正直にいうと、ふみちゃんはこの紙きれを読みたくてたまらなくなっていた。彼女は、世に類無き読書家なのだ。文章という文章に出会わずにはいられない。そういうわけで、ふみちゃんは有り難く拝読させてもらうことにした。
庭の七竈
本朝のとある山奥に、小さな「にわ」がありました。その「にわ」には、ナナカマドがありました。「にわ」でいちばん長生きしている木でした。いまは秋ですので、ナナカマドには、ほのおのように赤い実がたくさんなっていました。
「えーん、えーん」
ナナカマドの下で、泣いている女の子がいました。まだ日もしずんでいませんのに、女の子はひとりでした。こんな時間ならば、子どもはおおぜいでむこうの広場で遊んでいるはずです。
「もしもしおじょうさん、どうかしたのですか」
ナナカマドは、女の子の頭をなでるようにして、細かいぎざぎざの葉をおろしました。
「どうしてひとりで泣いているのですか。わけを教えてください」
おじょうさんがびっくりしたら、どうしよう。ナナカマドはほんの少しだけこわいと思いました。じつは、ナナカマドは初めて人にしゃべってみたのです。長いこと生きてきたせいか、ナナカマドにはことばを使えるようになっていました。今日なら、人どうしがする「おしゃべり」ができるのではないかと、ナナカマドは勇気をだしたのです。
「おともだち、おともだちがほしいよう」
おじょうさんは、なみだを流して答えました。
「おともだちがほしいのですか。おともだちならば、広場にいるではないですか。あすこへ行って、声をかけてごらんなさい」
「できないの」
おじょうさんの悲しい声に、ナナカマドは、しゅんとしました。
「わたしは、このあいだ『まち』からひっこしてきたの。だから、みんな、こわいのがきたって、なかまにいれてもらえないの」
「そうだったのですか……」
「にわ」の人たちにとって「まち」は、まったくしらない、わからない、おそろしい所でした。「にわ」の子どもたちはおとなから、「まち」の人はこわいとおしえられてきましたから、「まち」からきた女の子は、子どもたちにおそれられていたのです。
「しくしく、『まち』にかえりたいよう。『まち』のおともだちにあいたいよう」
この子を助けてあげよう。ナナカマドはそう決めました。この子が「にわ」の子となかよしになれるために、がんばろうと思いました。
「おじょうさん」
「なに……?」
「ぼくは、ナナカマド。いま、おじょうさんがよりかかっている木です。ぼくは、あなたを助けたいです。あなたのなまえは、なんというのですか」
おじょうさんは、やっとなみだを引っこめて言いました。
「カズコ。カズコっていうのよ」
「カズコさんですか。すてきなおなまえですね」
ナナカマドの葉が、実とおんなじ赤い色になりました。カズコさんのことが、好きになったようです。ふわりとしたつやのある髪、「にわ」では見かけないきれいなお洋服が、ナナカマドにはお星さまのようにかがやいて、いとしくてみえたのです。
ナナカマドは、ますますカズコさんのためにがんばろうという気持ちになりました。
「ねえ、カズコさん。「にわ」の子たちは、みんなやさしくていい子ですよ。こわくないよと伝えたら、いっしょにあそんでくれます」
「むりよ。きのう、『あそぼう、わたし、こわいものじゃないよ』といったのに、石をなげられたのだから」
カズコさんの目から、また、大つぶのなみだがこぼれました。
「ああ、泣かないで。カズコさん」
こまったなあ、どうしたらカズコさんと「にわ」の子どもたちがいっしょに遊べるようになれるだろう。ナナカマドは、なやみました。泣いてばかりでは、いつまでもカズコさんはひとりぼっちです。カズコさんと子どもたちをつなぐ、なにかがあればよいのですが……。
「……ひらめきました!」
ナナカマドは、いくつかの枝をふって、じゅもんをとなえました。ナナカマドには、ことばをあやつれるほかに、おまじないもかけることができるのでした。
さいごのひとことをとなえおわり、ナナカマドはおとなしくなりました。それから、カズコさんにささやきました。
「ぼくからのプレゼントです」
ささやき声とともに、やさしい風がふきました。風はカズコさんのりょうてに、あるものをかけました。
「まあ、リボンだわ」
「幸せになれるおまじないです。これからまいにち、それを髪にむすんでいてください。心が明るくなって、良いことが重なるでしょう。そして、あなたのその明るさがまわりを元気づけて、あなたのまわりも幸せにつつまれるでしょう」
ナナカマドは、枝をのばし、カズコさんの右耳の上で、リボンをむすんであげました。すると、いかがでしょう。たちまちにカズコさんは笑顔になりました。
「ほんとう。むすんだとたんにむねがぽかぽかしてきて、光がさしてきたようだわ」
ちょうちょうの形をしたリボンをひらりとさせて、カズコさんはその場でスキップをしてみせました。
「この色、元気がわいてゆくわ。なんという色なのかしら」
「黄色というのですよ。いにしえより、幸せをよぶ色としてしたしまれておりました。あなたにとてもおにあいですよ」
「黄色、大好きになったわ。ナナカマドさん、ありがとう!」
すっかり明るくなったカズコさんは、広場のほうへかけてゆきました。しばらくすると、遠くで子どもたちのむじゃきな笑い声が聞こえました。「にわ」の子どもたちと、カズコさんの声でした。
「おまじない、きいたのですね」
ナナカマドは、赤い実を鈴のようにならして、ひとつあくびをしました。今日はよい行いをしたなあ。きっと明日には、黄色いリボンをゆらして笑っている、カズコさんに会えるだろう。そう思ってほほえみながら、ナナカマドは鳥が来なく朝までゆっくりねむりました。
「……やさしいお話だね」
文字のある面をそっとなでて、ふみちゃんは紙を机の上に置きなおした。
「せやろ。うち、このお話大好きなんや」
夕陽が紙を手に取り、照れた顔をみせて胸へよせた。ちょっとでも破れないように、大事に手で支えている様子から、よほどこの物語に愛着がわいているとうかがえる。
「初めて読んでから、どないしても欲しなって、わがまま言うてゆずってもらったんやよ。それからいつでも持ち歩くようになったんやわぁ。好きすぎて、今までずっとおまじないかけてるんや」
「だから、黄色のリボンなんだ」
ふみちゃんが夕陽の頭の右上を指さすと、夕陽はミュージカルの役者のように大げさにうなずいた。
「せや。これしてから、何があっても笑顔でいられるようになったし、明るうなって皆と仲良うなれたんやで」
「そっか」
黄色いリボンを身につけると、幸せになれる。本当だな、とふみちゃんは納得していた。夕陽ちゃんのそばにいると、なんだか落ち着くし、こっちも明るくなるものなあ。それは、おまじないの効果だけじゃなくて、夕陽ちゃんの持つ優しさ、思いやりもあるんだよ。やっぱり夕陽ちゃんは、素晴らしい。
しかし、ふみちゃんにはどうしても胸の中にこびりつくものがあった。『庭の七竈』を読んで受けた印象は、こうだ。あのお話は、誰かに読んでもらうために書いたのではない。作者自身のために生み出されたもののような気がする。あの作者は、どうにもできないしつこい苦しみから、自分を救おうとして作ったのではないだろうか。
「作者って、どんな人なのかな?」
ふみちゃんの想像としては、『庭の七竈』を書いた人物は、孤独な若者だった。寂しさを隠して本心を押し殺しながら生きている、鋭くもろい芯の持ち主だ。セピア色の夕暮れに染まった放課後の教室で、独り静かに、悲しみをおさえて筆を執っていた様子が、この作品から浮かび上がってきたのだ。
「どんな人て、なぁ…………」
夕陽は眉間に指を当てて、しばらく黙った後、頭を横にぶんぶん振った。
「うちも知らへんねん。母にしつこぉ聞いてみたんやけど、きまって「内緒や」て教えてくれへんかったんやよ。昔から大事にしてたもんあげたんやから、それくらい堪忍しいやぁ、て」
「そ、そっか」
作者が不明という物語は、なにも『庭の七竈』に始まったわけではない。古典作品にもしばしばみられる事だ。あの『萬葉集』にも「詠み人しらず」の和歌が入っているし、『竹取物語』や『平家物語』も著者の名は霧に包まれている。とはいうものの、ふみちゃんは是非とも書いた人の名前を聞きたかったようだ。作者を明らかにして、ようやく作品の価値が分かる。料理だってそうじゃないか。
「残念だなあ」
ふみちゃんが両の腕を伸ばすと、突然、耳元でけたたましい音が鳴りだした。
「ほえ!?」
音の元は、彼女の手首に付けた腕時計だった。
「ふみちゃん!」
「え、あ、はっ、はい」
夕陽に呼ばれて、ふみちゃんは腕時計の真横にあるボタンを押した。うるさかったアラームは止まったかと思いきや、その直後に、
『さっさと出やがれってんだ、すっとこどっこい無為徒食ふみかっ!』
アラームをはるかに超える怒号が飛んできた。
「は、華火ちゃん!?」
文字盤に向けて、ふみちゃんがひっくり返った声を出した。この腕時計、そんじょそこらの時計にあらず。これは無線通信機にもなる文明の利器なのだ。発明したのは、日本文学課外研究部隊の先輩で、メンバー全員が身に付けている。もちろん、夕陽もだ。
『単刀直入に言うぞっ。 事件発生っ、空満本通りの本殿側にデカいタコが暴れてる!』
「まゆみ先生のしわざだね?」
『そーだっ』
「せやけど、先生今日はお休みやないの?」
華火とふみちゃんの交信に、夕陽が割って入った。今日は金曜日。三人の顧問にして空満大学の准教授、まゆみ先生の研究日だ。用もないのに、なぜ大学の周辺に来ているのだろう。
しかし、華火はそんな彼女の疑問に答える余裕が無かったようで、
『問答無用っ、話は後だっ、いーから電光石火で応援に来やがれっ!!』
とだけ吐き捨てて、力まかせに通信を切っていった。
「……早く、行かなくちゃ」
通信機を付けた腕を下ろして、ふみちゃんはつぶやいた。仲間の危機を、見過ごすわけにはいかない。
「夕陽ちゃん、変身するよ」
「はいな!」
二人は目配せをして、うなずきあった。華火ちゃんとまゆみ先生を助けにいくんだ。ふみちゃんと夕陽の体が、自然と動いた。
「やります、やらせてください、やってみせるんだから」
共同研究室から、あの場所へ。それは、彼女たちが女子大生の殻を脱ぎ捨て、ヒロインに変わることを意味していた。ふみちゃんは鍵を握りしめて、夕陽とあの場所へ向かった。「二〇三」という表札がかかった、何の変哲もない空き教室へ。




