川の彼方の地と五家族 1
川は無数にあるが全ての大地は豊潤ではない。赤い海と東の地の間にある川の彼方の地は,所々にある草木が犇めく秘密めいた土地を切り取った様にその周りを壁で囲んだ数々の土楼が群がっている。土楼は一つ一つが独立した城郭都市で、外敵からの侵入や攻撃を防ぐため壁は厚く作られ、またこの壁は住居する空間と繋がっている為人が住めるようになっている。一つしかない狭く小さい入り口を潜り薄暗い灯篭が掛けられている廊下をぬけると、そこには畑や灌漑がまるで庭園の様に美しく広がっている。今は翠土の季節で、寒く誰よりも狭量で命を奪い続ける、夜しか訪れない白土の季節がやっと終わり、暖かく誰よりも寛容で実りを分け与え続ける。しかし、美しいのはそこだけが生命の存続を許すからで、逆に、この大地一帯はある一定の場所だけしか美しくない。その美しく実りを産む場所を守るのが各土楼に住む家族である。実りを与える土地の大きさで土楼の大小が決まる。カの地の家族とアの地の家族は古くからこの地に住み、土楼の数と大きさはミの地の家族、シの地の家族、への地の家族よりも多い。
人になる儀式は7歳になった子供が行う決まりだ。子供だけで白い塔に行かなければいけない。ようやく白土の季節が終わり土楼の外へ出られる日々が訪れたのに、ア・ムルグは部屋の一室にある小さい窓から外に広がる平野を眺めていた。言葉を覚えてから繰り返された呪文の様な文言、土楼群から離れた場所に位置する底のない水たまり、その横にそびえ立つ塔に住む亡霊の話を聞いて帰ってこなければ、人として認められない。
「あ、あぁ・・・」
両手で喉を包み込みそこに起こる振動を確認するが、振動は声となる事はなかった。自分以外の人間が発する声もア・ムルグには聴こえない。自分の心臓だけがこだまする静寂の中で、口の形、表情、体の動きから聞こえない言葉と、言葉の裏にある人間の内側を読む事を覚えた。普通の会話が成り立たないと知っている年の近い子供達は年相応ではない態度の子供に近寄ることはなく、また大半の大人たちは訴えかけるでもない沈黙した目視で顔色をうかがう少年を忌避し、ア・ムルグはアの地の家族の最年長である婆様の傍で過ごすことが多かった。皺くちゃな手で頭を撫でながら遠い昔に起こった記憶を語る老婆は、声無しと呼ばれる少年にも決して優劣を付けることがなく他の子供達と同じように接し、ア・ムルグが言葉を理解していると知ってる数少ない理解者だった。婆様からも幾度となく儀式の意味、内容、場所を伝えられているが、翌日に迫った儀式を前にして、その顔は不安で曇っていた。
老婆は暗い部屋に一人座って外を眺めているア・ムルグにゆっくりと近づき、窓の横にある藁はり椅子に腰を下ろした。その体重を乗せた藁が軋むが、その音はもちろんア・ムルグには聞こえなかった。しかし、人が起こす気配が失われることはなく、ア・ムルグが座った老婆を見下ろすと、袖が蒔くれて現れた細い手が少年の顔前に出され、出された手を前にして少年はその小さい体躯を屈め、自身の頭が撫でられると共に囚われていた不安の沼から顔を出した。彼を見つめる老婆の目はうっすらと白く、過ぎた年月を表すかのような錆びたしゃがれ声で彼の名前を呼んだ。
「ムルグ、アの地の家族の子供よ。明日がその日だ。大丈夫。お前は帰ってこれる。お前は人になれる。」
頭に置かれた手が輪郭を伝いふっくらとした少年の頬を撫でた後、そして心臓の上に来たところでその動きを止めた。その手は優しく心臓の上を二回叩いた。大きな瞳からこみ上げた気持ちが零れそうになり、それでも泣きそうな顔を見られまいと、ア・ムルグは顔に力を込めて、婆様に向けて言葉を返した。
『婆様、私は明日人間になって戻ってきます。必ず戻ってきます。』
言葉が紡ぎ終わると老婆の手はア・ムルグの心臓から離れていった。体躯をいささか曲げて藁はり椅子から立ち上がり部屋を出ていく老体を見送り、婆様との会話はそこで終わった。
5人の少年少女達は遠くに見えていた白い物が教わっていた塔であると認識できる距離までくると、その足を止めて辺りを見回した。翠土の季節に入った平原は色とりどりの緑で埋め尽くされていたが、黄色や赤色、橙色に染まった花群れを所々に散りばめていた。蝶達は軽やかに三色の上を飛び回り、蜂達は混じりけのない一色の上に居続けた。カ・ケシュは誰よりも早く来た道を振り返り、そこに平原があることを確認した。これから歩ていく道へと後ろを向いた体を前に戻し、もう少し先が見えないかと背伸びをした。一番乗りで地平線の中に白い物を見つけたのはカ・ケシュだ。同い年だが5人の中で年長の髪の短い少年は、自信に満ちた声でそれをペドレイアだと連呼した。一番古いとされているカの地の家族の土楼の壁には、ペドレイアなる純白石を切り出せる大地があったと記されている。今のところ歩きながら見渡した平坦な大地には、建物に使えるような岩や石の採掘場をカ・ケシュはとうとう見つけ出すことが出来きずにいた。
白い物が次第に大きくなり彼らに迫っていく中で、よりはっきりそれが塔だと認識できるまでに時間が掛かった。人になる儀式が白い塔で行われる事を誰もが知っている。ただ、彼らが想像の中で描いていた塔は土楼の周りにあるいくつかの太い木で組まれた高見台であり、土楼の建築に使われる木や土や小石の様な材料で出来ていた。ア・ムルグはその表面を触りながら、塔が木で出来ていない事に驚き、土楼に使われる土ではないと言っていた婆様の言葉を思い出した。カ・ケシュはしきりにペドレイアだと繰り返すが、ア・ムルグの横で同じく表面を恐る恐る触っているシ・サセス、ヘ・ツンフ、ミ・ルシャの3人は暗い顔でお互いを見つめた。3人はこれがカの地の家族の土楼の壁に記されたペドレイアで出来ているかどうかはどうでもよく、このよく分からない物に入らなければいけないことに、より恐怖を感じていた。
塔と呼ばれるなら隙間なく積み上げられた白い岩のどこかに出入りができる扉があるはずだ、ア・ムルグは入り口を探すために歩き始めた。同年の少年少女は先頭に立つア・ムルグを追ってその塔を一周した。ア・ムルグは扉や窓の様な外と内を繋ぐ隙間を懸命に探しながら歩いた為、その後ろに続く4人の顔色が変わるのを見逃していた。虫も殺さぬような足取りで数歩歩いては止まるを繰り返した結果か、それとも、元々の短気な性格が顔を出したのか、カ・ケシュがア・ムルグの肩をつかんだ。
「ムルグ、さっさと歩けよ。一応、お前が俺達を導く者として選ばれたんだ。この儀式が終わらなければ家に帰れないんだからな。まったく、なんで長老会の婆様達はこんな声無しを選んだのか」
ア・ムルグは掴まれた肩に痛みが走り無音の悲鳴を上げた。それと同時に、カ・ケシュの大きく開かれた口が彼を捲し立てる様相を前に、自身の行動の何かが怒りの対象であることを理解した。声無しでもアの地の家の子だからね、長い髪を束ねた少年の囁く声がカ・ケシュの声に交じって見えた。昔からある家には逆らえない、声無しの癖に、他の少女二人が先に発した少年の声に同調したのも、ア・ムルグは見落とさなかった。他の人間と違う事が、怒り、暴力、拒絶、忌避、増悪、負の感情に晒される理由になる。手負いの動物がいれば、屍になるまで待つ巧妙で臆病な動物もいれば、圧倒的な勝者としてその鋭い嘴で死の宣告をする動物もいる。それは草原の理だ。産まれてから指で数得られる年月しか生きていないア・ムルグには、彼を取り巻くそれがまるで人間の理であるように思えて仕方がなかった。
ア・ムルグはカ・ケシュの手に掴まれている肩とは反対の手で、カ・ケシュの手を2回優しく叩き、全員の目を覗き込んで優しく微笑んだ。カ・ケシュの手がア・ムルグから離れると、ア・ムルグは辺りを見回し、傍に落ちていた枝を拾った。4人は声無しが文字を書く様子を静観し、地面に書かれた「入り口を探している」の文字を読んで、初めてア・ムルグの不審な行動を理解した。怯えながら歩いていた彼らは、出入りが可能な扉や戸の存在にさえ気が回っていなかった無知さ、それによって募らせたア・ムルグへの無意味な憤慨を、今度は無言のまま飲み込んだ。
「初めから言えよ」
4人はア・ムルグと同様に白い壁を探し始めた。やっとでたカ・ケシュの言葉にア・ムルグは目を細めるも、危険もなく塔を一周し終えて、思考に余裕が出たのだろうか、否定的な態度が軟化したと受け取ることにした。
ア・ムルグは白く冷たい表面を触りながら考えた。この白い岩がこの川の彼方の地のどこかにあるのか、それともまったく別の場所から持ってきたものなのか。仮に白い塔の材料がカ・ケシュの言うペドレイアだとしても、どの様な加工方法を駆使すれば傷もなく顔が映りそうな程滑らかな表面を作り出し、どの様な建築方法を使えば空にも届きそうな長方形の塔を隙間なく積み重ねられ、どの様に保存すれば石の風化を抑え苔さえ生えない物がこの草原に存在できるというのか。塔をまた一周し終わり同じ場所に戻ってきてしまった4人の横で、明らかに自然の摂理に反するこの塔は、世界の摂理に反する事がないのだろうとの確信がア・ムルグにはあった。
長い白土の季節にア・ムルグの話し相手になってくれるのは婆様しかいなかった。婆様に頭を撫でながら聞かされた「チョンテの冒険譚」。砂漠の中にある拝所、海底にある廃棄場、荒野にある要塞、森にある助産院、草原にある葬儀場、一羽の赤いチョンテは時間を越えて海内を飛び回り、存在するとされる世界の落とし物を探し出す物語。チョンテが迷い込んだ荒野にそびえたつ要塞は白く四角い。空の奥へと進むための階段がその中に眠っている。その扉を開ける為の言葉をチョンテは要塞を守っている宿敵のチヨから勝ち取る。勝敗が確定し、“○○○○○○”とチヨから吐かれた言葉には、無くした物と敗者、二つの意味が混在し、チヨの皮肉が込められている。
世界の落とし物を探すチョンテ。チヨはチョンテに何と言ったのか? その言葉がア・ムルグの脳裏に蘇った。
“ペルディード”
口から言葉が出たのか、頭の中にその言葉が浮かんだのか、それは同じ瞬間に行われたのか、掛かっていた鍵が外され積み上げられた白壁が太陽のように輝いたかと思うと、5人を前にして突如としてこの建物が“扉”を創り出した。川の彼方の地に伝わる冒険譚には扉を開けてすぐ空へと続く階段がある。チョンテは一段登るにつれて、その都度、下への階段が消えていく様子を横目で見続けた。決して振り返ることをしなかった。
どこか正常ではない感覚で入ることになったその空間を表す言葉を5人はとうとう見つける事が出来なかった。シ・サセス、ヘ・ツンフ、ミ・ルシャは押し黙ったまま、その場に立ち尽くした。3人にとって塔の周りをカ・ケシュとア・ムルグの後ろについて探すまでは良かった。扉を探すと言い出したのはア・ムルグであり、カ゚・ケシュが先導してその扉を探していた為、扉の所在に対しての責任は3人には及ばない。扉が無い事は人になる儀式の失敗を示すものではなく、ここに辿り着く事こそが儀式であったのだと思い始めていた。もともと存在しない物を見つけることは出来ない。試練を無事乗り越えたと思った矢先に現れた存在してはいけない扉は、3人にとって実に都合が悪かった。そんな3人の思惑とは裏腹に、カ・ケシュは怪しい微笑みを含んだ目で扉を見つめていた。
ア・ムルグは開かれてしまった扉の中に入ると、塔の中央にある階段へ向けて歩き出した。カ・ケシュは何も言わずア・ムルグの後に続いた。シ・サセス、ヘ・ツンフ、ミ・ルシャも同じ様に二人の後を追った。塔の内部は思っていたよりも狭かったが、外から見ると薄暗かった内側は中へ入った瞬間に一部の壁が照り出した。その明かりは塔にある物理的な造りを全て洗い出すのに役立ったが、階段と繋がった天井をはっきりと捉えたア・ムルグの心臓を照らすことはなかった。今まで見たことのない、想像の果にある、まさに常軌を逸した、空へと続く階段を上った先にチョンテが目にしたであろう世界は、ア・ムルグの世界にはなかった。ただ、ただ、その真実が心臓に響いた。