第八段:ナイロンの糸(一)
一
ある日の事でした。……「ある日」、だと漠然としていますね。失礼しました。いつなのか、といいますと、三年と六ヵ月前です。つまり、私が大学一回生だった時です。季節では、うちなびく春です。
「うちなびく」とは、「春」の前につける言葉です。日本文学の世界では、このように後に特定の語が続く言葉を「枕詞」というそうです。誰かに教わったのか、はい。親友に、です。
さて、話を最初に戻しましょう。私が大学一回生だった時の事です。私は、空満大学の理学部で化学を勉強していました。空満大学は、家からの距離がほどほどに離れていて、いとこの家にも歩いて寄ることができるため、私にとって都合の良い所でした。
大学へは、電車で登校していました。紀元神宮前駅から盛畠駅を経由して、空満駅まで乗っていました。一回生は、一限目から講義がありましたので、朝早くに登校しなければなりませんでした。私は、慣れない早起きに苦しみながら、意識がぼやけたまま、7時台の急行電車に毎日乗りました。急行ならば、乗り換えずに目的の駅に着くのでは、と思うでしょう。ところが、そうはうまくゆきません。私が乗る急行電車は、空満駅へ直通で行けるものではないのです。路線が違っていて、盛畠で降りないと空満駅を離れて、鹿と大仏の街・内嶺まで行ってしまいます。不便ですね。いつか、空満行き急行電車を出してもらいたいです。
……と、ささやかな不満を抱きながら、盛畠駅で降り、地下通路を通って空満行きの電車が来るホームへと移動しました。ホームには、大学生や、先生らしき人、高校生が集まっていました。先頭車両が止まる所に近いほど、密度が高かったです。私は、二両目の所まで、人混みを抜けて進みました。二両目の方が、先頭車両よりも人にもまれずにすむからです。三両目から後ろに乗ると、今度は空満駅に着いた時に改札へ向かうための時間に無駄が生じてしまいます。安定した車両は、二両目です。覚えておくと、いつかは役に立つでしょう。
電車が来ました。人の流れに沿って、機械的に車両へ乗り込みます。私は、入った扉のすぐ右の座席、その前にいつも終点まで立っていました。座席には、決まって本を読んでいる女の人が座っていました。その人は、前髪を上げて額をあらわにし、サーモンピンクのジャケットをはおり、デニムスカートをはいていました。日によっては、ズボンの時もあります。ジャケットは必ず着ています。きっと、お気に入りなのでしょう。
その女の人は、文庫本を読んでいました。重しになりそうな分厚い物もあれば、中身があるのかと疑うぐらい薄い物もありました。最近読んでいる物は、多くもなく少なくもない量でした。
『蜘蛛の糸・杜子春』
このような文字が、ちらりと見えました。何と読めばよいのでしょうか。糸、はさすがに読めますが、その上の、「虫」がついた二文字が分かりません。糸と関係がある虫……、クモ、ですか? あくまで私の推測ですから、正解だという保証はありませんが。その下は、もっと読めません。人の名前、でしょうか。これも私の推測ですが、「もり こはる」さん、でしょう。同じ名字の人が、実家の研究員にいましたので。
もうひとつ、表紙から文字が見えました。……「芥川 龍之介」。この字は考えなくとも読めます。「あくたがわ りゅうのすけ」ですね。高校生の時、現代文で習いました。題名は忘れてしまいましたが、内容はそれとなく覚えています。若者と、死体から髪の毛を抜くおばあさんが登場するお話でしたね。
《次は~、透垣、透垣~》
車内アナウンスが、人のかたまりを飛び回り、私の耳に入ってきました。もう、あと一駅になりましたか。この女の人と本を見ていると、時間が早く過ぎてしまいます。それにしても、この人は嬉しそうに読書をするのですね。続きが気になってしょうがないというように、手をおどらせてページをめくっていくのです。私と同じ年代でしょうか。とてもいきいきとしています。同じ学科の人は、眠そうで、疲れた顔をしています。そう言う私も、その人たちと変わりないのですが。
女の人の観察も、終わりがきてしまいました。空満駅に着いたためです。私は、慣れた動きで改札へと歩いてゆきました。駅を出て、長い商店街をまた歩き、講義を受ける。帰りは、行きの逆のコースを歩く。その繰り返しが、常の事となり、私の体にしみついていました。明日も、そしてこれからも、卒業まで、ずっと。生きる、とは、何らかの事柄を反復すること、なのでしょうか。空満駅を降りると、時々達観したことを考えてしまいます。年老いている証拠でしょうか。いいえ、私はまだ成人していません。
「ねえねえ、君」
私の背中で、声がしました。私を呼んでいる? と思い、振り返りました。驚いたことに、声をかけた人は、あの本を読んでいる女の人でした。
「いつも同じ電車だよね」
「はい……」
怒られる、と覚悟していました。自分のことを見られていたのですから。私は構いませんが、普通は気分が悪いものです。ですが、女の人は読書をしている時と変わらない笑みを浮かべて、このように言ったのです。
「もしかすると一回生?」
瞬間、頭が空っぽになりました。空っぽ、といいますか、穴があいてしまったような感じがしたのです。予想もしなかった言葉が送られてきたことに、私は戸惑っていたのでしょう。
「……です」
そうです、一回生です。と返事をしました。ということは、この人も空満大学に通っているのだといえます。空満にある大学は、ここだけですから。
「そっかそっか! 君、一回なの!!」
女の人は、目を輝かせていました。ずっと探していた物を、苦労した末にとうとう発見したように。
「私も一回なんだー!」
女の人は私の両肩をつかみました。そして、「やった、やった」と喜びを表に出して小刻みに跳びはねました。私は、反応のしかたが分からなくなりました。観察していた人が、よりにもよって今日、私に近づいてきたのです。他人にここまで距離をつめられると、対応のしようがありません。得体の知れない人です。
「あ、ごめんごめん。こっちから自己紹介しないと」
私の心情を察したのか、女の人は手を離してくれました。謝ってから一歩ほど下がり、その人はまた、私に向かって手を出しました。
「額田きみえっていいます。所属は、日本文学国語学科。よろしく!」
この手は、握手をするために出したのですか。ならば、私も名前を教えなければなりませんね。
「仁科唯音、化学科……です」
私も、この人―額田さんがしているように手を出し、お互いの手を握りました。あたたかい。額田さんの手には、日だまりが住んでいるのかと思いました。なぜだか、落ち着きます。これと似たぬくもりが、昔、あったような……。
「ねえねえ、私たち、これから名前で呼びあわない?」
「お好きに、どうぞ……」
「じゃあよろしく、唯音!」
私と額田さんは、その日から一緒に学校へ行くようになりました。なぜ、「お好きにどうぞ」と言ったのか、今でも分かりません。額田さんに名前を呼ばれるのは、それほど嫌ではなかったのかもしれません。この人にだったら、名前を呼ばれてもいいだろう、と。おそらく、私は握手をした時から、額田さんに引きつけられてしまったのでしょう。私は、このあたたかさを、求めていたのです。家族にはない、寄りそえるあたたかさを。




