第三段:歌合(うたあわせ) 唱する武士(もののふ)ども(三)
三
「鳥下先生、急なお願いをしてしまいまして、ごめんなさいな」
深く頭を下げる、まゆみ先生。私たちに座ってもらうよう、椅子まで用意してくださったことにも、申し訳ないと思われたようだ。
「なんの、なんの、なんの! マエストラはアタクシの命の恩人ザマス。レッスンぐらいお安い御用ザマス」
鳥下先生が、豪奢なフリル付きの袖をぶんぶん振って、高らかに笑う。しかし、このご時世に「~ザマス」を使う人が、まだいたんだ。題名がすぐに出てこないが、いつぞやの漫画に、眼鏡をかけたお金持ちのご婦人が同じ話し方をしていたと思う。たぶん、未来から訪れた、丸っこい耳なし猫型ロボットが出てくる作品だったはず。
「まゆみが、命の恩人?」
嘘だろ? と疑う華火ちゃん。パイプ椅子の背もたれを前側にして、足を揺らして座っていた。
鳥下先生は、口を三日月の形に広げて、
「そうザマス。アタクシがアーティスティック・アドヴァイザーを務める、裏合唱部を廃部から救ってくれたザマスよ」
ピアノの縁に手をそっとおいて、鳥下先生は、遠い目をして語り始めた。
裏合唱部は、鳥下先生が空満大学に来る前から存在しており、全盛期では七十人も部員がいたそうだ。しかし、歳を追うごとに、人前で歌うことに抵抗を感じる学生が増え、裏合唱部をたずねる者が少なくなっていった。
ついに去年の春、わずか六人だったメンバーが、みんな卒業してしまい、部員ゼロという、前例のない窮地に立たされた。悲しいことに、本学の規則では、春学期が終わるまでに、部員を五人以上集めなければ、裏合唱部は部活動として認められず、即、廃部が決定される。「代々続いていた栄光ある部を、つぶすわけにはいかない!」鳥下先生はそう決意し、なんとしてでも裏合唱部を存続させようと奔走した。けれども、全然集まらなかったみたいだ。
とうとう、期限が前日にせまり、絶望にうちひしがれる鳥下先生に、奇跡が起きた。なんと、日本文学国語学科の先生が、自分の担当学年から五人を部員に、と連れてきてくれたのだ。かくして、裏合唱部は首をつなぐことが出来たのだそうだ。五人とも歌が大好きで、熱心に練習に励む、いい学生だった。しかも、みんな一回生なので、四年は続けられる。鳥下先生は、感極まって久々に号泣したのだそう。ちなみに、部の危機を救ってくれたあの先生は、訪れた際、こう名乗ったのだという。
「今年度より着任いたしました、文学部日本文学国語学科所属の安達太良まゆみですわ!」
「ホント、あの時は救世主かと思ったザマス。白のお召し物が太陽にきらめいて、神々しかったザマス!」
まゆみ先生を前に、うっとりする鳥下先生。私たちの知らないところで、顧問はいろいろと大活躍していたらしい。うーん、恐るべし。
「マエストラ・アダタラがいなければ、裏合唱部は空大の歴史から葬られていたザマス。アナタは、栄えある裏合唱の伝説ザーマス!!」
「あらー、さように仰られますと、お恥ずかしいですわ」
教員同士で褒めあいをしている間、私は夕陽ちゃんに耳打ちした。
「ごめん、裏合唱部って何やってるの?」
「男の人の裏声だけで合唱するんやわ。裏声の合唱部やから、裏合唱部」
「へえ」
名前は聞いたことがあるけれど、どんなものか分からなかった。だからといって、こんなに盛り上がっている中で質問するのは失礼かな、と変な遠慮をしていたんだよね。
傍らで、こそこそしているのが気になっていたのか、萌子ちゃんが首をかしげて、
「ふにゃ? 萌子、新歓合宿でセンパイ達カラ『裏合唱部は合唱部の二軍』っテ聞きまシタよ?」
皆に聞こえるようなボリュームで、言ったものだから、当然のごとく、あの人の耳にも届いていた。
「ケケ、ケケケケ……アタクシたちが二軍、二軍……」
両手と腰をくねらせ、妖しげなダンスを踊りだし……。
「誰が、二軍じゃい!!」
紅蓮の炎に包まれた不動明王のような形相をして、鳥下先生が怒鳴りつけたのだった。キンキン響いた声から一転して、重量感のあるバリトンに切り替わる。
「わしらは、超一流の合唱クラブじゃ! にっくき若造シュウベ・マスオがやってる合唱部なんぞ、ガキの集まりみたいなもんじゃい。けっ、顔がイケてるからちゅうて、おなご共にキャイキャイ言われよってのう、調子こくんじゃねえぞ! わしらの魂の調べがぶっちぎりに上手いんじゃワレ!」
鳥下先生の変貌ぶりに、私たちは震えあがってしまった。方言らしきものが、時々混じっていて、恐ろしさに拍車がかかっている。華火ちゃんと夕陽ちゃんは涙目になっているし、まゆみ先生は、固まりつつも後ずさりしている。あの唯音先輩だって、唇を固くむすんで、こらえていた。
「ぎにゃ……。ソ、ソ―リーっス……」
憤怒に燃える音楽家に、萌子ちゃんがひたすら謝っていた。次からは「二軍」をうっかり口走らないように、気をつけよう。
言いたいことを存分に言い終えて、鳥下先生は、ンン!と咳きこみ、
「……失礼したザマスね。つい、カッとなってしまったザマス」
胸元にかかったレースのしわを広げて、威儀を正した。
「アナタ方には、一週間後にする、裏合唱部・定期演奏会の前座に出演してもらうザマス」
『え!?』
五人が一斉に、驚きの声をあげる。対して、鳥下先生は不思議そうに全員を見て、首をひねった。
「せっかく作ったテーマソングなんザマス。大勢の人に聞かせないでどうするザマスか?」
ねえ? と、まゆみ先生に同意を求める。すると、先生は目を閉じて、おもむろにうなずいた。本当にステージに立たせるおつもりなんですね。
「ではマエストラ、アナタは隣の部屋で曲を完成させるザマス。それと、指揮法をおさらいするザマス。中にテキストが置いてあるザマスから、目を通しておくザマスよ」
「わかりましたわ」
まゆみ先生は返事をした後、華麗にターンを決めて、E六〇一教室から退出した。
「隊員の方々には、今から歌のレッスンをするザマス。専攻ではないからといって、甘くしないザマスよ。良いザマスね?」
しっかり巻かれた髪に指をからませながら、鳥下先生は、私たちにうっすらと笑いかけた。なんだか、とんでもない先生をコーチに呼んでしまったよ。せめて、地獄のような特訓だけは、勘弁してください!
♪ ♪ ♪ ♪ ♪
「それでは、アナタ方の声をみていくザマスよ」
鳥下先生は鍵盤の前へ移動して、手首を軽くひねった。
「最初は、アナタ。赤パーカーの人」
「へっ!?」
思わず自分を指さしてしまう。私のことですよね?
「音に合わせて、歌うザマス。朝顔の『あ』でよろしいザマスよ」
先生は適当に和音を弾き、準備する。
「どうして私がこんなことに」
「ハイ、始めるザマスよ、赤パーカーさん」
「大和です!」
せめて、名字で呼んでくださいよ。はあ。真ん中に並んでいたのに、トップバッターにされるなんて。
「大和ちゃま、いいから、歌うザマス!」
うう、「ちゃま」付けしないでほしいんですけど。まゆみ先生といい、空大には、なぜにこうも変人、いや個性が立っている教員ばかりなのかなあ。んもう……ジャン、ジャーン。あっ、ピアノが鳴りはじめた。は、はいはい、歌います!
「あああああー」
言われたとおりに、音にのせて声を出す。横で夕陽ちゃんたちが、じっと私を見つめている。歌はあまり得意じゃないけれど、やってみると案外楽しいね。
チャン、チャーン。
「アアアアアー」
音階が上がると、声も高くしないといけない。かすれ気味になるのを抑えて、できる限りついていく。
「アアア……あっ」
声が裏返っちゃった。はあ、ここで限界かな。ノドが引きつって、痛い。
「ストーップ。そんなとこザマスね」
鳥下先生が、手を止めてくれた。
「ふう」
思っていたより、歌えていたと思う。深呼吸して、ちょっと休憩。
「お疲れ様。大和ちゃまは、アルト向きザマス」
パートを告げられ、胸をなでおろした。アルトかあ。目立たないところに入って良かった。
「どんどんいくザマスよ。次、そこのリボンさん」
「本居夕陽ですよぉ!」
大きなリボンを左右に揺らして、抗議する夕陽ちゃん。仏様よりも優しい夕陽ちゃんも、名前でちゃんと呼ばれないと、嫌だよね。しかし、そんな複雑な乙女心 (?)を知らないふりをしているのか、鳥下先生は、ケケケケと小さく笑い、フリルだらけの袖を派手に振り回す。
めずらしく不満げな表情を浮かべた夕陽ちゃんも、ピアノが始まると、
「アアアー」
上機嫌に歌っていた。
「ゆうセンパイ、マキシマム級にウマいっスね」
「伸びやかで、甘い声……です」
萌子ちゃんは目を輝かせ、唯音先輩は足で調子をとって、旋律に聞き入っている。で、華火ちゃんはというと、
「すげえ……」
口を開けたまま、立ち尽くしていた。そういえば夕陽ちゃんは、一回生から声楽の授業を取っていたんだよね。元々、歌が好きだって言っていたし。頑張り屋さんのことだから、きっと家でも練習していたんだと思う。
「本居ちゃま、ソプラノ!」
「はい」
丁寧に礼をした後、スキップして帰ってきた夕陽ちゃん。歌いきって、心が晴れ晴れしたようだった。
「次、おちびさん」
「はなび様だ、覚えとけっ!」
三番目は、タンカを切ってみせた、女子高校生。さて、結果は?
「華火ちゃまはー、アルト」
「おうよっ!」
華火ちゃんは、照れくさそうに頭をかいて、そそくさと席についた。
「よう頑張ってたで、華ちゃん」
「へっ、あたしにかかりゃあ、チョロいもんだ!!」
音楽室に、皆でピアノを囲んで歌う、か。ああ、中学や高校の合唱コンクールを思いだすなあ。まさか大学でも歌うことになろうとはね。日本文学課外研究部隊が「何でも屋さん」になるのも、時間の問題、かなあ。
「与謝野・C・萌子ちゃま、どっちでもOKザマスよ」
「了解☆ 萌子、アルト行きマース」
こうして、順調にパートが割り振られていったんだけれど……。
「なにをボーっとしてるザマスか、はーやく歌うザマスよ!!」
最後の一人が、鳥下先生に注意されていた。その人物とは、音楽家みたいな、白シャツと黒のベスト・ズボンがトレードマークのこの方。
「……」
寡黙なる唯音先輩。ピアノのそばで、ずっと直立している。
「だんまりされていたら、日が暮れるザマスよ!!」
「…………」
最大級の高い声で、鳥下先生が叫んでいる。だけれど先輩は、光のない瞳で、鳥下先生をぼんやりと見つめているだけ。
「まずいな」
「え?」
「姉ちゃん、大声出すの苦手なんだ」
ポニーテールを跳ねさせて、華火ちゃんがうなる。
「しかしbutしカシ、どーするんスか? いおりんセンパイだけ不参加はキツいっスよ」
萌子ちゃんが、眉を八の字にして訊ねてきた。
「うーん」
しばし腕組みをしてみる。四人で歌うことになれば、まゆみ先生が黙っていられないだろう。「もう、五人揃ってこそ『スーパーヒロインズ!』なのよ。一人でも欠けたら、ただの女子じゃないの!」くらいは平気で仰るはず。口だけ動かしてもらって、歌っていますってふりを(夕陽ちゃんいわく、俗に口パク)していただこうものなら、怒りの鉄拳ならぬ指揮棒が飛びそうだ。何とかして先輩を歌わせなければ……。
「無口なニシナ! はーやく声を聞かせるザマス!」
「……」
なおも押し黙る唯音先輩。こうなれば、意地でもテコでも動かないだろうね。ああ、なんかいい策が下りてこないかなあ。頭の回転の悪さに自己嫌悪していた時、
「唯音先輩、そないに歌わへんのでしたら、うちにも考えがありますよぉ!」
シュッ、と風を切るように、夕陽ちゃんが手を挙げた。
「この場で先輩の好きな人の名前、言うてしまいますぅ!」
ほえ!? う、うそ、い、唯音先輩、好きな人いたんですか!? というか、どうして夕陽ちゃんが知っているの? 華火ちゃん・萌子ちゃんも私と同じことを思ったのか、一緒に二人を交互に見た。こっそり鳥下先生も、ピアノの陰から頬を赤らめて様子をうかがっている。
「唯音先輩の好きな人はぁー……」
息を思いっきり吸って、限界のところで夕陽ちゃんは止めた。準備が整ったみたいだ。―ついに、気になるお相手の名が明かされる!
「…………!!」
禁断の言葉が口にされる寸前に、先輩が大音声をあげた。その奇声ともいえない絶叫は、E六〇一教室の防音壁をきしませ、ピアノの弦を共鳴させては、私たちの耳を貫いた。
残響が辺りに広がり、数分たって静かになった。
「ブラーヴァ、ニシナ! 本日最高の歌声を聞かせてもらったザマス。文句無しのソプラノに決定ザマス!」
鳥下先生が、スタンディング・オベーションで先輩を称えた。つられて私たちもやってしまった。う、うん。そうだね、超音波か衝撃波が生まれそうな、高音を超える高音でしたよ。モーツァルトの「夜の女王のアリア」も軽々と歌えるんじゃないでしょうか。
「寿命が、縮む……です」
そう言って、唯音先輩はうずくまった。好きな人は結局分からずじまいだったけれど、先輩の底力を拝見させてもらっただけで良しとするか。
「先生、やっとテーマソングを完成させましたわ!」
「マエストラ」
鉄扉をこじ開けて、まゆみ先生が戻ってきた。楽譜と指揮法の本を小脇に抱えて、頬を上気させている。
「指揮法もばっちりですわよ。後は、本番に向けて練習するのみです!」
親指を立てて「良し!」のサイン。やる気に満ち満ちていらっしゃるようです。
「分かったザマス。では、各自で譜読みと音合わせをするザマス。一時間後に通しで歌ってみるザマスよ。最高の前座を期待しているザマス!」
『ラジャー!』
一週間後に、テーマソングを舞台で合唱する。こうなれば、もうやるしかないよね。日本文学課外研究部隊の歌声、皆に届けるよ!