第六段:林檎ヨリモ美シキ(一)
一
肩を過ぎ越し黒髪の 岩垣の間より見えしとき
前に携えたる夢杖の 愛ある君と思ひけり
やさしく長き手をのべて 光をわれにあたへしは
撫子色の装束に 人こひ初めしはじめなり
小生は、只今、闇の中にいる。
もののたとえでは無い。言葉通りの意味である。自ら望んでこの暗闇へ踏み入れたのでは無いという事も付け足しておこう。
只登校していただけだった小生に、巨大な岩が、続々と落ちてきたのである。岩で牢獄が形成され、小生は囚われの身となった。何も盗みはしていない、誰も殺めてはいない。空満王命にも、お天道様にも、恥じぬ行いをし、「明るきくらし」を送っていたはずが、
なぜ、このような仕打ちを受けるのであろうか。己を見つめ直せ、との教祖様からのお導きなのであろうか。
とりあえず、生きていて幸いである。当たり所が悪ければ、今頃は齢十九の若さにて此の世を出直していたであろう。なぜ、小生が拘束されねばならぬのだ。何たる災厄であることか!
健全な男子であるならば、このような岩壁、打ち砕くなり、押し出すなりして、己の力で脱出せんと動くべきである。しかし、言うは易く、行うは難し。生憎、小生は生まれながらにして小食、米飯はお茶碗一杯、味噌汁一杯、焼き魚一尾あれば足りる。体格は貧相、馬穴一杯の水を運ぶだけで、玉のような汗を流し、険しき山道を走らされるが如き疲労に見舞われる頼り無き男。
では、素直に助命を求めればよろしい、と思うであろうが、ここで喚き叫ぶという行為は、至極見苦しい。小生は、只岩の牢にて、立ちつくすのみの木偶の坊であった。
飢えて骨を晒してしまおうか。取るに足らぬ小生を悼む慈悲深き者がいるならば、悪くは無い選択といえよう。夢でした、というオチになってもらいたいものだが、本当に起こった出来事である。現実逃避したところで、打開できる訳あるまい。八方塞がりなこの状況を、流行の言葉で表すとすれば「詰んだ」状態なのか。積まれた岩に、人生詰んだ。はは、駄洒落かい。
小生は、虚しき笑いで腰まで抜けて、へたり込んだ。
「所詮、小生の生き様は下らぬものでありますよ」
「下らナイ生キ様ナド、コノ世にアリまセンよ☆」
天上より、乙女の声と光が降り注がれた。小生を覆っていた岩のひとつが、何を以てか解らぬが取り除かれていたのだ。日射しとは、体温の上昇を感じさせるほどに熱く、目を瞬かせるほどに眩しいものであったのか…………?
光を遮るためにあげた手の、指の間より見える物は―。
「天…………使……………………?」
長き髪を朝風にそよがせ、袖からスカート、ソックスまでメルヘンチックな格好をした少女には、羽が生えていなかった。生粋の空満神道信者と雖も、天使の出で立ちくらいは
知識として頭脳に入っている。衣服は白ではなく、桃色……いや、もっと可憐な、だがしなやかな花の色だろう。常夏と呼ばれていたか、それは別名だ、もっと少女に相応しい、愛らしい、撫でたくなるような名前が……思い出せぬ、喉元まで出かかっているのだが。もう良い、小生には、確かに寸の間見えていたのだ、少女の背に、汚れの無い、純白の麗しき翼が―!!
「サア、出ルっスよ。無辜ナル青年サン☆」
差し伸べられた手を、小生は躊躇せず受け入れた。
闇から引き上げてくれた黒髪の乙女を、小生は生涯、忘れはしないと誓う。
「天使の少女でありますか……」
A・B号棟学生ホールのカウンター席で、小生はスケッチブックを広げて、終始うなっていた。今朝出会った少女を絵に残したく、喜び勇んで鉛筆を握ったは良かったのだが、スケッチブックは依然として白紙のままである。画材が悪いのか。メカニカルペンシルは小生の筆圧では芯が折れやすく、飛んだ芯を探して後で捨てに行くことに気が散らされてしまうので、主な筆記用具は鉛筆と定めていたのだが。鉛筆は、削ったばかりの物は細い線が書きやすく、使い続けて平らになった物は塗りに適している。色付きも携行しているが、黒の線が、潔くて、脳内で配色を何パターンか想像できるので、鉛筆は黒でよろしい。
「画力の問題でありますよ」
コミックイラストであれば、自由に心の赴くままに描けるのだが、実在の人物を絵にするとなると、目にした姿をそのまま紙に写し取るのみ……それが難しいのだ。単純な作業に見せかけて複雑な手法を求められ、リアルに近づけようとすればするほど、小生のなまっちろくて細い首が絞めら、
ピト。
「冷やっこい!」
頬に突然押しつけられた物に対し、率直な感想を述べた。寒くなってきたこの頃に、何たる悪戯をするのだ! 「純水♡蜜りんごサイダー」だと!? しかも冬季限定!?
「うっす、ザキさん」
「浦島くん……おはようございますであります」
張本人は、清涼飲料水を擬人化したようなさっぱりした男であった。思考と行動にタイムラグが生じない性分のため、エナメル加工された運動部御用達のバッグをテーブルへ放り、小生の右隣にあった丸椅子を引いて腰を下ろす。足を使って椅子を動かす雑さは彼には無い。虐げられた海亀を労るように、両手で優しく天板を持ち、脚を浮かせて動かすのだ。半袖半ズボンのジャージ姿とこの丁寧さとのギャップが、女性を虜にするのであろう。
「ザキさんよー」
「どう致しましたでありますか」
「自主休講しといて、どー致したかこー致したかってどころじゃないっしょ」
ジシュキュウコウ、ぐ、ぐぐ、小生の胸に刺さる文字だ。その表現だけは遠慮いただきたかったのだが、彼に禁止を申し出る権利など、小生が握っている訳も無し。彼は思っている事を表の意味のみで言っているのであって、決して悪意は含まれてはいないのであり云々(うんぬん)。
「英語、ザキさんいないもんだから、テキストどっからか分からなくなってジョニー大ピンチだったぜ。もち、俺らも!」
飛び出そうに目を剥いて、ミスターシマザキオヤスミデス、ワタシコマリマスネーとその時の状況を浦島くんが再現する。似ている。超くりそつ。ジョニー・パイレツ・サザンガク先生も面白いが、浦島くんの先生ものまねシリーズ最強は、宇治紘子先生だ。出席簿の読みあげと教壇から落っこちそうになる所作を、完全コピーしている。頼まなくてもやってくれるので、機会があれば聞いてみるとよろしい。
「大変申し訳無いであります」
「落ち込むなって。エスケープしたくなる日もあるんだしさ。ほい、プリント。いつも公欠でノートコピーさせてもらってる礼よ。あと、キンキンだったサイダー」
「ありがとうございますであります」
講義プリント、頭から抜け落ちていた項目であった。落石と黒髪美少女の件で、学生の本分を一時的に忘れた結果だ。浦島くんが持っていたから助かったが、もし自分で入手するとなれば、講師室へ行くのか? ジョニー先生いらっしゃいますか、と入っていける勇気が有れば容易なのだろうが、そのような屈辱的な行為はできれば避けたい。休んだ理由が胸を張って言えるものでは無いからだ。ジョニー先生に、オオーウ、イエース、ガールフレンドデスネーリアジュウデスネーハッピーネーと祝われ、小生は「色惚け男」のレッテルを貼られ……恐ろしい。浦島くんが水泳部のエースで助かった。
もくもく浮かんだジョニー先生を振り払うため、もらって間も無い蜜りんごサイダーのキャップをねじり、喉へ刺激を送り込む。
「そうか、画伯の血が騒いでたんだ」
おほうっ! スケッチブックが彼の手に渡っている! 許そう、これが初めてではあるまいし、彼は小生の趣味を理解する希少な友だ。
「だけどできてないじゃん? 無がアートなの? あぶり出しかブラックライトで絵が現れる系?」
「違うでありますよ。描けなかったのであります」
「ザキ画伯スランプか……で、何描こうとしてたよ?」
「…………朝日と共に降りてきた天使」
「ほー」
よく解らないが興味はある、といった返事だ。小生は、彼の素直さを大層気に入っている。大半が「キモく」思う小生の言動や趣味を、傾聴し、広き器で受け止めている。容姿も性格も良しの陽キャラが、ステータス中の上だと思い込むおそらく中の下もしくは下の上の陰キャラに絡んでいるとは、奇跡ではないだろうか。
「詳細を聞こうか、同志」
おまけにカツ丼が付きそうなシチュエーションだな。近い、鼻と鼻が触れあいそうな距離だ。小生は後ろへ引き、休講に至った経緯を交えて天使について供述した。
「岩の雨ってガセじゃなかったのか。噂じゃ隠滅されてたみたいだけど。そっちはおいといて、天使なんだけどさ、ザキさん、それって」
休み時間でホールがざわめく中、小生の心臓が鳴る音がどういう訳だかちゃんと聞き取れていた。
「与謝野ちゃんじゃないの?」
与謝野さん……学籍番号二五二一一〇三八番、与謝野・コスフィオレ・萌子さんか。同じ日本文学国語学科、同じ一回生、学籍番号後半組だから基礎体育や英語、日本文学基礎演習、国語学基礎演習は別のクラスで、あまり話す機会が無い、あの、与謝野さん。
「新歓合宿で、マキハオタクを公表してたコスプレ大好きっ娘、でありますよね」
「うんにゃ」
小生世代が幼稚園児に、女子の間でごっこ遊びされていた「絶対天使 ☆ マキシマムザハート」略して「マキハ」。ごく普通の中学二年生、鳳あきこがひょんな事から愛の神の使い・マキシマムザハートに変身して魔法で悪魔の手先・愛無キ者を浄化していく王道の魔法少女ストーリーだ。原作コミック連載開始と同時に放映され、社会を巻き込んだ大ヒット、無印・F・U・ユニバース・アークエンジェルスの全五部の長編シリーズとなった、伝説の作品だ。
「最近、日文のサークル入って、ハートに近いユニフォーム着てるじゃん。天使といやあ、絶対天使、絶対天使といやあ、与謝野ちゃんっしょ」
「そう……でありますね」
「こりゃあ運命の出会いじゃないの? ザキさんもマキハ好きっしょ。ずっと前から語ってみたいってザキさんめっさ言ってたじゃん。とりあえずさ、人違いでもいいから、その節はどうもーって入って、マキハの話をしてみ?」
「接点あまり無いでありますよ、不審に思われやしないか心配であります」
もし、女性に嫌われてしまえば、小生は発狂するであろう。血縁関係にある女性は別として。中高生の頃、女子の集団が遠くでちらちら汚らわしい物に対するような視線を送ってくるだけでも、胃が締め付けられたものだ。
「いけるって。感謝されてヤな気持ちになる人間はいない! 俺の経験ね。与謝野ちゃん、ひとりでいること多いし、笑ったらかわいいのにさ、ムスってしてるじゃん。きっと、自分の世界をわかってもらえる人がなかなかいなくて、つらいんだよ」
浦島くんは、悲しげに眉と唇を曲げ、すぐにまた明るい顔になった。それから、小生の肩をがっしり組み、
「ザキさんならいける。マキハ好きでつながって、画伯の渾身の傑作を見てもらって、ついでにモデルになってもらって、天使を描きあげる! どうっしょ!?」
「モデルでありますか……おふ!」
いけない、小生としたことが、立った勢いで椅子を倒してしまった。
モデルだ! 小生、肝心要な任務が遂行できずにいたのだった。演劇部新入部員の初舞台、定例の特別ゲストをスカウトせよと部長に命じられ、キャンパスを走ったが、度重なる交渉決裂、部長に土下座、最後のチャンスを戴くも、実行委員会への映像提出締め切りは……明日!
「ぎりぎりで生きてしまって癪でありますが、島崎戒、賭けに出るであります」
「なんか……元気高まりー! っていう? いいけど……さ」
人差し指で、足元を見よと示す友。ばつの悪そうな、歯切れのよろしくない言い方をする。はて、小生に問題でも?
「サイダー、こぼしてんだけど」
床に、小さき泡を鏤めた液体が勢力を伸ばしていた。林檎の実を意識して着けたのであろう薄い黄色が、同化して只の炭酸水だと錯覚させられている。甘くて酸っぱい、果物由来の香りが、男二匹にお構い無く漂っていた。




