第九段:雨宿りの品定め(四)
「あの、安達太良先生! 少し訊いてもよろしいですか?」
宇治先生が「はい!」と元気よく挙手した。
「どうぞ」
「時進先生は、前から具合が悪かったのですか?」
素朴な疑問に、安達太良先生はちょっとだけ手間取った。答えられないわけではないが、改めて問われると返事に困る、という具合か。
「ええ……。今ほどではないですけれど、よく講義で『貧血が、貧血が』と仰っていましたわ。歩く姿は、浜千鳥さながらでしたわね」
日本文学国語学科の教員最年長である時進先生は、貧血を患っている。ひどい場合は、一週間寝込んでしまう。本人は、これ以上悪化しないよう、こまめに通院したり鉄分を補給したりして力を尽くしているらしいが……。
「忘れはしません必修科目の『国語学概論B』の三回目、教壇に立って五、六分で『もう倒れそうなので、今日の講義はここまでにします』と仰って出て行かれましたの。教室に入られた時は覚束ない歩みでしたのに、帰りは全速力でしたのよ。青白い顔で大きな辞書を抱えて……。それだけ走れるなら大丈夫でしょう、とかえって笑ってしまいました」
「自分の担当学年でも、似たような話を聞いた」
「いろいろ突っ込みたくなりますよね!」
「……うふふ」
突然、かわいらしい声が聞こえた。冷えた空気をもくすぐるような、笑い声だった。さて、誰のものか?
「あらー、森先生。ツボにはまってしまいました?」
「不謹慎だとは解っている。しかし……うふふふ」
小さなビーズを床にいっぱい転がしたかのように笑い続けている。凛とした顔が一気にほころんでしまったらしい。
「森先生が笑ったところ、この間の学科会議以来です!!」
「最後に近松先生が呟かれた掛け言葉でしょう? ふふっ、私も抱腹絶倒しましたわ」
「あはははは、また思い出してしまったではないか……うふふ」
森先生の目の端に、露ばかりの涙がきらめいていた。笑いの波が止まらないみたいだ。
「……主任が持ち込まれた書物の分厚さと、部屋の空調とを掛けたのである」
『あついな……』
「もう、二人して……うふふふふ」
安達太良先生と宇治先生による息の合った掛詞の再現に、月陰の美人はますますウケてしまった。言った本人たちも、盛大な笑いっぷりにつられて周囲をはばからず声を上げている。女三人寄ればかしましいとは、まさにこのことだ。
「ふふっ、ふふふ。時進先生たら、昔から分厚い本を持ち歩かれていましたわー」
「研究に愛が込められていますよね! さすがです!!」
「愛」のところを強調して、宇治先生は飛び跳ねた。一緒に中身の詰まった胸が、ほどよく揺れる。
「なぜ時進主任は、そのようなものを携帯されているのだろうか」
「そうですわね…。貧血ぎみのお身体を鍛えるためですとか、護身用ですとか、お仕置きのためですとか、様々な説がありますのよ」
偉大なる学科主任が持ち歩かれている一冊の本。文庫本や新書というレベルなどはとうに越して、少なくとも千頁はあるだろう重々しい書物を手挟んでいる。最近のお気に入りは自著『新日本語文法大辞典』で、石膏のように堅い表紙と金でコーティングされた頁が、主任の風格を表していた。
「有力な説は『枕代わり』ですわ。実際に使われているところを、何人もの学生が目撃したようですの」
眼鏡のおじいちゃんが、辞書らしき物に頭を乗っけて昼寝しているという話は、学内でしばしば耳にする。一時期は学生たちが真似をして、ブームになったこともある。
「辞書を枕にして、すやすや眠る時進先生ですか……、とてもかわいいです!!」
「失礼だが、自分も同感である」
宇治先生と森先生が、合わせて首を縦に振った。
「なんでしょうね、立派な方なのですが、近寄りがたいイメージがしないのですよ!」
「よく『日文のお父さん』と言われていたものですわ」
「柔らかい物腰だが、威厳がある。主任の地位に相応しいといえよう」
顔を見合わせて、三人はうなずいた。ちょうどその時、辺りがほんわか明るくなった。
「あ!」
いちはやく気づいた宇治先生が、屋根の下から出て外の様子をうかがった。
「雨、止みましたよ!」
構内がやうやう光を取り戻してゆき、再び秋の涼やかな空気が流れてきた。日文レディースが話に夢中になっていた間に、雨は通り過ぎていったようだ。
「では、私、授業に行って参ります!」
急ぎますよー! と、宇治先生は鞄の紐をたすきにして、A・B号棟へと一目散に走っていった。自らが起こした風で、漆黒のスカートを翻しながら。
「自分は、好色男に膝枕でもしよう」
流れ星のように去っていった宇治先生を見送って、森先生はゆっくりと退出した。胸の前で大切に抱えられたレモンイエローのスカーフが、日の光に照らされいっそう鮮やかに映えていた。
「さあて、カレーライスをいただきましょ!!」
安達太良先生も晴れ空のもとへ踏みだした。底の深いどんぶり鉢に高々と盛られた大好物を思い浮かべ、満面の笑みで食堂へまっすぐ歩を進めたのだった。
〈次回予告!〉
「風の噂で聞きましたが、夕陽さんは、小説をお書きになられているそうですね」
「そうです。でも、趣味で書いているだけですから、そんな上手やないですよぉ」
「クス。興味深いですねえ、一度読ませていただけませんか?」
「ふえええええええええ!!」
―次回、第十段 「庭の七竈」
「ごめんなさい。うちの小説、かなりひどい妄想がつまってて、とても読むにたえないものですから、また後日にぃ……」
「人に見せたくないほど素晴らしいのですか。ますます読みたくなりますねえ……」
「あかん、真淵先生の好奇心に火ぃつけてもうたぁ!」




