帰還
想像していたよりも遥かに穏やかな山の道のりに、リュシアン達は拍子抜けしてしまっていた。行く手を阻む敵や動物は出てくることもなく、道はまったく険しくもない。
「………もっと、難しいと思っていた」
セリアやキャロンの後ろに続いていたジェラミーが、馬に乗ったまま辺りを見回している。
彼の呟いた言葉を聞きとめたキャロンは笑う。
「もちろん、姫さまの同行者という肩書があるからですよ。何も知らずに入れば、決して先へは進めません。もちろん、戻ることも、保証しかねますけどね」
さらりと恐ろしいことを言われたような気がする。
決して笑えるような話ではないことを笑顔でいった少女に、男性陣は気を引き締めつつ、彼女達とはぐれることがないように緊張に手綱を握り直した。
「僕達はどこに向かっているの?」
「オーリンピオスは本当の名をオーリンピオス山脈という。私はその中でも神々の住まう神殿のあるオーリンピオスに向かっている。そんなに遠くではない。もうその麓にいるからな」
300年間、人の手の加わることのなかった山は、澄んだ空気と生きた植物で溢れていた。
木々に囲まれた山道を幾つか超えた所で、剥きだしになった岩の道を上がっていく。木々が無くなり、視界を遮るモノがなくなった所で、どれだけ自分達が高い場所にやってきたかわかる。
すぐ下に見えるのは自分達が通ってきたであろう木々の生い茂った山道が広がっている。
その先にはミネルバ家が所有する湖や、城下街。国でも大きさを誇るミネルバ家の屋敷でさえ、親指程度の大きさにしか見つけられなかった。
オーリンピオス山脈の他の山々も向き合いようにその姿を見せていたし、その上に見える、どこまでも広がる青い空は圧巻だった。
遠目から、険しい崖を上手い具合に上っていく山羊の姿も見える。
味わったことのない解放感に放心状態になってしまったリュシアンやジェラミー、そしてノアを、誰が責めることが出来よう。
鎖国染みたイリーオス国はその国を山と川で囲まれている。
双子の騎士達は修行という名目で何度も山の中へ入ったことがある。ノアも、趣味や偵察で山には何度も足を踏み入れていた。
しかし、この光景が見えるほどの高さのある山は、この国にはない。
「おい、置いていくぞ」
気が付けば、セリアとキャロンが岩の右側に進むように姿を消そうとしていた。
急いで後に続く。
「ここ、は」
右手に入った所で、先ほどまで歩いていた岩の気配が一瞬にして掻き消えた。
あるのは、開けた草原と囲むようにして見える森の木々達。そしてその先に佇むさほど大きくはない白の神殿のような建物のみ。
建物と言っても、幾つかの柱が並んでいるだけで、外と中を遮るモノはないもない。
「ここが、神殿だ。選ばれた者達のみが入ることを許された、オーリンピオスの秘宝」
神殿の傍に馬を付けて、セリア達は地面に降り立つ。
彼女は無言でノアの運んできた荷台の棺に近づき、その蓋をゆっくりと開ける。
セリアは、リュシアンに、その身体を運ぶように願い出た。
見れば、何もないと思っていた神殿の中に、小さな台を見つけた。
緊張に身体を支配されながら、リュシアンは棺に近づく。
美しさを残したまま、目を瞑っていてもわかる絶世の美女がそこに眠っていた。
息を呑んでその姿を見つめる。震える手を見せないようにその遺体の膝の裏と肩に腕を差し入れ云われるがままに台の上に運んだ。
その際、深い想いを込めた視線が自分に注がれているのがわかった。それが、誰のものかもわかっている。
事情を知った今、新たに感じる想いもあった。
けれど、今はまだ何も言わない。
リュシアンが離れて、セリアが前世の自分の前に跪いた。キャロンもその隣に寄り添う。
「あぁ、やっと帰ってこれた」
泣きそうな声音の彼女は、昔の自分に穏やかに語り掛ける。
「ようやく、です。お父上や、お兄様、民達がお待ちですよ」
キャロンもまた、零れ落ちる涙をそのままに笑顔で主に語り掛けた。
夢にまで見た、最期が、ようやく。
リュシアン達は、そこに踏み入れてはいけない境界線を見つけて、ただ黙って見守るしかなかった。
跪いて祈りを捧げていた少女達が、一歩下がる。
まさにその瞬間、神殿の開いた部分から太陽の光が注ぎ込み、眠る『女神姫』を更に輝かしく照らした。
金色の髪が光に弾け、白いドレスが輝きに溶け込む。
「どうか、皆と共に、穏やかな眠りを」
今まで一度も涙を零さずにいたセリアの頬を、一つの雫が流れ落ちた。
「さらばだ」
『女神姫』の遺体が燃え上がる。
琥珀の色を纏ったその炎は暖かく、苛烈で、見ているものに心の強さを与えた。
最後に見えた『女神姫』の口元が、一瞬、弧を描いたように見えた。
遺体は、セリアの炎によってそう時間をかけることなく燃え尽きた。
あまりにも長い時を過ごしたせいか、炎が消え去った後に残ったものは何もなかった。灰さえも、あまりに小さく、到底掴みとれるモノではない。
「終わったな」
「はい」
「………よくやった」
心残りなどないと言わんばかりの、憑き物が落ちたような穏やかな顔で、セリアとキャロンは神殿の外に出た。
そんな彼女達を、ノアが労う。
ふと、セリアが何かを思い出し方のように表情で空を見上げ、そしてキャロンを見た。
「私が兄者にもらった、ネックレスを、覚えているか」
「………はい。あの時計型の、ですよね」
小振りの楕円型のネックレスは、一見少し分厚いだけの美しい細工の描かれたネックレスに見えるだろう。しかし、アイテール一族の紋章である不思議な模様の描かれた蓋を開ければ、そこにはきちんと秒針の回っている時計が付いていた。
主が肌身離さず身に着けていたものだ。忘れるわけがない。
彼女が眠るように亡くなったあの日も、確かにその胸元にあって。それを掴んで泣き叫んでいた皇太子を思い出し、思わず涙ぐむ。
「あれは、どこにいったのだろうな」
「確かに。………きっと、オーウィン様が、形見にと持っておられたのでしょう」
キャロンは、そう言いながら、一度もそのネックレスを目にしたことがないことに思い当たった。自分は、姫の亡き後、その兄皇子に仕えていたのにも関わらず、だ。
しかしそれは細やかな疑問で、彼女達はそこまで気にも留めずにその話は終了した。
すべては終わった今、ここに長居する必要もない。
セリアとキャロンは双子を振り返る。
今思えば、本当に不思議な縁で引き合わされた彼らだった。今も少し違和感はあるが、前世の護衛達と彼らは違う人物なのだと、素直に受け入れられる。
前世の同じ姿をした彼らに向けた想いとは違うけれど、確かに、特別な心を彼らに向け始めているような気がする。
「お前達にも、礼をいう。それと同時に、巻き込んでしまったことへの謝罪も。これからは、心穏やかな日々を過ごしてくれ」
明確な別れの言葉だった。
リュシアンの唇が引き結ばれる。
リアンではあり得ない表情に、セリアは困ったような笑みを浮かべた。
「短い間でしたが、楽しい日々を、ありがとうございました。どうぞ、お元気で」
キャロンもまた、ジェラミーに最後の言葉を送る。
もちろん、双子は、ここで終わらせるつもりはなかった。
唇を引き結んでいたリュシアンは、あの時、セリアを止めた強い瞳で彼女を射抜く。
「僕は、誰かさんみたいに、馬鹿正直に物事と向き合う事はできない捻くれた性格をしてるんだ。でも、最初から負け戦なんてするつもりはないよ。絶対に、君を捕まえてみせるから」
言い切った彼の言葉の意味が分からないほど初心でもない。セリアは思わず言い返す。
「な、何故だ。今の私にはなにもない。地位も、美しさも」
「そんなものに僕が惹かれたとでも?違うね。僕は、君の魂そのものに惹かれたんだ」
笑顔で言い切ったリュシアンを見つめていた琥珀の瞳が、大きく揺れた。
ジェラミーも、負けてはいられないとキャロンの方へ一歩踏み出す。
逃げ出そうと一歩下がろうとする彼女の手をすばやく掴み、矢継ぎ早に言葉を紡ぐ。
「俺の気持ちは、まったく変わらない」
「で、ですがわたしはあなたの」
「あなたが俺の祖先だろうが関係ない。これからも、あなたに伝え続ける。俺の愛を。だから、覚悟していてくれ」
「………おぃ」
完全に忘れ去られた存在になってしまったノアの頭上を、一匹の鷹が小さな声を上げて通り過ぎる。
神殿から空へと還るように立ち上る煙が、小さくなっていき、そしてそっと掻き消えた。




