第八段:ナイロンの糸(四)
四
腐ったぬるい風に代わり、新しい土の香りを含んだ風が吹きました。私は、地獄から抜け出せたのでしょうか。
「唯音!!」
名前を呼ばれて、あいまいだった意識が、正常に戻りました。私は、空満大学へ帰ってきたのです。厳密に言いますと、研究棟の南口付近で仰向けになって倒れていました。そして、前には親友が、血の気の無い顔をしていました。
「きみえさん……」
「危ない真似して!」
頬に稲妻が落ちたような痛みが走りました。きみえさんに、平手打ちをされたのです。意味が分かりませんでした。きみえさんを怒らせるような事をしたのでしょうか。なぜならば、恐ろしい剣幕で私をにらんで……違う、涙……、涙を……流している。
「なんで……なんで飛び降りたのさ! 死ぬつもりだったの!?」
「…………?」
「二階から飛び降りたの! ありえない大きさの蜘蛛と! 唯音だけ地べたに落ちて、動かなくなってたんだよ!」
私は、すぐに研究棟を見上げました。等間隔に並ぶ窓のうち、一つだけガラスが割れて枠だけになっている物がありました。位置からして、二〇三教室でした。「スーパーヒロインズ!」の活動場所です。
「…………!」
現在に至るまでのいきさつを思い出しました。五限目、二〇三教室でヒロインの皆と「芥川を超えろ!! 河童イラストコンテスト」を行っていました。講評をしているまゆみさんの頭上から、そら豆大のクモが糸にぶら下がって現れたのです。虫が苦手なのでしょうか、まゆみさんは絶叫して気を失ってしまいました。すると、「あの力」がはたらき、クモを全長一メートルにまで成長させたのです。
巨大グモは私達に背を向けて、窓ガラスを突き破り真っ逆さまに落ちてゆきました。行方を追おうと窓の下をのぞきますと、クモが着地すると考えられる地点に向かって、きみえさんが歩いていたのです。私は衝動にかられ、窓を越えて、クモの後に続きました。
きみえさんを傷つけさせない、守りたい。私の中は、その言葉だけが反復されていました。装備していた空気ピストルを放ち、推進力を上げて、巨大グモに接近しました。
「消えろ……です!」
これまでに戦ってきた相手には抱くことのなかった憎しみを弾に乗せ、私はクモを撃ちました。クモを倒し、注意力が散漫になっていたせいで、受け身をとらないまま地上にぶつかりました。
「何度か声かけても、ぐったりしていたから、救急車を呼ぶところだったんだよ。でも、こうして息を吹き返して、帰ってきてくれた……!」
きみえさんが袖で濡れた顔をふいて、腰を下ろしました。
「私のために、命捨てないでよ。それで唯音がいなくなったら、どうすんの!? 守ってくれても、全然嬉しくない!!」
「ごめんなさい……です」
親友を、泣かせてしまいました。私は、重い罪を犯しました。あの地獄は、まゆみさんの作りだした世界ではなかったのですか。生死の境、というものだったのでしょうか。一般的に花畑や三途の川を見ると聞きますが、私の場合は、いきなり死後の世界でした。徳を積んでいない証拠、ですね。
「約束」
小指を曲げて、きみえさんが私にその指を近づけました。涙が消えて、普段の親しみのあるまなざしでした。
「約束、自分の命も大事にすること。破ったら末代まで殴りにいくから、覚悟して」
「はい……です」
私達は、指切りをしました。二度と、悲しませる事はしません。私の事を、大切に思っている人がいるのですから。きみえさんだけではありません、あちらの非常用階段から駆け下りてくる、緑色、白色、赤色、桃色、黄色の五人の仲間も、です。私には、蜘蛛の糸よりも太く、ナイロンよりも強いもので結ばれた人たちが、ついています。
「それは、絆……ですね」
「なんか言った?」
「いいえ……です」
早く帰って、『蜘蛛の糸』を読みましょう。不思議にも、何事もなかったかのように体が軽いのです。秋の夜長に、芥川。文学的な生活ではありませんか。きみえさん、待っていてください。次は、読み終えた状態で返します。そして、感想を聞いてもらえませんか。できるなら、他の本も、読みたいです。
「楽しみ……ですね」
お日様が、今日最後の輝きを放ちました。外はやがて入り相になるでしょう。
〈次回予告!〉
「宇治紘子です!」「安達太良まゆみですわ」「森エリスである」
『三人合わせて、日文レディース!』
「あの、私が先に言わせていただいて良かったのですか?」
「問題ない。この順序が適切だと考えたのだ」
「どのような順序か、気になりますわね。教えてくださらない?」
―次回、第九段 「雨宿りの品定め」
「至って単純、年齢が若い順である」
「ええええ!?お二人とも、私よりお若く見えるのですけど!」
「なお、平均年齢は……」
「森先生、お待ちになって! 公表してはなりませんわー!」
「不惑に近い、と言いたかったのだが……?」




