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第三段:歌合(うたあわせ) 唱する武士(もののふ)ども(四-一)

     四

 スーパーコーチ鳥下先生によるスペシャルレッスンは、厳しくも異色なものだった。腹筋と背筋を五十回ずつしなければ、練習場所に入らせてもらえない掟と、入室時に「おはようございます! ○○ (自分の名前)です。本日も、華麗に優雅にアーティスティックに歌ってみせます!」と大きくはっきり挨拶するのは、合唱の練習らしくていいなと思っていた。

 だがしかし、その後が大変だった。皆で輪になって回りながら、カエルの鳴き声を歌った童謡を延々と輪唱した。だんだん調が変わっていき、音程をとるのに精いっぱいだった。歌いなれている夕陽ちゃんや萌子ちゃんは、楽々とこなしていたけれど。リズムに合わせて手と足を動かしての発声もやったなあ。運動が得意な華火ちゃん、コツをつかむのが上手い唯音先輩が最後まで完璧に出来ていた。

 他には、割りばしをくわえたまま、または母音だけでテーマソングを歌った。割りばしで唇が自由に動かせなくて、途中で曲を止めてばっかりで皆には申し訳なかったと思う。それでも、皆が励ましてくれたから、今日まで練習を続けてこられたんだよね。


 空満大学が有するコンサートホール、その名も「アーモリックホール」は、学内の最北端に位置している。約四百人も収容できるので、音楽科の演習や催し物のほか、学内の講演会にも使われているそうだ。

「ついに、お披露目する時が来たわ! あなた達、特訓の成果を充分にあげなさい!いいわね!?」

 普段よりも真っ白なスーツに身を包んだ司令官・まゆみ先生が、楽器庫兼控え室にて鬨の声をあげた! ―のだが。

「あのー、まゆみ先生。私たち、そっちじゃないんですけど」

 後ろから肩を叩いて、私は呼びかけた。すると、先生は高速で振り返って、

「え、嘘でしょ!?」

 いいえ、嘘じゃありません。先生は、ドラムセットに声をかけていらっしゃったんですよ。いくらなんでも、楽器を女子と間違えることはないでしょう。

「ごめんねー。久しぶりの舞台だからつい」

「ついどころじゃねえぞ、アタフタまゆみっ!」

 額の汗を懸命に拭っている先生の元へ、華火ちゃんがズカズカと踏み込んできた。

「リハーサルでミスって指示棒振ってたやつは、どこのどいつだっ!」

 華火ちゃんは先生の目と鼻の先で仁王立ちし、顔をのぞき込んだ。

「四拍目でいっつも先っちょカスってたんだ。尖ってっから、けっこー痛かったんだぞっ!」

「わ……、悪かったわよ。夏祭さん」

 両手を合わせて、まゆみ先生は幾度も「ごめん」と言った。

「この通り、いみじく反省してるわ。ちょっと、緊張してたのよ……」

「ちょっとナラ、四拍子をイキナリ三拍子ニ変えタリしまセン」

 唇を突き出している華火ちゃんの陰から、萌子ちゃんがひょっこり現れた。

「テンポマデめちゃクチャで、歌いヅラかっタんスから」

 腰まで伸びた髪を手で流して、萌子ちゃんはため息をついた。その横では、まゆみ先生を心配そうに見つめる夕陽ちゃんと、相変わらず無表情な唯音先輩が立っていた。

「ホールに入ってから、十一回もお水飲まれていましたよぉ」

「最後まで、楽譜が、逆さまだった……です」

「ぬぬ……」

 動かぬ事実 (?)を次々と突きつけられて、先生は苦そうに顔をゆがめた。

「こん中で一番テンパってんのって、まゆみなんじゃねえか?」

 いたずらっぽい目つきをする華火ちゃん。

「そんなこと……ないわよ。だって私は、アタフタ……もとい、あっだだだだだだだだ……安達太良まゆみなんだから!」

 盛大にビブラートをかけて、しかもめずらしく噛み噛みで名乗りを上げられた。正直いって、説得力ありませんよ。

「動揺している……ですね」

「アチらコチラ汗マミれっスな」

「講演やと思ったら、ええんですよぉ。前にここでお話しされてたやないですかぁ」

 他のヒロインがあきれ果てている中で、夕陽ちゃんが提案をしてみた。なるほど、人前で話すことには慣れているもんね。というか、それが本業だし。先生、いかがでしょうか。

「あのねえ、講演とコンサートは全然違うの。同じだったら苦労してないわよー!」

 即、ボツになりました。

「ヤッぱセンセ、緊張シテるじゃナイっスか」

「ぬぬぬぬ……」

「なーにをザワザワしているんザマスか!?」

 声かけも無しに控え室へやって来たのは、鳥下先生と裏合唱部の五人衆だった。舞台用にこしらえたであろうビロードの礼服と、綿あめみたいな西洋風かつらが、今回の演奏会に対する先生の思いがあふれ出ている。部員たちはというと、シンプルにカッターシャツとズボン姿だった。みんな前髪を上げ、おでこを全面にあらわしていて、五つ子みたいにそっくりな出で立ちだ。

「まゆみがあがってんだ。トリスタン、どーにかしてくれよ」

 華火ちゃんが近くのイスでふんぞり返って、汗びっしょりの顧問を指さした。

「どーにかザマスか……。深呼吸して、楽な姿勢でゆっくりするといいザマス。体をほぐす、温かいものを飲む、とにかく穏やかにすれば緊張がやわらぐザマスよ」

 胸をオーバーに叩いて、鳥下先生はさっそく実践するよう促した。後ろで行儀よく整列している部員が、無言でうなずく。

「ここに来てから全て試してみましたが、ことごとくダメでしたわ」

 ズルリ。裏合唱部一同がひっくり返ってしまった。息ピッタリの反応、さすが伝統ある部活だよ。いや、私だって驚いちゃう。かなりの重傷だったんですね。

 頭をおさえながら、鳥下先生がやっとこさ起きあがり、

「仕方ないザマスね……。こうなれば最後の手段ザマス。大昔から伝わる、最強の奥義―」

 続きをためこむアーティスティック・アドヴァイザー。ものすごく効き目がありそう。し、知りたい。ねえ、どんな奥義なの!?

 ヒロインズが固唾を飲みこんで、最後の手段を漏らさずに聞く態勢に入る。我らが顧問を救う、希望の光……あれ!

「手のひらに三回、指で『人』と書いて飲みこむザマス!」

 鳥下先生が、自信たっぷりに言い張った。え、えええええ!?

「おいおい、今さら原始回帰すんなよーっ!!」

「ほんまに仰ってはるんですかぁ?」

「科学的根拠、無し……です」

「いだっちサン、ツイに堕落しまシタか」

「まったくもって、胡散くさいですよ」

 期待していた私たちが、阿呆だった。空満大学の先生は意外性に特化していたのを、忘れていたよ。信じていた時間、返してもらえませんか。んもう。

「マユツバのようで、結構効くんザマスよ?裏合唱部の危機は、これで救われていたものザマスから」

 罵声を浴びせられても、平然としている鳥下先生。五人衆はすましているだけだし。裏合唱部が合唱部にかなわないわけが、なんとなく分かった気がする。

「……やってみますわ」

 まゆみ先生が意を決して、両手をおそるおそる広げた。細々ながら深く呼吸してから、指先に渾身の力を込める!


「ええーい、人、人…………人オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!!」 


 

 三回めの「人」を書き終えようとする瞬間に、遠くで激しい音がした。重々しくて、おなかの底から響くような音だ。

「何ザマス!?」

 異変をいち早く聞きとった鳥下先生。遅れて、部員たちがキョロキョロとこなたかなたを見回して音のありかを探っている。

「ステージからミタいっス!」

「行くぞっ」

「待つザマス! ここは、落ち着いて避難するザマスよ……グウ」

 舞台へと走りだす萌子ちゃんと華火ちゃんを、鳥下先生は必死に止めさせようとするも、その場で倒れ込んでしまった。

「しばらく、眠って……です」

 いびきをかく先生を、ゆっくり見下ろす唯音先輩。彼女の手には、三角形の小型ピストルが握られていた。このピストル、本来なら空気弾が発射されるのだが、今回は万が一のために麻酔弾を仕込んでいたのだ。

「鳥下先生、ごめんなさいねぇ」

 悲しげに会釈して、夕陽ちゃんは黒ぶちメガネを静かに押し上げた。周りに横たわっている人たちは、裏合唱部のメンバー。先輩が鳥下先生に麻酔弾を撃ったと同時に、夕陽ちゃんは眠り薬(先輩の発明品)を染みこませたリボンを彼らに巻きつけたのだった。

 ―どうして、恨みも無いのに彼らにこんな風にさせたのかって?

「これは私たちが、なんとかしなきゃいけないことだから」

 気味が悪いぐらいしんとした室内で、私はつぶやいた。傍らにいらっしゃる顧問・まゆみ先生には聞こえないように。先生は裏合唱部よりも、深く眠っていた。

 あの衝撃音は、まゆみ先生と関わりがありそうなものなんだ。嘘だなんて思わないで。まゆみ先生はね、ありえない事を招いてしまうらしいの。そのありえない事を「なんとか」できるのは、私たち―スーパーヒロインズ! しかいないんだよ。



     ♪ ♪ ♪ ♪ ♪



 ホールまで駆けつけたは良かったが、そこでの有様に私たちは愕然とした。

「変身しといて正解だったけどよ」

「先客サン、イッパイ来テクレてマスね……」

 こりゃ参ったというように頭をかく華火ちゃんと、苦しまぎれに笑う萌子ちゃん。先に着いていたけれど、まだ事態を飲みこめていないようだ。

 まだ開場していないのに、客席が大勢の人でごった返している。これだけでも充分ありえないんだけれど……、

「お客さんにしては、時代を間違えてない?」

「衣冠束帯、千年以上も昔……ですね」

 来ている人たちの服装が、当世と全然合っていない。なかには、数メートルはあると思われる髪を引きずった十二単の人も見られる。お坊さんもいたと思う。

「やってくれるね、まゆみ先生」

 今回は、くらげのごとく漂う古の人たちを呼びだされたんですね。外は、曇りは曇りでも、白い曇りになっていないだろうか。先生のそばにいると、現実に起こるわけないことが、奇跡のように起きてしまうんだ。私達もよく分からないんだけれど、深い眠りに落ちられる、白い雲が出てくる、この二つが、発動の条件なんじゃないかと思う。奇跡は、日本文学に関連する何か―人、動物、妖怪などなど。それを消さなければ、先生は起きないし、不思議なことは起こったままだ。

「おい、なんか真ん中らへん、ちょいと変じゃねえか?」

 華火ちゃんの言う通り、真ん中あたりの席だけ、浮かんでいる人たちの様子が他と違っていた。六人の縦並びが二列できていて、互いに向かい合って座っている。やはり一部に女性と僧がまぎれていた。

 十二人の傍らで、少年が何かを読みあげている。まだあどけなさが抜けきれていない、高々とした声だ。


 

 見し秋を 何に残さん 草の原 ひとつに変る 野辺のけしきに


 霜枯の 野辺のあはれを 見ぬ人や 秋の色には 心とめけむ



「冬上 枯野の歌 十三番……、あらま。聞き覚えある思うたら、六百番歌合やんか」

 夕陽ちゃんが、懐かしそうに言った。

「うたあわせ?」

「歌合トハ、右・左の二手に分かレテ、お互いに作った和歌を競い合わセル遊びデス。モウ、はなっちサン。前にセンセが説明シテたじゃナイっスか」

 忘れたんスかー? と、口をへの字に曲げる萌子ちゃんに、華火ちゃんは、

「あー、ソレソレ! そーだったなっ!」

 お気楽に笑ってみせるのだった。

「なお、六百番歌合の判者は、俊成(しゅんぜい)さま……です」

 歌学者・藤原(ふじわらの)俊成(しゅんぜい)を「人生の師」と仰いでいる唯音先輩。こっそり喋ったつもりでも、ちゃんと聞こえてましたよ。

「おそらく、あのお爺様……です」

 先輩が向けた視線の先には、歌詠みたちにはさまれて、彼らを物々しく見守る年かさの人がいた。たしか、俊成って六百番歌合で判者を務めた時には、もう八十歳になっていたんだよね。

「で、どーすんだ? 真面目に倒してったら、開場に間にあわねえぞ」

「チャチャチャっと解決スルしかナイっス」

「でも、こんな大量の歌人をどうやって……」

「ぎょうさんの相手をまとめて攻撃できる技、あるで」

 考えあぐねる四人に、夕陽ちゃんが助け舟を出した。

「うちとふみちゃんの合体必殺技や」

 黄色のリボンと、足首に届くほど長いスカートを翻し、彼女は堂々と発言した。

「合体必殺技……ですか」

「友情ノ結晶、ゆうひ・ふみかコラボレーションっスね☆」

「この前、古池(ふるいけ)占拠してたカエル軍団を一網打尽にしたやつだなっ!」

「せや」

 あ、そっか。その手があったんだ!「ゆうひ・ふみかコラボレーション」か。九十九匹は少なくともいたと思われる大勢の蛙との戦いで生まれた、リボンで作った輪を弾いて空間ごと飛ばす技だ。これなら、早く決着がつけそう!

「中央座席ぐらいやったら、リボンで囲めるわ。そこへ全員集めたら、一気にできるはずや」

「マズは、歌人サンを一カ所ニ集メるベシっスね☆」

「時間が、限られている……」

「電光石火でカタつけるぞっ!」

 後に控えている舞台のために、われ関せず三十一文字を唱え続けている歌人を倒すべく、そしてまゆみ先生の心の平静を取り戻すべく―私たちは、戦う!


「やまとは国のまほろば! ふみかレッド!」


「原子見ざる歌詠みは、いおんブルー……です」


「花は盛りだっ! はなびグリーン!」


「言草の すずろにたまる 玉勝間、 ゆうひイエロー!」


「こよい会う人みな美シキ☆ もえこピンク!」


『いざ子ども 心に宿せ 文学を! 五人合わせて……スーパーヒロインズ!』




―いざ、戦闘開始。



     ♪ ♪ ♪ ♪ ♪



 日が空の頂点からやや傾きかけた頃、空満大学では、数人がぞろぞろとキャンパスの北を目指して移動していた。目的はもちろん、アーモリックホールで行われる裏合唱部の定期演奏会。外部からの来校者もいるが、おそらくかつて裏合唱部に所属していたか、活動に携わっていたのだろう。

「久々に、ようけい人が来とりますな」

 陽光を照り返すつやつやした禿げ頭の老人が、ホールを目指す人々に紛れていた。ふさふさのあごひげを撫でて、年季の入ったつっかけで学内を闊歩する老人は、空満大学の日本文学国語学科、通称・日文の教授・土御門(つちみかど)(たか)(あき)だ。かれこれ三十数年ここで教鞭を執っており、「翻刻の翁」の異名で学生に語り継がれている。

「お、(とき)さんやないか」

 土御門先生が、前をよろよろ通り過ぎる灰色の背広の男性を呼び止めた。すると、背広の男性は微笑んで、彼のところへわざわざ戻ってきてくれた。

「ああ、土御門先生。こんにちは」

 (とき)さんと呼ばれた男性だが、正しくは(とき)(すすみ)(せい)といい、彼もまた日文の教授で国語学を教えている。土御門先生と歳が近いのに、まだ黒々とした毛髪がたくさん残っていた。

「先生も、コンサートを聞きに来られたんですか」

「そや。『正義の味方』が、またやらかしとるようやからな。雅そのもののわたしが、歌とはどういうもんか教えに、わざわざ出向いたのですぞ」

 ふぉっふぉっふぉっ! と豪快に笑って、土御門先生は手持ちの扇を大げさにあおいだ。その表には「雅」の字が誇らしげに構えている。 

「そうでしたか。私は、主任のつとめとして学科の課外活動の様子を見にきたんです。裏合唱部の皆さんも頑張っているようですので」

 時進先生は朗らかに、抱えていた分厚い書物を肩まで持ち上げた。茄子紺のカバーからちらりと金に輝くタイトルが見える。

「『合唱大事典』かや? なんとも勉強熱心ですな」

「せっかく聞かせてもらうんです、起源からおさえておこうと思いました」

 およそ三千ページはあるだろう事典をおもむろに開いて、にこにこと読みはじめる。のぞいてみた土御門先生だったが、その中身に悲鳴をあげてしまった。蟻ほどの小さい字がびっしり敷きつめられており、ページを黒く染めあげている。

(とき)さんや。こんなん読んでて、苦しうならへんか?」

「今日は体調が良いので、いくらでも読めそうなんです。ほら、もう六二〇頁『第三章 合唱の楽しみ』に入りました」

「ちと早過ぎやせえへんか!?」

「時進先生、あまり無理をなさらない方がよろしいですよ」

 土御門先生が雅を忘れて口をあんぐり開けていると、ふいに何者かが割って入ってきた。

「身体の具合が良いと仰いましても、万が一の事もあります」

 そうささやいて、すらりとした男が時進先生の横からスッと顔を出した。

「ふぉふぉ。なんや真淵先生かいな」

 土御門先生たちよりはるかに若く、その割に落ち着いた物言いをする人物は、二人と同じ学科で、国語学担当の()(ぶち)丈夫(ますらお)だった。

「ご挨拶も無しに、大変失礼いたしました」

「いいえ。謝るのは私の方ですよ。君には、いつも心配をかけさせてばかりで……」

 読書をやめて、時進先生は真淵先生を見上げた。その温かなまなざしは、我が子を想うかのようだった。

「ふん、驚かせよって。おるなら堂々と出てこんか。物の怪やと思うたわ」

「それは申し訳ございません。以後、気をつけます」

 扇をピシャリとたたみ、得意の嫌味を言う土御門先生に、真淵先生は丁寧にお詫びした。だが、彼は怪しげな笑みを浮かべたまま、

「さて、土御門先生。歌のいろはを教えにコンサートへ足を運ばれたと聞きましたが、本当は、安達太良先生の勇姿を見届けにいらしたのではないです?」

 やんわりと言いながら、細めていた目を開けた。土御門先生に向けた、礼儀正しく、人当たりの良さそうな瞳の奥には、底知れぬ脅威が潜んでいた……。

「じょっ……、冗談はやめい。何故(なにゆえ)わたしがお嬢のために行かにゃならんのや。お、お嬢なぞ、米粒ほども気にしとらーん!」

 すっかり見入られてしまった土御門先生。茹であがった蛸のように顔を真っ赤にしてそっぽを向いたのだが、扇を持った手が、プルプル震えている。

「クス。おやおや、素直ではありませんねえ」

 真淵先生は細めた目をさらに細くして、ささやかに口角を上げた。そんな彼らのやりとりをおろおろして聞いていながらも、時進先生はいつの間にか『合唱大事典』を三分の二も読んでいたのだった。



 彼らとは遠く離れて、男女二人組が足並みをそろえて歩いていた。行き先はやはり、北のコンサートホール。男性はブルーブラックのスーツと、空色のシャツと青いネクタイ、女性の方は橙色のグラデーションがかったワンピースで、首元にはレモンイエローのスカーフを巻いていた。

「すまないね、森君。急に誘ってしまって」

 スーツの男が、女性に優しく話しかけた。五十代の中年ではあるが色気があり、精悍な顔と逞しい体つきが、老いを感じさせていない。

「構わない。自分も興味があった」

 スカーフの女性が、凛とした表情で答える。男とは十歳以上も年下であろう彼女は、ふわりと巻かれた髪をシュシュで束ねており、簡潔な語りと外見から、知性と気品を醸し出していた。

 危うい関係に見えるこの二人は、意外にも日本文学国語学科の先生なのである。男が教授の近松(ちかまつ)初徳(そめのり)、女が准教授の森エリス。近松先生と森先生は常に行動を共にしており、異様な仲の良さにまつわる噂が絶えない。

「しかし、なぜ近松先生は、日本文学課外研究部隊の歌を聴こうと考えたのか」

「いつも、隣の部屋で楽しそうにやっているからね」

 日本文学課外研究部隊は、研究棟の二〇三教室を拠点としている。近松先生の個人研究室は、二〇四教室にあたる。お隣のため、彼女たちのやりとりがすぐ耳に入るのだろう。

「ふむ、魅力的な安達太良さんと、なかなか()いものを秘めたお嬢さん達……。ははは、食指が動くでないか……」

「近松先生は、実に好色であるな。ふふふ」

 森先生が真顔から女性らしい柔らかな顔に変わった。笑う声も可憐で、妖精が歌唱しているようだ。

「いや、私は単に関心を持っているだけなのだよ?」

 パートナーを諭そうとする近松先生だったが、彼女の可愛いさに見とれてしまって動揺している。

「ふふふ、先生が狼狽(ろうばい)している。面白い」

「ふぬ、違うよ。森君、これは面白い話でなくてだね……」

 弁明するも、近松先生はますます動揺するばかりだった。なぜだか照れてもいる。森先生は彼のあわてぶりを楽しむかのように、笑い続けるのだった。





「ヒロインズが前座をするんだもん、いっぱいいっぱい応援しないとね」

 結わえても長い髪を風に流して、額田(ぬかた)さんは気持ちよさそうに歩いていた。彼女の親友が入っている日本文学課外研究部隊、別名・スーパーヒロインズ! がなんと自分たちの作ったテーマソングを歌うそうなのだ。わずかな期間で練習した曲を、学内の部活動が催すコンサートで発表させてもらうことになったという。

 メンバーには親友のほかに、その子の親戚、額田さんの所属する学科(日本文学国語学科)の後輩がいて、顧問は卒論ゼミの担当教官でもある。つまり、額田さんはスーパーヒロインズ!と非常に親しい関係なのだ。

「あのお、すみませ~ん」

 遠くから、元気いっぱいな声がした。短かめのひだスカートをはいた女の子が、ものすごい速さでこちらへ走ってくる。

「日本文学かぎゃい……あ、かんだ、課外活動部隊のコンサート会場は、こっちでいいんですか?」

 少しも経たないうちに、女の子は額田さんに追いついた。早口ぎみに喋る少女は、くせのあるボブカットで、とても背が高かった。女子の平均以上もある身長の額田さんでさえ、顔を上げなければ目を合わせられないぐらいだ。

「うん、そうだよ。おやおや? 君、空満高校の子?」

 濃紺の襟のセーラー服に、白い靴下。まぎれもなく、空満大学の付属高校のものだ。胸元の赤いリボンからすると、三年生だろうか。

「んだ! あ、ごめんなさい、はい!」

 元気いっぱいに返事する女の子。初対面の人なので、なまりを頑張って直そうとしているところがお年頃の子らしくていいな、と額田さんは思った。

空高(そらこう)ってことは……もしかして、華火ちゃんを見に来たの?」

「ははっ、は、はい! トコの、ちがっだ、私のお友達なんだな……なんです!!」

 女の子は、頬を赤く染めてうなずいた。

「そうなんだー。後ろのお二人さんも?」

 訊ねられて女の子が振り向くと、同じ色のリボンを結んだ、刈り上げ髪とロングヘアーが手を振りながら早足でやってきた。

「私たち、この子のお守りでえーす!」

 頭部の右半分を十字に刈り上げた女の子が、額田さんにピースをして言った。

「こいつ、恥ずかしくて一人で行けないつってたんで、背中押してやったんすよ」

 今度は、へその辺りまで伸ばした髪の子。

「わあ~、違うんだな~。トコ、最初から自分で行ぐって言っだのに、平端(ひらはた)前栽(せんざい)てば、勝手についできたんだな」

 お友達らしき二人にいじられて、トコと名乗る少女はわーわーと賑やかに声をあげていた。髪の長い方が平端で、短い方が前栽というらしい。

「あっれー? 大学来た瞬間に、『おなか痛い』とか言いだして逃げたん誰かなー?」

「もお~、前栽、余計なコト言わないでほしいんだな~!」

 前栽に抱きつかれ、平端に頭をぐりぐりされるトコちゃんだったが、嫌がっている風でもなく、じゃれ合っているように見えた。長い間一緒にいているからこそ、出来ることなのだろう。額田さんは会釈して、また一人で歩き始めた。

「やあ、額田さん」

 しばらくすると、学科の先生と一緒になった。流し目で名前を呼んだのは、近世文学担当の近松先生だ。そばには近現代文学担当の森先生。

「お疲れ様です。先生方もコンサートにご用ですか?」

「そうだよ。時進さんと真淵さん、土御門さんも向かっているんじゃないかな」

 近松先生がさわやかに笑って、森先生に目配せした。周囲の女性たちが彼を見て、うっとりしたり失神したりしている。額田さんでも胸がキュンとするのに、森先生は同意のサインだと受け取って、うなずいているだけだ。

「宇治先生がいらっしゃったら日文の先生、全員集合だったのに……。残念ですよね」

 日本文学国語学科の常勤教員は七人。安達太良先生は今日の舞台で出演するとして、あとの六人は、今いらっしゃるお二人と、時進先生・真淵先生・土御門先生、そして(くだん)の宇治先生。

「悲しいことに、なぜかこの時間は宇治さんだけ講義が入っているのだよ」

「近松先生、愉快に話していては、本人が浮かばれないといえるが?」

「ははは、これはすまない……」

 仲睦まじく談笑する近松先生と森先生。額田さんは入り込め無さを感じつつも、相性ぴったりな二人をそっと見守っていた。




「へっくしょい!!」

 ホールとはちょうど反対の方角のA・B号棟の一室で、ある教員がくしゃみをしでかした。あまりにも派手だったので、寝ていた学生が、皆飛び起きてしまった。といっても、出席している者の半分以上が舟を漕いでいたのだが。

「あ、失礼しました! ……って、わわわわ、ととっ!」

 反動で教壇から落っこちそうになるのを、教員は両足でしっかり踏ん張って阻止した。そして、申し訳なさそうに、分厚いレンズのメガネを押し上げて、漆黒のスカートをひらめかせた。

「……どこかで、噂していたのでしょうか?」

 その教員の左腕には、使い古された臙脂色の腕章が付いていた。「文学部日本文学国語学科」と書いてある腕章が……。



「コンサート、もう少しで始まるね……」

 額田さんが、前方に見えるアーモリックホールに語りかけた。真っ白な雲の群れが、ホールを軸にして、ぐるぐると空をかき混ぜていることに違和感を抱かずに……。




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