第七段:宇治(うじ)華(はな)の合戦(二)
二
「……受けなくていいのよ、夏祭さん」
まゆみ先生は、神妙になって言った。
「認めるも認めぬも、あなたは大事な隊員。私が沙汰するわ」
任せなさい、そう残して顧問が宇治先生を追おうとするところを、
「させてくれ」
華火が白い袖をわしづかみにした。
「どうして。言いがかりじゃないの」
「あたしが決めたことなんだっ。初志貫徹っ、見届けてくれよ」
「ダメ。納得いかないわ!」
「あいつはっ!」
力を込めて先生を引っぱり、叫んだ。
「金時は、あたしを眼中之釘にしてるわけじゃねえって思うんだ。あたしを、かわいそうなやつだってみてるってーか」
他の隊員は、口出しをせず聞くに徹している。
「要は、勝ちゃいーんだよっ勝ちゃ。あたし、辞める気ねえし。金時に、中途半端な気持ちでヒロインやってねえんだって、分からせてやるんだっ!!」
「夏祭さん……」
「あたし、金時とバトるっ! んで、全問正解して勝つっ!」
歯を出して、嵐をも吹き飛ばすくらいに華火は笑った。この場に絡まった緊迫の糸をぶった切ったのだ。いつも隊の雰囲気をからっとさせてくれる。
「っつーこった。てめえら、はなび様の武運を祈りやがれっ!」
尊大な物言いをしても、お姉様方はそれが「華火らしさ」だと容れていた。
「明日、予想問題ノート作ってくるわぁ。宇治先生が出題される傾向やったら、うち、まとめてるはずやから」
波打った栗毛と黄色いリボンをふわふわさせる、メガネのお姉様。ヒロイン一勉強ができる夕陽(本人は謙遜している)がついていると、百人力だ。
「本文を読んでおかなきゃ始まらないよ。後で図書室行こう」
赤いパーカーとポケットがいっぱいついたズボンのお姉様。頼りない隊長だが、読書家のふみかに図書室を案内してもらえば、本選びに迷うことはないだろう。
「採点さん、お蔵出ししておく……です」
モノトーンの服装で、男性に間違われやすいお姉様は、いとこの唯音。昔発明してくれた、からくり人形型自動丸付けロボットは、漢検の模擬テストで役立った。
「息抜キも必要っスよ! 萌子、きなこバナナチョコブラウニーときなこ豆乳スムージー毎日差シ入れデリバリーしマース☆ テスト前限定、与謝野家恒例メニューっス」
ムダに長くてきれいな黒い髪の、あたしはひっかからねえけど誰もが振り向く理想のモデル体型のやつは、偽名・萌子の与謝野明子。多趣味で料理も射程圏内だそうだ。わりとまともなもん作れるじゃねえか、華火は陰で感心した。
「へっ、あんがとなっ!」
時間は限られている。今日の活動はここまでにして、来週の対策をしよう! 大所帯となった柑橘の児らを持ち帰るため、乙女達は配りはじめた。
「先生、いよかんは」
ひとりまかり出でんとするまゆみへ、ふみかは訊く。
「私の研究室に、掛けておいてもらえる?」
乾いた声に、返せる者はいなかった。
「戸締まり、お願いね」
かき霧らす夜の雨を渡る霍公鳥のように発つ姿が、切なく感じた。靴音が小さくなっていっても、余韻は続いていた。
宇治先生の個人研究室は二〇六教室、二〇三教室と同じ並びにある。灯りがもれているので、在室だろう。
「いかがされたのです? 曇ったお顔をなされて」
眼前に人が現れた。気配も何も無いところから、急に。焦点が合わないほど、ぼんやりしていたのだろうか。
「あらー、真淵先生。これは失礼致しましたわ」
同僚だったので、挨拶を交わす。日本文学国語学科の専任教員、国語学担当の真淵丈夫准教授だ。
「宇治先生でしたら、共同研究室ですよ。書庫で熱心にお勉強、といったところでしょうねえ」
相づちを打ちつつ、まゆみ先生は考えていた。
なぜ、私の心を読み解けるのかしら。真淵先生は、千里眼をお持ちなの? 前ぶれもなしで間近にいらっしゃるし、もしや妖術の達人……?
「僕は存在感が薄く、生まれつき耳が良いのですよ。人には聞こえないものも、聞いてしまう弊害もありますが」
「そうですのー」
はぐらかしたわね。ダメ、ダメ、心をむなしうするのよ、まゆみ! 常に瞳を閉ざしてにこにこされているけれど、第三の眼が存在しているんだわ!
「あのお方、夏祭さんに果たし合いを申し込まれたようですねえ」
「おほ、おほほほほ、もう困ったお話ですわ」
「こうと決められると、ひた走る癖がありますから」
廊下で立ち話はいかがなものかと思われたので。真淵先生は共同研究室へ促した。
共同研究室は、教員と学生どちらも利用できる、学びと憩いの場だ。辞書・論文雑誌等、参考文献を収めている書庫、入学・着任時に配付される専用のカードを差せば使えるコピー機、履修登録・レポートや発表資料・卒業論文の作成に必須のパソコンといった、学生の本分を全うできる環境が整っている。また、少し休みたい時は、奥の応接間にしつらえたソファーでくつろぐこともできる。本学は少人数制の教育を行っているため、ここでは学生間、教員間、学生・教員間の交流が盛んだ。
「お疲れ様ですー」
常駐している事務助手が、朗らかに迎えてくれた。倭文野さん、結婚したてで、お嫁さんへの想いが洪水警報を発令している。ずんぐりしていて、まゆみの夫真弓春彦が親熊なら、彼は子熊のようだ。
「お茶、お出ししますね。えー、ご希望は」
「フルーツティーのオレンジをお願いします」「私は、アールグレイのストレートで」
倭文野さんが、執務机をどっかり離れて水屋のガラス戸をすべらせる。
「調べ物は当分続くでしょう。ひとつ、昔話でもいかがです?」
まゆみ先生を上座に腰かけさせて、真淵先生はクス、と浅く笑った。
ある所に、女子高生がおりました。以後、彼女の事は「少女H」と呼びましょう。少女Hは、田舎の公立校に通う、ごく普通の女の子……ではなかったのです。少女Hには、人間離れした足がありました。その足によって、体育の時間で次々と新記録を出したのです。長距離走・短距離走・ハードル走など、走る競技で彼女を超えられ方など誰もおりませんでした。ちなみに、少女Hが出した記録のひとつは、今日でも塗り替えられていないとの事です。
さて、話を進めてゆきましょう。そんなにも速く走れますのに、少女Hは帰宅部でした。おかしいですね。学校でいじめを受けているわけでもありませんし、一般の家庭ですからユニフォームやスパイクの費用で困る事はありません。では、なぜ? 陸上部が無かったからです。そもそも、彼女の学校には、部活動というものが置かれていなかったのです。活動をするに事足りる人数が無かったのですねえ。いつ廃校になってもおかしくない所に少女Hはいたのです。
ここで、少女Hが最高学年に進級して半年後に、転機がおきます。彼女の才能に目をつけていた教員が、少女Hにある提案を持ちかけたのです。「都市部の大学で、自分の同僚が陸上部で顧問を務めている。彼が君の実力を見込んで、特別に部員として加えてもらえるそうだ。ぜひ入ってくれないか」と。彼女の天恵ともいえる足を、小規模な世界でくすぶらせておきたくなかったのでしょう。その教員の熱意に応えて、少女Hは入部を決意しました。ようやく、実力を活かせる居場所を見つけた彼女は、大学生に交じって毎日トレーニングに励みました。部員の方は、珍しい後輩だと可愛がってくれました。褒めそやされてその気になったのですかねえ、少女Hは格段に成長して、しだいに頭角を現すまでになりました。
しかし、世間は苛酷にも、彼女にサクセスストーリーのヒロインにさせませんでした。彼女の才能が光れば光るほど、闇が浮き彫りになったのです。少々、遠回しな言い方でしたね。つまり、妬み嫉みです。ある日、少女Hはトレーニングに臨もうとした時に、物陰で部員が集まって何やら話をしているところを見かけてしまいました。彼女は子どもで、優しい心を持っていましたから、きっと先輩方は今日の練習について打ち合わせをしているのだと思っていたのです。少女Hは気にすることなく準備体操をして、スパイクを履き替え、トラックへと駆けたのですが…………。
「あなた、もううちに来ないでくれる?」
先輩の一人が、上がり込んだばかりの少女Hにそう言い放ったのです。驚いた少女Hは、何があったのか勇気を出して訊ねました。自分に非があるのならば、直そう。行いを正しくすれば、きっと和解できる。なんと希望に満ちた思考でしょう。ですが、先輩方は、彼女に対し冷たい視線を送るばかりでした。
「高校生で新記録を出してるからって、いい気にならないでよね」
「そうよ」「そうよ」
「自分は天才だとうぬぼれて、私たちの事をバカにしてるんでしょう」
「ねえ」「図星でしょう」
「あなたのせいで、やる気を無くした子がいるのよ」
「最低」「何様のつもりよ」
「顧問にどんな手使ったか知らないけれど、もう我慢できない。帰って!」
「帰りなさいよ!」「そうよ」「そうよ」
次々と先輩方に本心をうち明かされ、少女Hは、ごめんなさいとだけ言って、急いでト
ラックから去りました。彼女の心が受けた傷は、とてつもなく深く、痛々しいものだったでしょう。はじめは温かく迎えてくださったのに、どうして。私は、皆に憎まれていたんだ。私がいるから、皆があんなに怖い顔をするようになったんだ。私のせいだ。背伸びをしすぎたから、こんな事になったんだ ―!!
彼女は、自分を責めました。身のほどをわきまえずに、年上の人たちの中にどかどかと踏み入れてしまったことを。彼女は大学の広い敷地から逃れようと、これまでにない速さで走ってゆきました。ひたすら走り、校門までたどり着いたかと思えば、図書館に来てしまいました。……どうやら、彼女は出口とは反対の方向に走っていたようです。よほど心乱れていたのですねえ。一気に疲れがおりた少女Hは、休憩がてらに図書館へ入り、そこで日本文学と運命の出会いを果たしました。そして、大人になった彼女は、研究者として、日本文学という名のトラックを駆け抜けていったのです。めでたし、めでたし。
「をさをさ、めでたくありませんわね」
ティーカップを両手で包み、水の色を眺めてつぶやいた。
「少女Hさんにつきましては、あえてとやかく言うのはやめておきますわ。その昔話が、果たし合いの件に関わっていると?」
「ご名答です」
真淵先生はマグカップを片手に、演者のごとく大げさに起立した。
「あのお方は、夏祭さんを、過去の自分と重ねていらっしゃるのですよ。自分と同じような思いをさせたくないとでもお考えなのでしょう。おやおや、口が滑ってしまいましたねえ」
「夏祭さんを自分に見立てて、来し方の苦しみから救いたいだけですわ。思いやりの衣を着た、自己愛です」
笑顔を保ったまま、真淵先生はうなる。
「お気持ちはお察しします。ですが、安達太良先生。どうかご理解ください。あのお方も修羅の道のりを辿ってきたのですから」
書庫から、誰か出てきたらしい。応接間と学習コーナーは、ついたてで隔たっているため、ソファーにいては確かめられない。
「噂をすれば、ですよ」
日本文学課外研究部隊の顧問は、紅茶を飲み干し、学習コーナーへと回った。彼女は気づいていなかったが、事務助手がお盆をひっくり返していた。ろうそくの火が、風か吐息で消えたように、もうひとりの教員とマグカップがいなくなったのを目の当たりにしたからである。
「安達太良先生……!」
探していた人物は、本を二冊抱きしめていた。新日本古典文学大系『平家物語(下)』と、高校古典の教科書か。
「三本勝負は、取り消ししませんからね! 両者が同意した上で成立した約束です! たとえ安達太良先生でも」
「私の隊員が、夏祭さんを追い出すと思いますの?」
腕章の女史の表情が、一瞬、こわばった。
「あの子のためです。今は優しくしてもらっていても、いつかズレが生まれます。多感な頃にこそ、守ってあげないとならないのです」
「私達大人が決めつけるものではありませんわ。夏祭さんは、先生とは別の人間。生きてゆく道が異なります」
射止めるような視線を放ったが、宇治先生はひるまなかった。むしろ、にらみ返していた。
「……安達太良先生のような、周囲に恵まれた方は、人が忍ばせている暗さをご存知無いのですよ」
「ご自分の経験のみで、人を測るのは改めるべきですわよ」
「私の気持ちは、変わりません!」
頑固な同僚だ。そこまでして、夏祭華火の行く末を恐れているのか。
「明日も参ります。私も退けませんので」
宇治先生は、空いた手を胸に握りしめ、素早く背を向けた。事務助手が席を外したことを機会に、公の話をする。
「…………事務連絡を忘れていました。先生の研究室の本棚、上から数えて二段目、右から数えて六冊目に寄物陳呪がかかっています。例の案件に関する報告です」
「拝読しますわ」
課外活動もおろそかにできないが、日本文学国語学科へ舞い込んできた「ある仕事」にも取りかからなければならない。
―万の望みを叶える術。または、万の理を超えた奇跡「呪い」が、神無月より現在に至り、空満大学に騒ぎをもたらしている。まゆみ先生達は、呪いで引き起こされた現象を止め、行使者を捕まえる任務に駆り出されていたのだった。




