第二十段:けふ咲く花の いやしけ吉事(よごと)(三ー三)
母校・吉野女子大学大学院の土を、胸を躍らせて踏む。研究のためにしばしば訪れているので、絶えて久しいわけではない。どうしてだろう。
「おう! おはよう、まゆみちゃん」
ここに来たら、必ず師に顔を出すようにしている。お元気で何より。
「おはようございます、棚無先生」
担任の代わりをお願いに伺った際とは、空気が違う。拙いたとえで申し訳ないが、元旦の一日、なのだ。年が新しくなると、空も雲も、山も川も、衣食住に関わる物、とにかくすべてがまっさらに感じられる。特別な日? そうなのかもしれない。
「桜餅、どうぞお召し上がりください。宇治先生と作りましたの」
「いつも悪いね。ちょうど紘子ちゃんの味が恋しくなってきたんだよ」
渡された紙袋に棚無和舟は嬉々と手を入れた。桜柄の紙に包装された折箱に、道明寺製のお菓子が六つ整然と詰められていた。
「お茶の葉は、こちらの市松模様でしたわね?」
まゆみが、小型冷蔵庫の上に置いてある赤っぽい筒を持って振り向いた。師の研究室はだいたい心得ている。
「そうだよ。粋だろう? 一昨年卒業したゼミ生からいただいたんさ」
「あらー、さやうでしたか。今年もゼミを開いていらっしゃいますの?」
和舟は、左耳のイヤリングをつまんで答えた。
「大盛況なんさ。大学の卒論も面倒みることになったんだよ。傘寿前のばあさんをこれ以上働かせてどうするんだい、とね! ハッハ、近頃の萬葉ブームにはほとほと困っているよ」
「おほほ、お仕事が舞い込むことは、よろしいではありませんの。パワフルな先生の御手を借りたい人は、星の数ほどいるでしょうね」
「やめな、夢のセカンドライフがより遠のくじゃないか」
和舟とまゆみは、麗しく笑った。
「まゆみちゃんは、いかがお過ごしかい? 三回とくれば、演習だろう。担任に集中する傾向があるからね」
「ええ、全員の希望に沿うようにしつつ、受講人数を均してみましたが、やや多めになりましたわ」
「ふみかちゃんと夕陽ちゃんは、もちろん……」
「はい。大和さんは上代と国語史、本居さんは近世と語用論です。どちらも学びに熱心ですもの」
本居夕陽の選択は、予想通りだった。彼女はどの時代の文学、どの分野の国語学を専攻しても伸びる。決定のポイントは、興味と教員への好感だ。とりわけ語用論の担当には、師事したい思いがいみじく強い。担任として、また、女性として、背中を押してあげた。
大和ふみかには、一本取られた。文学は自分の下で究めるのだな、と勘づいていたけれど、国語史を希望するなんて。技量を超えるものへの挑戦を避けるきらいがある彼女が、進歩した。若きうちの苦労は、買ってでもせよ。きっと、将来を豊けくする財産になるだろう。
「卒論ゼミは三人に減りましたが、いやましにきめ細かく指導しますわ」
「立派なものだ! ちなみに、新人ヒロインは加わったのかい?」
「いえ、いまだ二〇三教室の扉を叩く学生はおりませんの。隊員が勧誘しているものの……こればかりは」
「追加戦士だね……。何色に任命するんさ?」
金もしくは銀を考えている。二人入隊なら、対になるデザインで衣装を縫うつもりだ。
「紅玉、青玉、翠玉はかぶってしまうわね、金剛石、真珠、白金……趣向を変えてX? Y? もはや色ですらないじゃないの」
思いを巡らせる弟子に、和舟の頰がゆるむ。本だけと対話するつっけんどんだった空大生が、はにかみ屋の院生に、そして現在は空大の教員となって、愉快なサークルを立ち上げた。二十年ほど弟子の航海をうちまもっていて、驚かされない日はない。
「子を育むとは、そういうものなのかい…………」
産んだけれど、兄夫婦に奪われ、三年後には海のうたかたとなった。娘と息子を抱いたのは、新生児の頃のみ。
「つつがなければ、まゆみちゃんと飲み交わしていたかもしれないね」
働き盛りの時分に子達と兄夫婦を失い、教授就任の直後に両親と義父母が世を去り、金婚式を間近にして夫が亡くなった。齢を重ねるとは、別れを経続けること。教え子の孫が自ら命を絶ったと聞いた時は、身が裂けるようだった。
「先生、淹れなおしましょうか」
まゆみが憂いを帯びた表情をして、お盆を抱えていた。今も昔も、心の機微を捉えやすい子だ。
「私の航路を辿っていたんさ。せっかくだから、熱いものをいただくよ」
椅子に体を預け、和舟は弥生晦日と卯月朔日との間における戦を追想した。
「大いなる障り」に、鼻をへし折られた。人間は心を持つがゆえに、他者を憎み、妬み、虐げ、貶め、呪う。和舟にも思い当たる節があった。当然だ、私は聖人君子ではないのだから。もっとも、聖人君子はこの世に長くいられない。嬰児のように澄んだ魂は、黄泉路に誘われやすい。かてて加えて、多少濁っていなければ社会という大海原を渡ってゆけない。私は、姓名どちらも清音だがこの通り健康だ。
さて、障りが心を食む理由を告白した。史料に記されておらず、野外調査でも得られないことであった。災い、よりは、審判だったのか? かつて祓の行使者だったアヅサユミは、人間に厚い信頼を寄せていた。神が人間の明日を守るため、障りを祓ってきた……この度の戦闘は、アヅサユミの呪いを宿した人間―スーパーヒロインズ! が、他者の心を枯らさないよう心を尽くし身を献げた。アヅサユミは人間を擁護した、では、ヒロインズは、人間を代表して対峙したといえる……?
「五人は、心を正しく用いる人間もいるのだ、と障りに語りかけたのではないでしょうか」
「まゆみちゃん」
射貫かれた。詠唱の奇跡ではない、天がまゆみに与えた才能。和舟でも、思考を読むには貝に寄せなければならないのだ。
「アヅサユミとヒロインズは、人間にまだ温かい部分が残っている、と信じたのですわ」
胸の前で指を組んで、まゆみは和やかに微笑んだ。
「心を正しく用いる人間に、祓は植えられたんだろうね」
「彼女達は、私の誇りです」
先祖が見込んだのだ、五人の行く末は輝かしいものとなる。たとえ、夢の道中に壁がそびえても、よじ登るなり穿つなりして進むはずだ。
「棚無先生、私はこの春決めましたの」
柔らかな陽光が、まゆみと和舟にかかった。
「呪いの研究を始めます。空満との関わりを解き明かしたくなりましたのよ。併せて『引く』力についても」
学問は、己を知る旅でもある。和舟は諸手を挙げて歓迎した。
「進歩できるのは、若人に限らないよ。まゆみちゃん、ボン・ボヤージュだよ」




