血と肉と約束と
イシュメールに宛がわれた一室で、リーチは静かに寝息をたてていた。イシュメールとジェイムズの晩酌は深夜まで続き、起きていられなくなったリーチは先に床に入っていたのだ。そんなリーチを、血相を変えたイシュメールが慌ただしく揺り起こした。
「おい、リーチ!起きろリーチ!」
リーチは寝ぼけまなこをこすって目を覚ました。窓から見える景色はまだ暗かった。
「こんな夜更けにどうしたのイシュメール?」
「ホーガンが護衛していた荷馬車が怪物に襲われた」
冷や水を浴びせられた様にリーチはベッドから飛び起きた。
「ホーガンは腕がたつが、怪物の力量がわからん以上、こうしても居られん。俺はホーガンの救援に向かうから、リーチも着いてこい」
「僕もいくの!?」
リーチの頭の中で狼憑きに襲われた時の情景がフラッシュバックした。
記憶の奥底に根差していた恐怖がよみがえり、リーチはどうしても気が乗らないようだった。
「普通の怪物は群れて行動する獲物を狙わんが、今回の怪物は護衛を引き連れた荷馬車を襲った、稀にいるイレギュラーな行動を取る相手だ。俺が家を出ている間、リーチが襲われない保証はない」
イシュメールはリーチの頭に手を置き子供を慰めるように「俺のそばが一番安全だ、わかるな?」と説得した。
「うん。わかったよ」
二、三度歯噛みした後、リーチはベッドから降りて支度を整えた始めた。それを確認したイシュメールもすぐに戦闘準備を整え始める。居間の一角に据えられた引き戸から薬瓶を漁っていたが、目当ての代物が見つからないらしく、低い声で毒づいた。
「どうしたの?」
「毒蜥蜴の毒液を使いきっていたらしい…」
「毒!?」
仰天したリーチは目を回しそうだった。
「怪物と戦う時、剣に塗って使う物でな。今回は無しで行くしかないようだ」
「大丈夫なの、いつもその毒を使ってるんでしょ?」
「相手がフェイズ3やフェイズ4でなければ問題ないだろう。俺が狼憑きを相手した時は毒を使わずとも退けただろう?」
イシュメールは自信たっぷりに背中に剣を回し、くくりつけた。
確かに怪物がフェイズ2であればイシュメールは明言したように圧倒してみせるだろう。しかし裏を返せば怪物がフェイズ3以上の強敵だった場合は勝てる保証はないという事になる。リーチが心配そうにしていると、イシュメールは、自分が用意していた剣よりも小ぶりな剣を差し出した。
「もしもの時の為にお前も持っていろ」
リーチは柄を掴み、鞘から剣を引き抜くと鋭利な光を放つ刀身があらわになった。「今まで使っていた竹刀とは一味違う、真剣だ。これからはお前も持っていろ」イシュメールはそう言って玄関口の方に手招きした。
リーチは深く頷いて、イシュメールを真似して背中に剣をくくりつける。
二人は玄関から大戸を通り抜け眼前に広がる広大な森の影に踏み込み始めた。
『ウノ・ドレス・イシュドラ』
呪文唱えたイシュメールの印から、炎の球体が飛び出した。「ランプのルーン、明かりで照らしてくれる、では行くぞ」そう言ってイシュメールは暗闇の中を駆け抜けた。ランプのルーンはイシュメールのすぐ後ろを人魂のように追いかけ、リーチはその光を見失わないように後を追いかけた。イシュメールは後ろを走るリーチを気にも止めずぐんぐんペースを上げていく、異世界に来てから、みるみる内に体力を付けたリーチだったが、イシュメールには及ばないらしく、置いていかれないようにするのがやっとだった。
紫のシダを踏み越え、鹿の群れを通りすぎ、早くも朝露が降りた芝を駆け抜ける、やがてイシュメールが足を止めた。
「どうしたの、イシュメール?」
息もたえだえにリーチはイシュメールに追い付いた。
イシュメールのすぐ後ろまで近付いたリーチは、イシュメールが見つめた視線の先を追って、あっと、悲鳴を上げた。
そこには、おびただしい数のハゲワシが身動ぎ一つ取れなくなった人物にたかり、仕切りに肉をついばんでいた。
「ジェイムズさん!」
リーチは剣を抜いて、ジェイムズにまとわりついたハゲワシを追い払い、至るところに傷を作ったジェイムズ抱き起こした。
「リーチ、もう無駄だ…」
イシュメールが力なく言った。ジェイムズの体にはハゲワシに食いちぎられた傷の他に深い裂傷と、怪物に食いちぎられたのであろう、左腕から先が欠けていた。
「傷は酷いけど、でも…!!」
リーチは涙声で訴える。
「傷ではない。魔素が漏れている」
リーチはもう一度ジェイムズの体に視線を送る。目を凝らすと玉状の青白い光りがそこかしこに見てとれた。リーチは青白く光るホタルがジェイムズの体にまとわりついているのだと思ったが、光はジェイムズの体から漏れてきたものだと気が付いた。
「それが、魔素が可視化したものだ。ここからどれだけ急いでも麓の街まで数時間はかかる。それまでホーガンの命が持つことはないだろう」
イシュメールはジェイムズの傍らに出来た足跡に目を落とす。怪物の物であろう足跡を見聞すると、イシュメールはジェイムズに目も向けずに再び歩き始めた。
「待ってよ。ジェイムズさんを置いていくの!?」
イシュメールの常軌を逸した行動にリーチは動揺して声高に叫んだ。
「友達だったんだろ。また、ハゲワシの餌にされても良いの!?」
「今すぐに、怪物を追いかけて仕留める事が出来れば、ホーガンだけで被害を食い止める事が出来るだろう…」
「そうかも知れないけど…でも、そんなのってないよ!!」
その時、リーチの声に反応してジェイムズが呻いた。
「おお…来てくれたか…」
ジェームズは弱々しくリーチを見上げた。激しい息切れをしたかと思うと、全身を屈曲させて、口から血を吐き出す。リーチは泣き出したい衝動を必死になって噛み締めた。
「イシュメール…ああ…お前なら、来てくれると信じてたぞ…」
ジェイムズはリーチの肩に右手を置いた。既に視覚も定まらないのだ。
「ジェイムズさん、しっかりして下さい!」
リーチはジェームズの身体を揺すった。けれどもジェイムズはあらぬ方向を向いたまま、リーチとの目線は一向に合わさらない。
「相手は、熊憑きだ…俺を倒して、荷馬車を追いかけた、わだちを進めば熊憑きを追えるはずだ…」
イシュメールはジェームズには目もくれず、わだちを指で擦って確認すると「行くぞ」と冷酷に言い放った。
リーチは何度も俊巡した後、ジェイムズを傍らに寝かせた。イシュメールは既にわだちを辿り始めている。
「…待ってくれ、イシュメール」
うわごとの様にジェイムズはリーチの手を掴んだ。当のイシュメールにはこの声は届いていない。リーチはイシュメールの代理人として、耳をそばだてた。
「熊憑きに手を食われた時に…ナタリアとの結婚指輪も、一緒に食われちまった…あれは俺の…宝なんだ」
妻の事を思い出しているのだろう。苦痛に歪んだ表情が少しだけ和らいでいた。
「お願いだ…あの指輪を…取り返してくれないか…?」
リーチはジェームズの手を両手で包み込み「任せて下さい、必ず取り戻してみせます!」力強く明言した。
「はは…やっぱり、お前は最高の…親友だぜ」
手の内から伝わる力が、少しずつ弱まり、やがて最後の魔素の光がジェイムズの体から飛び立つのを確認すると、リーチは静かにその場を後にする。
すぐにイシュメールに追い付いたリーチは、「僕も怪物と戦わせて」と口にした。