第四段:ねてもさめても(二)
二
大騒ぎさせてしまって、うちは逃げるように図書室へ入った。
「唯音先輩、先ほどは大変失礼いたしましたぁ……」
閲覧席に腰かけてから、やっと落ち着いてものを言えるようになったわぁ。熱を帯びた頬も、だんだん常温に戻ってきた。
「気にしないで……です」
眉を一ミリも動かさんと、先輩が静かに仰った。今のうちとは正反対で、血の気の無い顔色や。せやけど、先輩の顔色が良くないんは、元々やから心配せんでも大丈夫やわ。
「驚かせたのは、私……です」
「いえいえ、先輩こそお気になさらずに」
「いいえ、夕陽さん……」
「先輩のせいやないですよぉ」
『………………』
二人で交互に「ごめんなさい」ばっかりしてたら、しまいには何も言えなくなった。謝り合戦を繰り広げると、どちらが悪いんか分からへんようになって、もう止めたなってくるんやなぁ。人類の英知が集まる場所で、こないなことを……恥ずかしい。
「そのぉ、どなたに書くおつもりですか?」
沈黙の壁を、頑張って崩した。ごく自然な風で訊ねてみたつもりなんやけど、ストレートやった?
「『伊勢物語』の、業平さま……」
袖の先をしきりにつまみながら、先輩がボソリと答えはった。はぁ、在原業平さんなんですかぁ。その前の『伊勢物語』、が気になってもうたわ。ハズレやないんやけど、正解にはでけへんねんなぁ……。
『伊勢物語』いうのは、平安時代ごろに書かれた物語や。一二五段のお話すべてに和歌が詠まれているから、「歌物語」というジャンルに入ってる。問題なんは、主人公・男(昔男ともいうわ)の正体。幼なじみからお年寄りまで、いろんな女の人と和歌で想いを交わしあった男は、色好みですばらしい歌詠みの在原業平がモデルと考えられているんや。せやけど、『伊勢物語』で詠まれている和歌の全部が業平のものやないから、男が百パーセント業平やと言い切られへんねん。
でも、先輩は『伊勢物語』を「在原業平が主人公の物語」やって信じ込んではるみたいやわ。ここはやっぱり日本文学を専攻してる立場として、きちんと説明せなあかんと思うけど、今は後回しにした方がええかもしれへん。近いうちに『伊勢物語』の寸劇するから、その時にお話しようか。
「それで、業平さんのどんな所が好きなんですかぁ?」
「いかなる人でも、平等に愛する所……です」
えらいシンプルにきましたねぇ。うちやったら原稿用紙五枚分は語ってるわぁ。簡潔にまとめられてて、ええなぁ。
「そうですかぁ。でしたら、今仰ったことそのまま書いてみてはどないです?」
「それを、書くのが、難しい……」
一フレーズ終えるごとに、先輩の頭が下へ下へと段階を追って机に近づいていった。だいぶ悩んではるんやなぁ……て、悩んではるから相談しにきてるんやんかぁ!
「あぁ、すみません。どうしましょ……」
うちのアホ、バカ、鈍感!! 唯音先輩が、業平さんへの思いを書こうて真剣に考えてはんのに、無神経に答えて! うちは、文章を書き慣れてるけど、先輩は違うんやで。どないしたら、書きやすうなる? 『伊勢物語』の業平さんへ、ラブレターを書くんやったら……。
「先輩、一番好きな章段は何ですか」
「六十九段……ですね」
「特に心に残った場面て、ありますか?」
そう訊ねてみると、先輩のまぶたが瞬時に上がった。そのままスッと席を立って、真横の「9門・日本文学」て札が差してある棚へ行きはったんや。あ、いきなり「9門」いわれても分かりにくいなぁ。ちょっと説明させてもらうけど、図書館の本は大きく十種類に分類されてて、0から9の番号があてられているんやわぁ。分類には総記や宗教、歴史などがあって、そのうちの「9門」は、「文学」を意味してるんやで。
「見つけた……です」
先輩は、棚の下段から一冊を慎重に抜き出してこられた。白いハードカバーで、ずっしりとした本や。金文字で「竹取物語・伊勢物語・平中物語・大和物語」て書かれてあった。
「心に、残った場面……」
慣れた手つきでページをめくっていきはって、
「最後の、和歌を交わした、ところ……です」
探してた章段があるところを開きはった。
『伊勢物語』の六十九段は、伊勢が舞台や。題名の由来やないかて言われてて、特に素晴らしい話と評価されてる有名な章段や。
狩りの使として伊勢へ赴いた「男」と、神様に仕える皇族の女性「斎宮」とのわずか三日間の恋。男の人と関係を持ってはいけない斎宮が、男と出会って禁を破ってしまうんや。そして、男とお別れの日が訪れて―。
……夜やうやう明けなむとするほどに、女がたよりいだす盃のさらに、
歌を書きていだしたり。取りて見れば、
かち人の渡れど濡れぬえにしあれば
と書きて末はなし。その盃のさらに続松の炭して、歌の末を書きつぐ。
またあふ坂の関はこえなむ
とて、明くれば尾張の国へこえにけり。
「どう思われました?」
「…………………」
唯音先輩が、胸元のボタンをいじりはじめはった。上手に表せる言葉を探してるみたいやなぁ。
「なぜだか、涙が、流れた……です」
本をいったん机に置いて、先輩はつぶやかれた。
「また逢おう、その言葉が、心にしみた……です」
そう仰って、ページのある部分に触れはった。白い指先が、男が詠んだ和歌の「またあふ坂の」にちょうど重なってた。
「それが、禁じられた、恋であっても、斎宮を想う心は、本物…………」
懸命に六十九段について語られる先輩。安定した声に、涙がほんのり交じって幽かに震えてるんが聞きとれた。思っていることを言おう、言おうて頑張ってはるんが、かなり伝わってきたんや。
「『男』と、書いても、私には、業平さまのことしか、思えない……です」
「唯音先輩……」
先輩はずっと、ページの同じ所をなぞられていた。細長い円を描くように、優しく、ゆるやかに。なぞる指と、お顔を見て、ピンときてしもうたんや。
本気で恋、してはるんやな。
根拠は無いねんけど、そう感じとれたんや。だって、うちも似たような気持ちやから。この人が好きや! て真っ直ぐに突き進んでるんやよ。どないもでけへんぐらい、「好き」が加速していくんや。
「ええやないですか」
「……?」
「業平さんを好きやいう気持ち、うち、よう分かりました」
男・業平さんへのひたむきな恋心と、混じりけのない愛。うち、そんな唯音先輩を応援したい!
「本当……ですか」
「とにかく、文章にしてみましょう。先輩が思てはることを素直に伝えるんですよ」
「解った……です」
考えるよりも、書く! とにかく実行あるのみですよ。書いてみな、始まらへんもん。思いに任せて、ペンを走らせるんです!
ペンケースのファスナーを開けて、うち達は、ラブレター執筆に取りかかった。
「業平さんに、一筆申しあげますよぉ!」
人の目を気にせんと、うちと先輩は黙々と思いを綴っていった。見かけた人は、たぶん、勉強してるんかレポート書いてるんやと思てる。やけど、うち達は、大学生の本分よりも大事なことをやってるんや。
唯音先輩がこれまでになく熱くなって、カリカリ、ガリガリとノートに文字を刻んではる。左のページには、数式や化学式が呪文のように細かく、きれいに並んであった。
うちは、先輩の文章をときどきのぞかせてもらって、ルーズリーフに添削の例をちょこちょこ書いてた。ラブレターがより素敵なものになるように、うちなりのお手伝いをしてたんやよ。
「難しくなかった……ですね」
ページの中段にきたところで、先輩がつぶやきはった。お話しする前よりも、えらいすっきりしたお顔をされてる。ずっと抱えてて、煮詰まってはったんやね。
「夕陽さんの訂正、とても、参考になる……です」
「そうなんですかぁ。ありがとうございますぅ」
まだまだ拙いんやけど、ほめられると嬉しくなるわぁ。もっと頑張ろ!
「あれま。先輩の文房具、ぜぇんぶ青色で揃てはりますねぇ」
机に出てるもんだけやなくて、ペンケースもやし、そこに入ってるもんまで青やった。どちらかていうと、淡くて明るい方やな。正しくいうんなら、露草色。
「青、私の好きな色……」
ペンのキャップをつついて、先輩は優しそうな目をした。
「合うてますよね。誠実な感じが、唯音先輩にぴったり」
「そう……ですか」
先輩が、ちょっと照れくさそうに微笑んではった。初対面やったら読みとりにくいかもしれへんけど、確かに笑ろてる。
「夕陽さんは、黄色、似あっている……です」
うちが着てたカーディガンに手を向けて、先輩はうなずいた。握ってたシャープペンシルも黄色やったのも、気ぃついてはったみたい。
「黄色、好き……?」
「好きですよぉ」
「リボンの色も、同じ……です」
「そうなんですぅ。おまじないですかね、いつでも明るくいられるように」
あるきっかけで、黄色をどこかに取り入れるようになった。そしたら、いつのまにか心が明るうなってたんや。
「おまじない、効いた……ですね」
「はい」
うちは、ニコッと笑ってお返事した。
「ほな、ラブレターの続き、いきましょうか」
「……です」
おしゃべりも楽しみながら、筆を動かす。なんやろ、うち達、秘密の遊びをしてるようやわぁ。図書室でこっそり、二人だけの時間。あはは、下手なラブロマンスよりも面白いんちがう?
「これで、いい……ですか」
ノートを捧げ物のように丁寧に持って、うちの前に出してこられた。それでは、さっそく拝見させていただきますねぇ。…………はい、一読しました。
「お疲れ様ですぅ。ええ仕上がりになりましたねぇ」
「本当……?」
おそるおそる訊ねられる先輩に、うちは自信を持って言うた。
「ほんまです。これなら業平さんもぞっこんですよぉ!」
業平さんが、好き。なぜなら……だからです。て、ちゃんと理由を話してはるんが、素晴らしいポイントやった。目立った間違いもあらへんかったし、合格ですぅ!!
「表現が不完全、でも、伝わる……?」
やのに唯音先輩は、ますます自信無さそう。もぉ、弱気にならんといてください!
「伝わりますよぉ。だって、正直に思いを書かれたんですから」
窓ごしから、C号棟から出てきやる人たちが見える。二、三と寄せあってお話してる人たちもおれば、ひとりでスタスタ早足で歩く人もおった。ぞくぞくと講義が終わってるんやな。
「うち、最近になって気ぃついたんです」
外を眺めたまま、ゆっくりと唇を動かした。
「美しい表現や感動させる書き方より、読んでくれはる人のことを思うて書くんが大切やないでしょうか。いくらきれいな言葉を連ねても、思いが込められてへんかったら、読んでる人も書いてる人も、嬉しないですよ」
作家を目指して、いっぱい文章を書いていった中で行き着いたこと。たしかに書く技術は必要や。無かったら読む人の心をつかまれへんもん。せやけど、その前に「思い」があらへんと、文章が虚しくなるんちがうかて思うんやわ。
「好きな人に書くんやもん、素直に『好きや』て気持ち、伝えへんとあかん」
「…………」
先輩が、じいっとこっちを見つめてはる。なにか言いたそうやなぁ。
「夕陽さん、質問、してもいい……?」
「どうぞぉ」
「夕陽さんは、恋文を、書きたい人、いる……ですか」
「ふえっ、ふえええええ」
思わずのけぞってしまったわ。だって、予想してない質問やったもん。反応に戸惑うてまうやんかぁ……。
「図書室では、お静かに……です」
「はい。あのぉ、まあ一応、そんな人いますけどぉ……」
先輩を前に、しどろもどろな自分。あかんなぁ、ほんま。
「誰……?」
真顔のまま、興味深そうに訊ねはった。新しい物質の正体を探るみたいやけど、化学やないですよぉ!
「そそそ、そんなん、言えるわけないやないですかぁ。いけずなこと、仰らんといてくださいよ先輩」
「真淵先生……ですか」
「ふええ」
「予想通り……ですね」
かすかに口の端を上げて、唯音先輩がささやきはった。余裕のあるお言葉、大人やなぁ。あ、うちも何だかんだいうて大人なんやけど先輩には劣るんやわ。一歳違うだけやのに、なんでやろうね。
それはともかく、うちが真淵先生を好きやってこと、
「なんで知ってるんですかぁ!?」
「よく、話すから……」
あはは、そうでしたよねぇ。活動の合間に、よう真淵先生との出来事や目撃情報、挙句の果てには妄想劇場まで語ってたわぁ。
「なぜ、想っている……?」
なんで、て訊かれても……。理由を上手く説明でけへんなぁ。「好きや」いうんは間違うてないんやけど。
「えぇと、あのですね……」
真淵先生のお姿を頭に浮かべて、好きな理由を考え考えしてたら突然、けたたましい電子音が聞こえた。音は、唯音先輩の腕から鳴っていた。発明が得意な先輩が作られた、うち達日本文学課外研究部隊専用の通信機が発信している。
「何……ですか」
神妙な顔をして、先輩が腕時計型通信機のボタンを押した。
『姉ちゃん、姉ちゃん!』
「華火さん……?」
うち達を呼び出したのは、唯音先輩のいとこの夏祭華火ちゃんやった。ものすごくあわててるみたいやけど、どないしたんやろか?
『まゆみが気絶しちまった! 今バトってんだけど、人手不足っ!』
「わかった、今、どこ……ですか」
『んーと、空大のデカい図書館の近くっ!!』
ブチッ! 通信が荒々しく切れてしもた。簡単に場所を教えてくれるんはありがたいんやけど、切るんやったらもう少し丁寧にせぇへん? いつか壊れて使われへんなったら、大変やで。
「安達太良先生が、気ぃ失うてはるいうことは……」
「事件……ですね」
「早う出動しましょう!!」
うちと先輩は、すみやかに机に広げたルーズリーフやペンケースなどを鞄とリュックに詰めこんで、うるさくならへん程度の早足で図書室を出た。




