第八段:ナイロンの糸(三)
三
一本の糸が、頭上に広がる暗闇から下ろされていました。糸は細く、銀色にきらめいていました。私は、その頼りない命綱にしがみついています。足元には、底の見えない血の池が広がっていました。
犍陀多は、よく持ち堪えていたものですね。糸が無い間でも、血の池でもがきながら、地獄から出ようと抗っていたのですから。比べて、私は、絶望しないために、頭の中で思い出を再生していました。きみえさんが、最近読んだ本について話していたのです。独国の政府に捕らわれた作者が、長きにわたって虐げられていたにも関わらず、希望を持ち続けていたのは、思い出があったからだ、と。だから、つらい状況に置かれても、思い出があれば生き抜いてゆける、と。
きみえさんには、いろいろな事を教えてもらいました。日本文学の美しい表現、本から学んだ、人として生きるための知恵、大学に伝わる七不思議、おはぎがおいしい和菓子屋、空満でおすすめのサイクリングコース…………、挙げてゆくときりがありません。いつか私も、きみえさんに、私が知っている事、好きな事を時間の許す限り話してみたいと望んでいました。ですが……。
「もはや、叶えられない……です」
糸が、限界まで引っぱられてしまいました。つかんでいる者の重みに、耐えられなくなっています。糸を伝って、地獄からはい上がろうとする人は、私の他にもいたのです。血の池に溺れかかっていた数えきれないほどの罪人が、垂らされた糸にすがりついてきたのです。闇の先にあるだろう、清らかな極楽を目指して。
「犍陀多は、どうする……?」
罪人たちも後から追ってくる場面までは読みました。さて、犍陀多はどのような行動をとるのでしょうか。罪人と力を合わせて、皆で脱出するか。それとも、自分だけに与えられたチャンスのため、彼らを蹴落として一人で登り切るか。あくまで私が考えたものです。芥川龍之介は、これら以外の選択肢を用意していると思われますが。
刻々と、糸がよじれてゆきます。断ち切れるまで、一分もかからないでしょう。全員が助かる見込みは、0%に限りなく近いと計算できます。
「運が、尽きた……ですね」
ぷつり、という音をたてることなく、クモの糸は切れてしまいました。私と罪人たちは、宙に浮かされ、まばたきする間もなく下へ放り出されました。
重力に従わされて、一周、二周と、体を回転しながら、地の底の、底の方へ落ちてゆきます。私はこれから、業平様が言う「つひにゆく道」へ向かうのですね。
血の池に落ちると、どうなるのでしょうか。血液は水より濃度が高いですから、浸透圧の差が生じ、血の池との濃度を等しくしようと、体内の水分が出てゆくでしょう。つまり、私は血の池で、水分を抜かれるのです。抜かれた後の姿は、目も当てられない状態になるでしょう。空気が出てゆき縮んだゴム風船を、人体に置き換えると分かりやすいです。このような事態におかれても、理屈を唱えてばかりですか。私は、可愛げのない女子大生ですね。しかし、命がある以上、「つひにゆく道」は避けて通ることは不可能です。受け入れましょう。死は平等に、誰にでもいつかは訪れるのですから…………。
「それは、嫌……」
何が起こったのでしょうか。言葉が勝手に、口からこぼれ出ていました。まさか、とは思いますが、死を受け入れることを、私は望んでいない……?
「自分に嘘ついたらいけないよ」
きみえさんが注意してくれた、私の悪いくせ。まゆみさんたちとの文学の活動で、直したはずでしたが、そうではなかったようですね。正直に、なりましょう。胸に手をあてて、
聞いてみるのです。
私の本当の気持ちは…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………死ぬのが、怖い。
死ぬ、とは肉体が滅びてしまい、心を失ってしまうこと。生きること、存在することの終り。一度「私」が無くなってしまうと、二度と「私」が現れなくなる、やり直しができなくなる。今までに出会ってきたもの、こと、文学、人…………。私を「私」として認識できる全てが、ひとつ残らず消えていく………………。嫌です、消えたくありません。まだ生きていたいです。ここで終わりを迎えるのは、納得がいきません。死にたくない。まだ、あきらめたくない。存在していたい。頭の中が「死にたくない」でいっぱいになる。
「生きたい、生きたい……です」
怖い、消えるのは嫌。怖い、怖い、終わってほしくない。怖い、怖い、怖い、独りぼっちで、無になるのが、怖い―!!
「死なないよ」
天から、声がしました。優しくて、怖れを包みこむ、御釈迦様のような声です。
「死なないよ」
再び、声が降りてきました。かすかに、お日様のにおいがします。まとわりついた死の氷を解かすこの声を、私は、知っている。
「唯音は死なない。私が死なせない。唯音は私の親友だから」
闇の中から、人の腕が伸びてゆきました。サーモンピンクの袖からのぞく白くやわらかな手が、私を迎えていました。
「…………!」
私は、ためらわずに腕をつかみました。……あたたかい。凍らされていた体に、再び熱が生まれてゆきます。このあたたかさを持った人を、私は、知っている。
「………………きみえさん!!」




