第六段:林檎ヨリモ美シキ(二)
二
空満大学国原キャンパスA・B号棟を出て、北へ直進すると横断歩道が見えてくる。そこを渡り、左手にあるは直方体の白い建物。研究棟、と呼ばれる施設は、形状から「豆腐」という愛称でも知られている。大学事務局、大学院、主要機関、教員の研究室、講義室が詰め込まれた、固めの豆腐である。
五階建ての二階に、二〇三番と割り振られた教室があった。「二〇三教室」、つい最近までは空き教室として扱われていたが、今年の神無月に入ってより、文学部日本文学国語学科主任公認の文学サークル「日本文学課外研究部隊」の拠点と化したのだった。
「ふにゃー、素晴らシキ朝ガ、ハードワークで全面陣取リさレテしマッたスよー」
ラメがかかった星やハートのステッカー(抜かりなく防水加工が施してある)で飾られた弁当箱の蓋を閉じ、与謝野・コスフィオレ・萌子は長机に身を預けていた。
「空気フルの愛機で潔ク格好ヨくサイクリングしてタラ、はなっちト図らズもコンビ組ンデ戦闘、一限ノ英語遅刻シてクリスたんニ英文デ理由書かサレOKモらっタラ二限ノ日文ノ基礎演ガ滑リ込みアウト、まゆみセンセにチョークミサイルさレテ蜂ノ巣落チ武者状態なんデス」
ヒドくないスか? と、誰でもいいから構ってくれのサインを発する萌子に、附属空満高校生の夏祭華火が、横目で呆れていた。
「ったく、だらしねえな。しゃあねえだろ、アレを止められんのはあたしらだけなんだからよ」
「ソレはアンダースタンド済みデス。デモ、センセに成敗サレるノハ理不尽スギっスよ! センセの力ノ暴走ヲ鎮メてルノ萌子タチ『スーパーヒロインズ!』っスよ!? ネ、ふみセンパイ?」
呼ばれた赤いパーカーの女子は、昼の読書にふけっていた。暦は霜月、秋を過ぎても彼女にとっては年中「読書の」が頭に付くのだ。
「ふーみーセーンパーイ」
萌子に両肩を猫のように丸めた手でつかまれ揺すぶられ、
「う、うわ、な、何?」
ふみセンパイ―大和ふみかは落としかけた文庫本(赤地に黒の格子模様の布製カバーがけ)をなんとか守って大胆な後輩に体を向けた。
「朝ノ戦闘っスよ。研究棟前ロッキーロード事件☆」
「燻製した鱒の山椒がどーだかこーだかふみかが詳細説明してくれたやつ」
懸命に背伸びをして、萌子の肩越えに華火が補足する。
「ああ、井伏鱒二『山椒魚』だね。まゆみ先生が土御門先生との対決で負けちゃった罰で、大山椒魚の黒焼きを食べさせられて発動したんだっけ。先生、岩まで降らせちゃうなんてね……」
日本文学課外研究部隊の顧問、安達太良まゆみ先生は、不可思議な現象を「引き」起こす「特別な力」を持っている。まゆみ先生は、十二年前、あの世へ行った父を生き返らせようと、先祖の神・アヅサユミに望みを叶えてもらった(父は拒んで黄泉へ戻ったのだが)。しかし、命を操ることは「人を外れた行い」であったため、先生は償いとして「特別な力」を得てしまったのだ。山の神である白猪が封じていたはずが、解けていて、先生ご自身が制御できなくなる始末。どうやら特殊な力を有していることは、本人はご存知じゃないらしい。
先生がいらっしゃる所に、『萬葉集』の野守が現れるわ、『徒然草』を基にした鼎をかぶった人々が徘徊するわ、『伊勢物語』の和歌を取って季節を無視した満開の桜を咲かせるわなど、日本文学に関係したものを現実に喚び出している。
「猪さんと戦って落ち着いたかと思たら、健在やったんやなぁ」
窓際に寄せられた白板のそばで、マーカーを手にしていた本居夕陽が重みを持たせて口にする。
「持病と似ている……ですね」
夕陽に向かい合って座っていた仁科唯音が、四人が耳をそばだてなくとも拾える音量で話す。白板に書かれた「アップルパイは英国製、タルトタタンは仏国製」「タルトタタンは失敗から生まれた逸品」「陣堂の某カフェのタルトタタンはおいしい」をメモに取り終えて、満足していたところだった。
「これからも付き合っていくゆうことやねぇ。安達太良先生とうち達ともども」
白猪は、力を暴れさせているまゆみ先生に、永遠の眠りにつかせる呪いをかけた。先生の命を救うため、ふみか・唯音・華火・夕陽・萌子は神無月晦日に猪と決闘をし、倒して、まゆみ先生を無事目覚めさせたのだ。
なぜか、今二〇三教室に集っている五人の乙女が、特別な力が起こした現象を止められるのだ。幸か不幸か、まゆみ先生が活動のために縫いあげた、戦隊物と放課後アイドルを掛け合わせたユニフォームをまとって。日本文学課外研究部隊の別名「スーパーヒロインズ!」と名乗って、先生が生んだ不思議と戦う日々を送っている。
「いつか、終わる日が来るのかな」
ふみかのひと言に、皆が何とも返せなくなっていたら、扉を一回、小突く音がした。噂をすれば、か? ふみかと夕陽、萌子の三人が属する日本文学国語学科には、専任教員の誰かについて喋っていたら、その先生が登場される「お約束」があるのだ。しかし、まゆみ先生はあまり門を叩かない。堂々と開けて入ってこられる。
「……どうぞぉ」
どなたか存じませぬが、とりあえず応じてみよう。礼儀正しい優等生、夕陽が訪ねてきた者に声をかけて、入室を促した。
「やあ、お嬢さん達」
白髪混じりで銀光りしている頭(近頃は、ロマンスグレーと世間は呼んでいるのだとか)のおじ様が、来られた。精悍かつ色気のある顔に、壮年だが鍛え抜かれている身体。体格に合ったブルーブラックのスーツ、手入れされた空色のシャツと適度に締められた青いネクタイが、おじ様の「男たるもの」を最大限に表していた。
「うげっ」「わ、わあ……」
人見知りの華火は、露骨に気味悪がっており、ふみかは面識はあるも、脂っこい物を無理にお腹に入れられたみたいな感想をもらしていた。
「お嬢さん……!!」「ふえ、なんで顔真っ赤にしてはるんですかぁ」
常に冷静なはずの唯音が激しく反応し、このおじ様に慣れている夕陽は「嘘やろぉ」と先輩に驚く。
一人だけ、ものすごく友好的に出迎えていた。
「近ちゃんセンセー☆」
二次元であればハートに置き換えられそうなまなこをして、萌子がおじ様センセへ跳びはね抱きついた。
「アイ・ミス・ユー☆」
「ははは、毎週『日本文学概論B』で逢っているでないかい。与謝野さんは寂しがり屋さんだなあ」
近ちゃんセンセは、拒まず萌子を抱き上げる。あらかじめ断っておくが、いかがわしい行為ではない。卑近な例を挙げると、お盆かお正月で集まってきた甥っ子姪っ子に「あんたえらい大きゅうなったなー!」の決まり文句を言いつつ高い高いをしてやるようなものだ。これは双方の合意の下でなされており、決して女子大生に対していやらしい行為をしているのではない。決して。
「おい、変態のおっちゃん」
華火が、ふみかの服の裾をつかみながら吠える。
「私、かね?」
「てめえ以外にいるわけねえだろっ。やらしい面で乱入してきやがって、あきこに乱暴狼藉はたらいてよっ!」
おっちゃんは怪我せぬよう、足が地に着くまで萌子を支えて降ろしてあげた。「はあ? 萌子だし、本名言うなし、バーカバーカ!」と腕をぶんぶん振られていたが、屈強な彼には訳ないことである。
「ポニーテールのお嬢さん、君は誤解をしているよ」
色っぽい笑みのまま、ふっと息をつき、おっちゃんはきっぱり言った。
「私は、変態でない」
華火は口をめいっぱいとがらせ、
「帰れ、ド変態のおっちゃんっ!!」
教室の外を指さして、お客さんを追い出そうとしたところに、
「おほほほほ、ごめんあそばせ!」
矢のごとき速さで、白いスーツを召したご婦人が飛び込んできた。ご婦人は、自身と背丈と体格があまり変わらない華火を軽々と脇に手挟んだ。
「離せっ、おくさままゆもぎゅ!?」
「奥様もとい、安達太良まゆみですわ!」
いたいけな女子高生の口を手のひらでふさぎ、日本文学課外研究部隊の顧問は大きな声ではっきりと正しき名前を仰った。
「私の隊員であります夏祭が大変失礼極まりない態度をとってしまいまして、申し訳ございません。これぞまさしく、乱暴狼藉ですわ。後で、いいえ可及的速やかにしこたま言い
聞かせますから、どうか何卒お許しくださいませ。おほほほほ!」
「いや、構わぬよ」
おじ様は、広く厚みのある胸を開いて、何もかも許した。
「夏祭さん、と言ったね。怪しませてすまない。しかし、その喋り方は可愛い容姿に似合わぬなあ……勿体ないよ」
「ひぎっ」
まゆみ先生の腕の中で、華火は鳥肌が立っていた。
「それと、私は近松初徳であって『変態のおっちゃん』でないよ。姓・名好きな方で呼んでくれたまえ」
あだ名を付けられていたおじ様、近松先生は十八歳の少女に流し目を贈る。
「さあ、呼んでみたまえ」
「おうよ……」
あごを動かし、首を傾けた末、華火が出した結論とは。
「エロ松っ!」
『!!』
女子大生四名が、一斉に目を丸くする。ふみかは至言だと思い、唯音は親戚の突飛な行動に敏感になっており、夕陽は教員に対する非礼にはらはらし、萌子はセンセフリークとしてこの後の展開を期待していたのだった。
「こるぁ、夏祭さん! いい加減になさい!!」
「……好い」
『!?』
今度は、まゆみ先生と華火が仰天した。明らかな罵倒であるのに、近松先生は悦びに満ちていたからだ。
「好いね。年頃のお嬢さんに蔑まれるのも一興。女性には、神秘が尽きぬ。夏祭さん、いま一度その名で呼んでおくれ。いや、幾度でも呼びなさい!」
「蛟竜毒蛇っ、こいつムリ、不気味スギてムリっ!」
「怖がるでない、受け入れておくれな。私はいたぶられる役にもなれるのだよ。夏祭さん、恥じらわずに、さあ」
なまめかしく手招きする近松先生。嫁入り前のおなごには、刺激があまりにも強かった。
「まゆみ、助けてくれーっ!」
「やだもう、隠れないでちょうだい! 私だって、いみじく怖いんだからあー!」
実は嫁入り後であるまゆみ先生も、同僚の新たな趣味へのめざめを垣間見てしまって腰がひけているのだ。ちなみに、安達太良は旧姓、戸籍の上では「真弓まゆみ」である。
「ははは、はは、ははははは。遠慮は要らぬよ。安達太良さんも、さあ。女子高生と人妻に罵られる……最高でないかい!」
「戯事は、即刻止めるのである」
暴漢となりかけた色男を制したのは、凜々しき美女であった。ゆるやかにカールされた長髪をシュシュでまとめ、レモンイエローのスカーフを首に巻き、橙色のグラデーションが華やかなワンピースを着こなした大人の女性は、
「森君……!」
「貴方は、度の過ぎた人」
「…………すまない」
森エリス、まゆみ先生と近松先生と同じく、日本文学国語学科の教員だ。
「森先生のおかげで、助かりましたわー!」
右腕で、まゆみ先生は額の汗をぬぐった。華火はというと、いつの間にやら顧問から解放されて、母方のいとこである唯音の陰で様子をうかがっていた。
「自分の不注意で、日本文学課外研究部隊に迷惑をかけた。失礼した」
論文を音読するように、お詫びの言葉を告げる森先生。百合の花を思わせる美貌を持っているのに、感情が読みにくく、冷たい印象を与えていた。
「近ちゃんセンセに会エルだけデもラッキーなんデスけド、『陽向の安達太良』ト『月陰のエリス』ノ、ドリーム共演マデ! 萌子、今宵ハ眠レまセン☆」
「え、独自の枕詞?」
「ふみちゃん、知らへん? 『陽向の安達太良、月陰のエリス』ゆうんは、お二人の綺麗さを讃えた日本文学国語学科の学生用語やよ。太陽のまぶしさが安達太良先生に、月のさやけさが森先生によう当てはまってるやろぉ」
「そ、そう……かも」
書物を介して、ふみかは「まだ見ぬ人」の元へ足繁く通っているが、年の近い学生との交流は乏しい。また、「美」について彼女の知るところは浅く、興味が薄いため、顧問らのどういうところが良い感じなのか、つかめていなかった。少なくとも、母親と比べたらおしゃれなのは確かだと認識しているけれども。
「さて、仕切り直しといこうかね。今日は演劇部『ゲスタンニス・アイナー・マスケ』の顧問として参った、近松だよ」
「副顧問、森エリス」
恋の手本も教えそうな好色な教授と、悲恋の舞姫よりも戦の女神が由来に適切な准教授が一対となる。つかず離れずの距離が、ふたりの貴き間柄を物語っていた。
「日本文学課外研究部隊に、助力を願いたいのである」
「前の件は、忝い。諸君には此度も頼ることになるのだが、なに、手間はかけぬよ。ここはひとつ、聞いておくれでないかい」
近松先生の仰る通り、日本文学課外研究部隊は演劇部に依頼を寄せられたのは、初めてではなかった。前の件とは、先月、D号棟に巣くう(とされていた)亡霊の正体をヒロインズが暴き、退治した事をいう。
「ラップ音のやつかっ。松えもんが大の化けもんぎはむぎゅ!?」
「おほほ、近頃の若人はわんぱく者で手を焼きますわー」
最年少のヒロインを片手で黙らせるまゆみ先生。犯罪の香りがしそうな呼び名を、未来からきた便利なロボットみたいなものに変えていた点は許せた。だが、大の男が怪異を怖れている点を当人の前でばらすわけにはいかなかった。元教え子の立場から、仕事における後輩の立場からの敬いもあったが……そこにいらしている硬派な好色男は、体躯に反してとてつもなく繊細な心の持ち主なのだ。
「D号棟に平和が戻って、さぞや脚本作りがはかどりましたでしょう。今週末の大学祭、先生の最新作を演劇部が演じられるのでしたわね。いとゆかしですわ」
さりげなく話題を変える。華火よく見よ、これが大人の対応なり。
「うむ。主題の『恋』はぶれずに、趣向を凝らしてみたのだよ。刀も筆も、時に新たな技を試みるべきだからね」
「劇に関しては、問題は無い。しかし、映像に関しては」
森先生の区切りに合わせてか、たまさかなのか、二〇三教室の扉がためらいがちに鳴らされる。
「失礼します、であります」
萌子が踊るように歩み出て開けてあげると、貧弱そうな少年が背を丸めて立っていた。
「ひっ、与謝野さん……!」
「へにゃ?」
猫背の少年は、長からむ黒き髪の少女に過ぎた驚きをみせていた。
「島崎、こちらへ。後の説明を任せる」
森先生の簡潔な指示に、島崎なる少年はおどおどしながら従う。
「島崎戒であります。日本文学国語学科一回生、演劇部では学祭の映像企画に携わっているであります」
無造作そうで清潔感を意識した頭髪、度の強そうな眼鏡、アイロンを欠かさずかけているのであろう立て襟の白シャツに、デニムのズボン。雑誌か番組で勉強して女子に好印象を持たせようとしているつもりだが、いかにもな文学青年の装いであった。
「小生共が出演する『進撃の革命児』に、ゲスト参加いただきたいのであります!」
分度器をあてがえば、直角を示すのではないかというお辞儀をする島崎。
「実行委員に提出する期限が、明日なのであります……。小生の不手際で、頓挫させたくないのであります、御隊が頼みの綱なのであります、ご協力お願いしますであります!」
五人の隊員は、ひたすら頭を下げる演劇部員に胸打たれたのか、
「旱天慈雨っ、やってやらあっ。なっ、ふみか」
「そ、そうだね。かなり困ってるみたいだし」
「うち達にできるんやったら、お手伝いするでぇ」
「文学PRの、参考にする……です」
「人助けハ、我助ク☆ 空満神道信者ノ心得デス。ヘルプ行きマース☆」
快く引き受けてくれた。
「ははは、好い返事をくれたようだね」
腕組みして、色っぽい目を細める近松先生の傍らで、森先生が事務連絡を行う。
「では、本日の十六時三〇分、国原第二体育館に集合いただく。撮影が順調であれば、十七時に解散する。島崎、他連絡事項はあるだろうか」
「服装はユニフォームでお願いしますであります。持ち物は特にいらないでありますが、館内は案外暑いので、水分があると快適であります」
きちんと伝えるべき事柄を伝えているのだが、妙にうわずっている。先ほどから島崎は、特定の人物と視線が合うたびに、そわそわしているのだ。
「ほへー」
彼の心をかき乱しているなんてつゆ知らずな萌子は、個性的な相づちをうっていた。
「では、よろしく頼むよ。して、島崎君」
部員を小姓のごとく呼び寄せて、近松先生はたくましい腕を彼の肩に回した。衆道にも通じていたのか。残念ながら(?)、それは断じて違う。
「女性に頼み事をするのなら、これぐらいは言っておかぬと」
野暮ったい少年に、男の指導を耳打ちするためだった。島崎の顔面は真っ赤になるも、直ちにほとぼりを冷まし、稽古の成果を早々に活かしてしまったのであった。
「そんな気障な口説き、できるか! …………であります」
「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき」
研究棟の中庭で、円い溜め池を背に、森エリスは詠う。
「前にさしたる花櫛の 花ある君と思ひけり」
「藤村の『若菜集』かね」
妖艶に咲く百合の君に、近松初徳が恍惚としたまなざしを向けて訊ねる。
昼休みはとうに過ぎ、学内は三限目の講義が始まっている。水曜のこの時間は、日本文学国語学科の教員会議だった。会議といえど、上る案件は少ないものであり、実質十五分でお開き、後は茶話会になっていた。
近松とエリスも、常はお茶をいただいていたのだが、エリスが散歩をしたいと申し出たため、今日は辞退したのである。近松は、有能で美しき部下がねだる「散歩」とは、この中庭に決まっていることを把握していた。
職務の都合で八年も行動を共にしてきたのだよ、互いの思いは、わずかな言葉からでもくみ取れるさね、と彼は自負していた。
「其は、或る学生の悩みを表したる詩―」
「島崎君かい。うむ、青春している。甘い淵に堕ちてしまったのだね」
エリスは、普段は固い語調を用いているが、本当は、風雅な語調で遊ぶ方が得意だった。本朝人の父と独国人の母との間に生まれた彼女は、独国で育ち、本朝の国語は海を渡ってきた詩集で学んだ。結果、趣はあるが難解な口調になってしまい、頭を抱えた父親が急ぎ家庭教師を本朝の大学から派遣し、教育し直した。家庭教師は変わり者だったので、学術雑誌を教材にして与えられ、ゆえに極端に相反する物言いを体得したのだった。
「初恋……か。私の出逢いは、いつだって初恋さ」
「三七四三度の初恋、うふふ、貴方の恋は、褪せを知らない」
溜め池の周りを、ゆったりとステップを踏み、エリスは再び詠う。
「恋は熱 恋は光 冬の闇に籠められし旅人を 春の野へ歩ませる―」
「うむ、好い出来でないか。放課後は、面白くなりそうだ……!」
ひと巡りしたエリスへ、近松は手を差して迎える。貴婦人を舞踏へ誘う紳士よろしく。
「なお、私の恋は三七四四度目だよ、森君」
エリスは、月明かりのような仄かな笑みを浮かべて、勧誘を受けた。




