第九段:雨宿りの品定め(一)
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澄みきった霜月の空に、薄墨色の雲がしのび寄る。やがて、雲が空一面を覆いつくして、一粒、また一粒と雫を地に落としていった。雫はだんだん増えてゆき、次のものが落ちるまでの間隔が短くなり、地表を湿らせていくほどになった。水音は激しさを帯びてゆき、雫の群れは豪雨へと変貌した。
空満大学でも、学生や教員が突然の雨に驚いていた。近くの棟へ駆け込む者もいれば、カバンやノートで濡れるのを防ぎながら遠くの目的地へと急ぐ者もいた。
「とうとう本降りだわ」
安達太良先生も、にわか雨の中を逃げ惑っていた。
「最近の天気予報ったら、あてにならないわねー」
丁寧に毛先を揃えられた短髪を濡らして、安達太良先生は雨宿りができる所を探していた。どしゃ降りのキャンパスを、ストラップ付きのハイヒールでコツコツと鳴り響かせた。
「ん、いいとこ発見!」
安達太良先生は、ちょうど目に入った屋根の下へ滑りこんだ。A・B号棟と研究棟を結ぶ道路の間にある、学生用の自転車置き場だ。
「落ち着くまで、ここに居させてもらいましょ」
そう言って、安達太良先生はひと息ついた。ここまで数分もかかっていないのに、上着の肩と袖がびしょびしょになっていた。元は真っ白だったはずが、雨水を吸って薄いねずみ色に見える。
「帰ったら洗濯しないとねー」
屋根の外は霧がかかっていた。大量の雨が作りだしたのだろう。人影ぐらいはかろうじてわかる。思いがけない天候の変化に、騒いだり不満をぶつけたりしている声が聞こえてくる。自然の恵みも、時としては迷惑なお届け物になるものだ。
「くるしくも 降りくる雨か 美輪の崎 狭野の渡りに 家もあらなくに……」
雨が降ると、安達太良先生は必ずこの和歌を口ずさんでしまう。『萬葉集』巻三・長忌寸奥麻呂が詠んだものである。安達太良先生は空満大学で『萬葉集』を研究していて、全て諳んじることができるのだ。もっとも、その大技は大学生の時点で体得していたそうだが。
「昔は、こんなには降っていなかったんだけど……」
車軸を流す、ではなく、壊すとたとえた方がよさそうな雨だった。近頃の世間は、かような異常気象が頻発している。一体、いつから気候が乱れるようになったのか。
安達太良先生は、ふと、幼い頃を思い出した。
子どもの私は、雨が何で出来ているかを知らなかった。そうね、神様がうっかりして、お空にガラス玉を落されたのだと真剣に思いこんでいたわ。雨のなか、お父様とお出かけしていた時、「ガラス玉が降ってきましたわ」と言ってみたことがあったわね。そうしたら、お父様がにっこり微笑えまれたの。お父様が、あんなに優しいお顔をされたのは、この時きりだったかもしれない。




