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第八段:ナイロンの糸(二)

     二

 額田(ぬかた)さん改め、きみえさんとは、親しい仲になりました。学科は異なりますが、昼休みに二人で昼ご飯を食べたり、放課後は図書室で課題やレポートを手伝いあったりしました。たとえば、私の苦手な英語をきみえさんが教えて、きみえさんが苦手な数学を私が教える、というようにです。必修科目だった英語の単位が取れたのは、きみえさんが親切に教えてくれたからでした。一方できみえさんは、教職の資格に必要な、数学の教養科目をクリアできたのは私のおかげだ、と言っていました。拙い説明でしたのに、きみえさんは分かりやすいと喜んでくれました。きみえさんの笑顔に、私は、心の深いところが熱くなりました。


 きみえさんと過ごして、二年が経ちました。卒業研究に向けて、専門的な知識を身に付けてゆく時期に入りました。それぞれ、ゼミでの研究発表の準備や、去年よりはるかにも字数が増えたレポートに追われていました。しかし、忙しいながらも、私ときみえさんは顔を合わせては、ゼミでの出来事、先生の噂、新発売のお菓子についての感想などを、時間の経つのを忘れるくらい語っていました。


 夏が来たばかりの頃、いつものように語り合っていた中で、私は、きみえさんに『蜘蛛の糸』を貸してほしいとお願いしました。名前で呼び合いはじめた日にきみえさんが読んでいたあの本を、私も読んでみたかったのです。きみえさんは、「いいよいいよー」と許してくれました。私は、表現できない幸せな気分に満ちていました。『蜘蛛の糸』は、どのような話なのでしょうか。化学繊維にまつわるものでしょうか。クモ、糸、といえばカロザースです。聞いたことがありませんか。「クモの糸より細く、鉄より強い」とうたわれた「ナイロン」を世に出した化学者です。素敵なキャッチコピーまで作られたというのに、彼の生涯は無残にも……すみません、興奮してしまいました。『蜘蛛の糸』を借りたこと、でしたね。お願いをした次の日に、きみえさんが本を持ってきてくれました。夜通し部屋の本棚をあらいだして、日の出とともにやっと現れたのだと言っていました。私のために、ここまでして探してくれたことに、申し訳無さと感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。

 家に帰ってすぐに『蜘蛛の糸』を開きました。目次には、蜘蛛の糸、杜子春のほか、七つの題名が書いてありました。短編集のようですね。私は、はやる気持ちをおさえて、次のページをめくりました。

 本を前にして、三時間が経ちました。ページは、目次の次で止まったままです。居眠りをしていたのではありません。読めなかったのです。書かれているものから発せられた情報を、処理できなかったのです。講義で使うテキストや、論文よりも量は少ないはずなのに、この文章が何をいいたいのか、分からなかったのです。漢字とひらがなの組み合わせが、化学式よりも複雑に見えるのは、私だけなのでしょうか。しばらく文学にふれていないと、読み方を忘れるものなのですね。まだ明日がありますから、切りあげて就寝しましょう。

 ……と、明日をあてにしすぎたせいで、三か月半が過ぎました。ページは、読み始めた日から進んでいません。「ある日のことでございました……」が待ちくたびれたように、紙に横たわっているばかりです。きみえさんに、何とおわびをすれば良いでしょうか。おわびをしても、本人が貸したことを覚えていないかもしれません。あれから督促の声がかかっていないのですから。いいえ、あえて言わないようにしているのでは。きっと、五十年、六十年経っても、きみえさんは本を返せと言わないのでしょう。私を、信じているから。それならば、信頼に応えるまでです。

『蜘蛛の糸』を読みたい。きみえさんに応えたい。その一心で、私は文章を一文字ずつ拾ってゆきました。一文を読み終えるたびに、山の頂上に立った時の達成感と、気持ちよさをかみしめました。空いている時間に、独りで読んでいました。内容を想像するための休みをはさんで、一日あたり三行から五行をこなしてゆきました。


 雨がふりしきる日曜日でした。家族との会話の無い夕食を終え、自分の部屋に戻りました。誰も見ていないかを確かめ、鍵付きの引き出しに隠していた本を出し、机とクローゼットとの間にできた狭いスペースで、続きを読んでいました。ここは、死角にあたりますから、安心して読むことができるのです。私の家は、研究所の最上階にあるのですが、開放された気分になれない環境でした。母による教育の一環として、各個室の扉が外されており、家族が何をしているのかいつでも監視できる状態にあったからです。母の方針は、私が大人になっても、変わることはありませんでした。父は、母の言いなりですし、兄は、研究しか頭にありませんでしたので、家の実権は、母が握っているも同然でした。

 家族に気づかれる事なく、「御釈迦(おしゃか)(さま)は地獄の容子(ようす)を御覧になりながら、この犍陀(かんだ)()には蜘蛛を助けた事があるのを御思い出しになりました。」という文章まで読めました。さて、これからどのような展開が待っているのだろうかと、鼓動を高鳴らしてページをつまみましたら、ふいに影が覆いかぶさりました。顔を上げると、母が立ちはだかっていました。

「あなたは化学だけを学べばよろしい」

 母は、冷たい目つきで私を見下ろしていました。とても子供に対する接し方だとは思えません。実験生物を観ていることと変わりませんでした。

「文学にかまけていると、身を滅ぼしますよ。あの気狂いのように」

 そして母は、それだけを吐き捨てて去ってゆきました。途端に、私から光が失われました。灯りを消していないのに、暗く、置かれた物の色がくすんでゆきました。そうでした、私にはこの本を読める資格が、無かったのです。「気狂い」と言われた、家族の中で唯一大好きだった人が、気狂いになってしまった原因は、私にあったのです。

「返しに、いく……です」

 私は静かに本を閉じて、通学用の鞄に沈み込めるようにしまいました。それから、鞄を視界に入れないで、床に就きました。



「きみえさん、すみません……」

 明くる日、私は、『蜘蛛の糸』をきみえさんに差し出しました。それから、意を決して、伝えたいことを伝えました。

「やはり、私には、読めない……です」

 その言葉を聞いて、きみえさんは水を浴びせられたような顔になりました。そして、くちびるを、かすかに震わせて「あ」か「え」らしき音を含んだ息をもらしました。

「何か、あった……?」

 乾いた声で、きみえさんが訊ねました。とても心配しているようだったので、私は、本が読めない理由を話しました。

「そうだったんだ…………。ごめん、全然知らなくて」

 私の長々とした昔話を、きみえさんは最後まで、真剣に聞いてくれました。私は、きみえさんの気持ちにありがたく思い、本を渡そうとしました。ですが、きみえさんは本を受け取らず、私の方へ押し戻しました。

「まだ、返さなくていいよ」

「え……」

 思いもよらなかったことを言われ、戸惑ってしまいました。返さなくていい……? 読めないと、伝えたのに……、なぜ…………?

「なぜ、ってさ……」

 きみえさんが、本を持ったまま立ちつくしていた私の両肩をつかみました。

唯音(いおん)、この本をずっと読んでみたかったんだよね? 気になっていたんだよね? 本当は、今も気持ちは変わっていない。違う?」

「………………………………」

「自分に嘘ついたらいけないよ」

 細くとがった鉄のやりが、刺さったような衝撃を受けました。きみえさんのやりは、私の中で固く守られていた、弱い私に届いていました。

「お祖父(じい)さんを言い訳にしてさ、逃げていていいの?」

 私は、口をつぐんでいました。言い訳、ですか。当たりかもしれません。逃げているといえば、逃げているでしょう。ですが、私は、逃げているのではなくて…………、

「とにかく『蜘蛛の糸』は貸しておく。時間かかってもいいから、ちゃんと全部読んで。読まなかったら……」

 深く息を吸い込んで、きみえさんは、私に拳を突き出しました。

「遠慮抜きの全力で、殴らせてもらうから」

 ……気絶しそうになりました。前髪と鼻の先をかすめそうな距離まで、拳が来たのですから。しかも、きみえさんが今までに見せなかった、きつい表情をしていたのです。これは、混じりけのない本気、です。

「……と、マジな話はここまでにして」

 きみえさんは、いつもの優しい笑顔に戻りました。そして、いつもの声色でこのように言いました。

「パフェ食べにいかない?」



 大学と駅の間に伸びている「空満本通り商店街」に、「nation(ネイション) of(オブ) root(ルート)」という喫茶店がありました。駅に近いアーケードの、居酒屋と雑貨屋にはさまれた、壁にツタが伸びているお店です。底の深いグラスに詰め込まれたパフェが有名で、味の種類が多く、どれもおいしいとのことです。

 ガラス張りのドアを開けると、緑であふれていました。観葉植物が、不快にならない程度にたくさん置かれていたのです。きみえさんと私は、奥の禁煙席に座りました。

「限定の『おはぎ積み紫いもプリンモンブランパフェ』まだありますか?」

「ございますよー」

「やったやった。唯音は?」

 と、きみえさんがたずねたのですが、特に食べたい物が無く、ホットコーヒーでいいと思っていました。しかし、せっかくきみえさんが「一緒にパフェを食べよう」と誘ってくれたのに、コーヒーと一言で終わっては余りにもそっけないです。ですから、前置きとして「冷や奴乗せスナックいかフライ添え幻のフルーツグミ大盛パフェ」と言ってみたのですが、

「裏メニューですね。ありがとうございます!」

 どうやら、本当にあったようです。

「うそうそ!? 唯音、なんで知ってたの?」

「…………」

 適当に言った、とは答えられませんでした。好きな食べ物やおやつを並べたてただけです。ですのに、メニューにあったのです。それも普通ではなく、裏のもので。運が良いのか、悪いのか分かりません。ですが、

「あれあれ、唯音、笑ってる、笑ってるよー!」

 私は、きみえさんと同じ表情をしていたようです。

「嬉しいな。食べたかったパフェを食べられて、唯音が初めて笑ってくれて。私って、この世で一番、幸せ者だよ!」

 私も幸せですよ。と心の中で言いました。きみえさんが嬉しいと、私も嬉しい。気持ちが重なると、また、胸の奥深くで熱が生まれる。この熱の正体が、ようやく分かりました。親しい友へのおもひ……思いの火、なのですね。



 先ほどの思い出から、一首浮かびました。


  この味がサイコーだと君が言ったから 霜月十六日はパフェ記念日 


 これは、ある短歌を元にしました。既に詠まれた歌を下敷きにし、新たな歌にすることを「本歌取り」といいます。これも、きみえさんに教わりました。

 私が歌を詠むようになれたのは、きみえさんが、あの人たちに会わせてくれたからです。文学の世界に再び踏み入れさせてくれた、私の大切な仲間たち、「スーパーヒロインズ!」です。


「あ、あの、先輩が好きそうな本、見つけたんですけど、どうですか?」

 本が大好きな、ふみかさん。私にいろいろな本をすすめてくれました。自分から話をすることが得意ではないところ、似ています。ですが、勇気をふりしぼって、皆に声をかけているではありませんか。えらいです。


唯音(いおん)先輩、白菊て色が変わるんですよぉ。くれなゐににほふが上の白菊は、ですぅ!」

 何でも知っていて、思いやりのある夕陽さん。お慕いしている業平(なりひら)様の和歌や、物語について解説してくれます。以前、「東下り」の八橋を再現しようと、お菓子の八橋を使って

一緒に盛り付けをしましたね。


「姉ちゃん、あたしと遊んでくれーっ!!」

 私のいとこで、妹のような存在の華火さん。ヒロインになるまでは、人と接することが嫌いでしたが、今ではすっかりなじんでいます。ここに来て、たくさん笑うようになりましたね。叔母さんが、ハンカチをしぼって喜んでいましたよ。


「いおりんセンパイ、来週ノ寸劇ノ衣装デキたンデ、試着オ願イしマース☆」

 いつでも明るくて頑張り屋の萌子さん。裁縫と料理が上手なのが、うらやましいです。いつか頼まれていた「麗しのカムパネルラ」の改造、しておきます。師走にむけて、聖夜ソング再生機能とイルミネーション機能も特別に加えておきましょう。


「仁科さん、今日からあなたは、ヒロイン・いおんブルーよ」

 私達を指導してくれる、顧問のまゆみさん。先生とは思えないぐらい、型破りな人ですが、きっと、私達と同じ立場になって考えているからなのですね。やや迷惑なのは、何の予告もなく、解明できない現象を起こしてしまうところです。しかし、わざとではなく、まゆみさんに隠された力が、そのようにさせているのです。




 そして、今、私がいる場所も、まゆみさんの力によるものなのです。





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