第九段:雨宿りの品定め(二)
「いったい何年前の話かしら、忘れちゃったわ」
懐かしさの余韻にひたる安達太良先生。しかし、彼女の目はどこか悲しげだった。覚えているはずが、すぐに思い出せなくなった自分に「老い」を感じたのだろうか。それとも、父親の笑顔が、自身の作り上げた「偽りの過去」では、と疑っているのか……。
「年を重ねると、思い出が曖昧になるものね……」
己の情けなさを込めて、つぶやく安達太良先生。濡れた部分が、ひんやりとする。さらに、止まない雨が作りだす冷気もあって、寒い。
「こんなに降られるなら、ストールぐらい巻いてゆけばよかったわ」
「もう、ひどいゲリラ豪雨です!」
知らないうちにもう一人、雨宿りに加わっていた。安達太良先生とは対照的で、黒が中心の服装をした女性だ。
「あらー、宇治先生ではありませんの」
「安達太良先生!」
声をかけてもらって、黒服の女性は目をぱっと輝かせた。
「お疲れ様でございます!」
宇治先生は直角をなすかのような礼をして、背筋をしっかり伸ばした。安達太良先生を簡単に包み込めるほどの大柄な体躯と、屋根との間がほんの数センチという身の丈が、存在感を漂わせている。
「お疲れ様です。ひどい雨ですわねー」
「そうですよね! この後、授業なので移動していたのですが……。いっぱい降ってきちゃいました!!」
肩に掛けた鞄からハンカチを出して、宇治先生は念入りに髪や衣服を拭いていた。特に力を入れて拭いていたのは、左腕に付けていた腕章だった。
「大切な伝統を、雨風にさらしてはいけないのですよ!」
臙脂色の布に、金の縁が上と下にかかり、地には「文学部日本文学国語学科」と金糸の刺繍がほどこしてあるというデザインは、空満大学が創設された時から変わっていない。
「とても、大事にされていらっしゃいますのね」
「はい! これに憧れて、空満大学で研究したいと思ったのです!!」
宇治先生は、慈しむように腕章の文字を指でなぞった。
「『日本文学国語学科の教員は、勤務中は之を須らく佩用すべし』、素敵な伝統じゃないですか! 他の学科には無い伝統です! ですけどけど、今ではもう、行事の際しか身に着けていません!」
「むべなりですわ。私が学生の頃は、先生方は常につけられていましたけれど、いつしか無くなってしまいましたわね」
恥ずかしながら、私も…… と安達太良先生は左腕をちら、と見た。
「先生を誇りに思いますわ。伝統を消さないために、ご自身で取り組まれているのですもの」
日本文学国語学科の教員は、安達太良先生と宇治先生を含め七人だが、腕章を毎日身に着けている者は、宇治先生しかいない。ついには、腕章が彼女の代名詞となり、学内で「腕章の女史」という異名が生まれた。
「ありがとうございます! 私、これからも精進して参ります!! 守りたい伝統ですから!」
宇治先生は両手にこぶしを作って、意気込みを示した。
「あ、ところで安達太良先生は、どちらまで行かれていたのですか?」
「あおぞらホールです」
「A・B号棟にある学生の交流スペースですよね!」
「ええ。そちらで、ひと勝負してゆきましたの」
「ひと勝負」と聞いたとたん、宇治先生は口を広げた。
「土御門先生との勝負ですね!?」
「ご名答ですわ」
「それで、今日はどちらが勝ったのですか!?」
鞄の紐を握りしめて、わくわくしている宇治先生に、安達太良先生は胸を張って答えた。
「もちろん、私の勝ちですわ! 投扇興で『夢の浮橋』を成功させたのが決め手でしたわね。おほほほほ!!」
安達太良先生は、片手を口元に当てて高笑いした。そして、空いている手の親指だけを折って「四」を表し、「今週で四連続の大勝利!! ですので、今日はカレーライス・青垣山盛りを四杯、いただきますわ!」
「ええええ!! 青垣山盛りって、ご飯八人分じゃないですか! それなのに四杯も頼まれるなんて、さすが安達太良先生!!」
ただただ目を見開いて、感嘆する宇治先生。元から驚いたような目をしているため、眼球が転がり出そうだ。
「ですけどけど、どうして投扇興なのですか? 他に坊主めくりや蹴鞠もされていると聞きますが、ほとんど投扇興ですよね?」
「おほほ、単純な理由ですわ。それは」
「勝負を仕掛けた土御門先生が、『雅』を求める人物だからである」
凛とした声が突如、二人の間に割って入った。
「傘を持っておらず、凌げる場所を探していたら、見知った顔がいるではないか」
桜色のシュシュで結わえられた肉桂色の長い髪に、橙色のグラデーションが鮮やかなワンピース。薄暗い自転車置き場を華やかにさせた、謎の声の主は―。
『森先生!』
新たに訪ねて来た人物は、安達太良先生たちの同僚だった。硝子玉の如き瞳が、まっすぐに先客をとらえている。片手には、たっぷりと雨水を吸わされたスカーフが垂れ下がり、雫を滴らせていた。
「大変でしたでしょう。どうぞ、こちらへいらして」
安達太良先生は、もっと奥に入り込むよう森先生に促した。
「失礼する」
「森先生、よろしければ私のハンカチをお使いください!」
宇治先生が、たたんでいたハンカチを広げた。
「申し訳ない」
ハンカチをおしいただき、森先生は気になるところを拭いていった。タオル製のため、ちょっとあてがうだけで水を取り除いてくれる。隣で安達太良先生は、スカーフをしぼってあげていた。




