川の間の国とアウルム
川の間の国は地形的・地質的利点を最大限に考慮した形態で農業を行っていた。品種の改良や灌漑の利用を積極的に国は推奨し、農業から産み出された莫大な利益は国民を農業の労働から解放した。国民は高度な教育を受ける時間を衣食住と共に保証され、空いた時間を自由に使うことができた。国は安定し安全で、生産された作物を川の外に住む人々へ売買する交易の拠点としての機能を果たした。商人によって川の外からもたらされる知識や技術を買い取り、国民はそれを土に記録し、制約がない財産を手にしている人々は齎された知識や技術をさらに発展させせることに時間を費やし、それをまた土に記録し、その記録を売って国は更に富んだ。産まれる欲に限度はなく、その中でも突出した所有欲を満たすことがこの国を拠点にしている商人には求められた。
小太りの男は価値を創る商人ではない。冒険譚を編む勇ましい商人でもない。約束の期限の前、封鎖的な町に訪れる数少ない娯楽と資金を運ぶ陽気な川の間の国へ行き来する仲買人のアプールをいつもなら歓迎する人々は、彼のダートに乗った未知の来訪者に戸惑った。足が遅いダートを連れ歩く理由は、人間の大男が積み荷であっても頑丈なその小体に積める事と類まれな嗅覚と聴覚は想像力の脆弱性をついた厄災を嗅ぎ分けるられる事。従順で驚くほど繁殖も容易い。数人の手に支えられハビオンの体はゆっくりとダートからおろされた。失血はしていないが赤く膨れ上がった右足が地面に着いたと同時に聞こえた痛々しいうめき声に、この状態で砂漠を乗り越えることは出来ない、それは誰の目にも明らかだった。
蒼珠の生産で成り立っているコムの町は出会う者への感謝と互助という砂漠の民の教えが未だに残っている地域でもある。値段交渉の融通が利くアプールと彼が懇意にしてる怪我人を天秤に掛けるまでもなく、ハビオンの滞在が決まった。
「それで?命を懸けたんだ、待ち人には会えたのか?」
「旅立った後だった。私はそこに居合わせることが出来なかった。」
「そうか。神の導きがなかったか。」
「神の導きはあったさ。君が私を見つけてくれた。テ・ディート,アプール。」
サリーン峡谷の奥にあるとされる白石の神殿に待ち人が落ちている、川の外では試練の先にある幸福を謳った有名な伝承で、川の間の国にもこの伝承について多くの記録が残されていたが、実際に待ち人を連れ帰った者の記録は皆無だった。砂丘に囲まれた峡谷の入り口に辿り着く事が第一の試練であること、それ以外は記述者によりけりで、第二、第三の試練を論じた記録も存在する。夢で見なければ、神託だと言われなければ、ハビオンとて舗装もない灼熱に身を投じる様な真似などしなかっただろう。
義務的に注がれた光の断片は人一人がやっと歩ける赤い崖肌と降り積もった砂に微かに残る足跡を照らしていた。所々深く沈む自身の足を引っ張りだし、よろける肢体に力を入れて、前を見据える挑戦者まがいの男。進むごとに道幅は狭くなり、断崖が頭を掠めていった。どのぐらいの時間がたったのだろう。かなり奥まで入ったと思うが。途中、数人が同時に立てる空間に出くわすこともあった。断片的に入ってくる陽の光に照らされた崖肌は、入り口のそれよりも赤黒く物寂しさが漂っていた。どこまで続くのか。果たしてたどり着けるのか。そもそも、正しい道を選んだのか。何度も同じ問いが頭を掠め、否定的な感情はいつも心臓を支配しようとしている。崖の隙間に体を押し込み前進しようとすればするほど、目の前には薄暗い絶壁がある。疑え、疑え、疑えと、自身の心臓以外、援護をするものはない。目を瞑って心臓を凝らさなければ、見え隠れしている希望に届かない。
辿り着いたと思ったのは、読んだ記録と一致したからじゃない。凹凸のない擁壁と見間違う崖を眼前にし,息を吞むごとに心臓の鼓動が指先まで駆け抜け、身体から溢れる熱砂以上の火照り、その熱さに身震いしたからだ。鉱石を扱う仕事柄、地の層や石の肌を見て回るハビオンが、自然起源の道を歩き続けて辿り着いた先、指先で確かめた感触は研摩後に現れる軟らく滑らかな宝石と似ていた。これほど人為的な表層だと思ってもみなかった。伝承は正しく、まさに神殿の存在を認めざる得なかった。道は、もう、続いてはいなかった。
高鳴る心臓を差し置いて、日は落ち続けた。ダートを鞣した布袋から火打石と化石樹を取り出し、火を入れることにした。石に化けた木、化石樹は小さな破片でも燃え尽きることがなく、何度も使うことができる。濡れて使えなくなる事もないとても便利な火源を旅人はこぞって携帯している。火打石を軽くこすると細かい火花が散り、化石樹の真上に落ちた。音もなく化石樹に火が引き込まれた。暖かい。冷たい神殿に背を向け、体が自然に温まるのを待った。心臓も幾ばくか落ち着きを取り戻した。フェルームの器、水袋、穀物を粉にして焼いた硬い携帯食、塩、乾燥したデーツ、小さい布を布袋から取り出した。フェルームの器に水を入れ火にかけ気泡が出てくるのを待つ間、携帯食を布に包んで手に力を入れ粉々にした。沸騰した水に携帯食と乾燥した果物をいれた。入れた水が素早く吸収され、本来の柔らかさと香ばしさが戻り始めた。底が焦げない様にゆっくりフェルームの器をかき混ぜながら塩を少々入れて味を調えれば、砂漠でもまともな食事にありつける。火を入れた化石樹は煌々と辺りを照らし続けるが、眺めるだけで時間が過ぎていった。
大昔、この地は木々で埋まっていた。そう記した古い記録があった。誰もそれを信じていなかったが、先人が残した知識を信じなかった私達を後世の人々が信じるのか甚だ疑問だが、
歴史が変わるような悪夢の洪水で崖が崩れた際に現れた黒い地の層からその証が出た。外側は赤黒く内側は不純物が混ざった石によく似ている。純粋な単色を好んで宝飾品を作る川の間の国の住人は大量に出でてきたこの石に興味を持つことはなかった。色の違いを楽しむ一部の愛好家が買う程度で、売買の記録も殆どの場合残される事はなかった。
川の彼方の地から来た商人が大量に買いって行くのを見ていた装飾職人が偶然不思議に思い言葉をかけた。
「貴方達は多色の宝飾品を好むのですか?そんなにその石を買って。」
「化石樹のことですか?」
「化石樹?そちらではそう呼ばれているんですか。ここでは名前も付かない捨て置かれた石なんです。一部の客から首飾りの細工に使用して欲しいと依頼を受けたのですが、どうも硬くて扱いにくい。しかも力を入れすぎると粉々になってしまいましてね。結局、何も作れなかったのですよ。」
「そうでしょうね。これは木が時間を掛けて石の様に硬くなったものなのです。ですから石の細工ではなく、木の細工だと捉えたらよかったと思いますよ。まぁ、私達はこれを暖を取るのに使用しますので、詳しい細工の仕方は分かりませんが。私達の地は白土の季と呼ばれる身を切るような寒い期間が長く続きます。ここの様に外に水を置いておくと、凍ってしまうのです。化石樹はその様な寒さから私達を守ってくれるのです。」
「こんなに硬いものが木なのですか。驚きました。それで、これでどうやって暖をとるのですか?」
「お見せしますね。化石樹をここに置きましょう。火傷をするような熱は出さないですけど、安全対策にね。この上で火打石を擦ってください。そうすると、ほら、ね、簡単に火が灯るんですよ」
知恵はどこからもたらされるか分からない。知識の限界に辿り着いたとの傲慢が川の間の国にはあったのかもしれない。川の彼方の者達からしてみれば、私達は遥かに限られた行動範囲の内側をうろついていただけに見えただろう。私達の地図には川の彼方の国は載っていない。記憶媒体が違うのか、彼らからの情報は伝わってこないし、残ってもいない。私達にとって彼らはそれだけ離れた存在だった。今思えば、彼らが私達と同じ言語を話す民族なのか疑っても良かったはずだが、私達が投げかけた言葉が投げかけた通りの言葉で帰ってくる、言葉が通じるていることに安心しきっていた。言葉を習得し、命を賭してわざわざこの地まで来て化石樹を買い付けていく事の重要性を私達は深く思考しなければならなかった。水が凍るほどの寒さを凌がねばならない彼らにとって必要不可欠だったからこそ知りえたこの知見。私達はこの知識が存在しなくても幸せだったと言えるだろう。しかし、陥れてまでも彼らから強奪した知識の恩恵を受ける私達は以前の生活水準には戻れない。砂漠の夜をより安価で安全に過ごす方法は新しい莫大な交易を産み出した。長い間、無謀であり試練でもあったサリーン峡谷の神殿到達は、化石樹のお陰で希望と呼べるものに変貌した。私達はこの代償を払うときが、きっとくる。世界は知っている。砂漠では誰からも何も奪ってはいけない。唯一無二の法則を冒涜した私達を世界は見逃さない。全ては自分達に返って来るのだ。
サリーン峡谷の奥、この先に続く道がないと何度も確認したが、それは身の危険が完全に取り除かれたわけではない。神殿には誰でも入れる。商人、砂漠の民、流れ者、盗賊、ダート殺し、ハビオンの様な挑戦者が訪れる事だってあるだろう。そして、そのどれかの人物が本当の意味で友好的であるのか見極める術がない状態で、不寝番を怠ることは命を蔑ろにしたとアプールに激怒されるだろう。旅人の掟は心臓に刻んである。それでも、満たされた食欲、疲労が溜まった体、化石樹はその物質が内包する煌きでハビオンを包むと、腕を組んで縮こまった体に深い眠りと希望で揺れる心臓に癒しを与えた。ハビオンは夢を見た。木から落ちそうになっている熟れたデーツで埋め尽くされた様な鮮明な赤橙の壁、太陽の光と相まってこの場所は神々しい。その中で妻と子供が笑っていた。伸ばした手の中に彼らは戻ってきた。触れ合った先に存在する、忘れていた人間の体温の暖かさ。
静かで長い夜は過ぎ、薄く差し込んだ朝日が燃え尽きることない化石樹を照らし更に輝いた。いつの間にか眠りに落ちていたハビオンの目にその光が差し込んだ。瞼をゆっくりと開けたその先、静寂で満ちた神殿、彼以外の息遣いが聞こえる事もなく、来た時と同じ様相であった。試練を越えたはずの彼を待つはずの待ち人は、遂に現れなかった。
「こんな神の導きはこりごりだが、この砂漠で何度も出会える私達は本当に縁がある。それは私の心を熱くする。テ・ディート、ハビオン」
落ちるはずのない峡谷の崖から落ちたハビオンをアプールのダートが見つけ出さなければ、男はあのまま砕けた足の骨の上に時と供に積もっていく砂に呑まれていただろう。希望が途絶えたこの男は抵抗もせず埋まっていた。アプールは必死に無意識の肢体を掘り出そうとした。手が焼けた。膝が焼けた。ハビオンの墓を掘っているのか、ハビオンを墓に埋めているのか、掃っても掃っても砂は戻ってきた。汗のように時間が流れた。この労働の対価をどうこの男に払わせようか。掘り出した男を前に、男らしさを否定する、涙が止まらなかった。足を畳んで座るダートでできた日陰の中に砂だらけの旧友を寝かせた。
叩かれた頬の鈍痛と野太い男の大声が耳に刺さる苦痛とが相まってハビオンは意識を取り戻した。剃るはずではなかった、今は無い髭を撫でながらアプールは男の顔を覗き込んだ。情報とは名ばかりの噂話や逸話を山ほど頭に入れ、それを上手い事出し入れして風習が違う地で商いを成功させる彼の昔からの癖。何より手入れに時間を掛けていた髭がまさか首の皮膚を腐らせていることに気付いた時、誇りを削り落とす苦渋の決断をした後も染みついた習慣は、過ぎる時間と比例し押しつぶさんとする砂圧に死を覚悟した彼を安堵させた。